中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

中士乙等留学生 葉雲表(1915)

先日見つけた華字新聞のデータベースから、中華武士会会長を退いたあとの葉雲表の動向について、いくつか興味深いことがわかった。まずは、どうやら二度目(三度目?)の日本留学を目指していたらしいこと。

専攻分野としては一回目の留学と同様に「商科」を目指している。1915年2月27日に行われたと思われる一次選考に参加した商科専攻希望46名のリストの中に、山口高等商業学校の同級生の林紹楠とともに名前が見えるのが興味深い(注)。

Shi shi xin bao (時事新報) 1915.02.26 — Late Qing andj8UNeQ$WyNmg Republican-Era Chinese Newspapers

 

3月3日行われた第二次選考には、このうち34名が参加している。葉雲表とともに、林紹楠も選考に残っている。

Shi shi xin bao (時事新報) 1915.03.03 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

時事新報4月8日の「辞令」では、留学生は甲、乙、丙の三種類に分類されていて、「商科」の日本留学希望者が最終的に何名になったのかはよくわからないけれど、葉雲表の名前は「中士乙等留学生」の中に見られる。林紹楠の名前は「上士甲等留学生」にみえる。なお、このリストをよく見ると、「中士乙等留学生」に、やはり山口高等商業学校の同級生「李其珩」の名前も見られる。

Shi shi xin bao (時事新報) 1915.04.08 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

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ただし、これで留学の資格を得て、実際に留学したのか、留学したとして留学期間、受け入れ先はどこかは確認できていない。これは、別途、日本側の資料を探す必要がありそう。

 

その後、彼は衆議院議員になっているけれど、議員としては、日本からの借款の使途について、北洋政府に説明を求める署名に名を連ねるなど、政府批判もしていたようだけれど、1923年には、北洋政府から叙勲(三等虎文章)されていることもわかった。

Minguo ri bao (民國日報) 1919.11.26 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

Minguo ri bao (民國日報) 1923.05.07 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

news.artron.net

 

30年代のはじめに山東省で郷村建設運動に携わっていたらしいことはわかっていたけれど、以下の記事では、利津県の県長として、視察に訪れた韓復榘省長を出迎えている。

Shi shi xin bao (時事新報) 1934.03.07 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

 

そして、検索ワード「葉雲表」でヒットするデータの最後の記事では、この利津県を含む近隣の諸県において、地元民と、開墾をすすめる墾務局の職員との間で衝突が起き、双方に重傷者が出る「空前の惨劇」になり、今後の対処について、韓復榘省長と協議して指示を仰ぐ予定、というところで終わっている。

Shi shi xin bao (時事新報) 1934.06.29 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

この事件は無事に収拾がついたのだろうか。

翌7月には、黄河の氾濫の恐れがあることを利津県長(記事に名前は出ていない)が省長に報告したという記事がでており、秋にかけて深刻な事態になっていることがわかる。 もしかしたら地元民と地方政府のトラブルの解決どころではなくなってしまったのかもしれない。

1936年9月の記事から、利津県の県長が薛汝華という人物に代わっていることだけはわかる。

Hua bei ri bao (華北日報) 1934.07.14 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

このあたり、もはや武術とは全く関係がないけれど、中国武術史に名を残し、日本にも留学した人だけに、その人としての生きざまはやはり気になる。

 

(注)

このリストの法科希望者の中に「張軫」とあるのは、中華人民共和国建国後、国家体育委員会委員兼全国民族形式体育運動委員会主任になったが、国術運動を復活させようとしていると批判された張軫その人? ウィキによると、1918年に保定陸軍軍官学校に進学し、その翌年に日本に留学したことになっている。

張軫 - Wikipedia

 

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