中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

藝術家唐越石

 この前、唐豪の1910年代後半から1920年代前半の活動(理由はおおよそ想像がついたけれど、書籍等ではほとんど紹介されていない)について調べていて気が付いたのだけれど、唐豪には唐越石という名前の弟がいたらしい。

 北京の国立美術専門学校の優秀な学生(高材生)で、舞台背景を専門に学び、戯劇協社および南国電影社の作品の背景を一手に手掛けるなど、芸術分野で活躍したようだけれど、唐豪が幹部の一人としてたびたび会議の記事で名前がみられる救国十人団が国技部を立ち上げた際、教員になっているところを見ると、武術の心得もあったのだろう。唐豪と同じように劉震南から六合拳を学んだのだろうか。(武術書籍で唐越石について触れたものはみた記憶がない。)

 

〇救国十人団国技部に関する民国日報の記事(唐越石の実際の指導期間は未確認)

 Minguo ri bao (民國日報) 1920.04.22 — Late Qing and Republican-Era ChineseNewspapers

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Minguo ri bao (民國日報) 1920.05.06 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

  

 その他にも、唐豪が校長を務めていた愛文義路毓賢高等小学校で、「広告図案画」を担当したり、1922年7月、会員の選挙によって唐豪が通俗教育会の会長に選出された際、唐越石は学嗣炳とともに「交際」を担当していたり、二人の二人三脚ぶりがうかがえる。 1923年の全国武術運動会では兄とともに開幕式の臨時職員として名前がみえるのも理解できる。

 

〇1922.2.11民国日報 愛文義路毓賢高等小学校の唐越石雇用に関する記事

Minguo ri bao (民國日報) 1922.02.11 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

〇1922.7.10民国日報 通俗教育会の会長選出に関する記事

Minguo ri bao (民國日報) 1922.07.10 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

〇1923.4.13時事新報 全国運動会開幕を翌日に控えた記事

Shi shi xin bao (時事新報) 1923.04.13 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

 唐越石は若手文化人としてはかなり多方面に活躍していたようで、時事新報には演劇改革や自由恋愛、結婚に関する署名記事が多数掲載されている。また、別の人の書いた記事の中で唐越石の名前がでてくる。

 その辺はもはやこのブログの守備範囲を超えてくるのであまり深入りしないけれど、彼の文化人としての活動は日本とも接点があったと思われるのは興味深い点。

 

 たとえば、内山完造も関与していたという支那劇研究会の中国側参加者として、塚本助太郎らとともに京劇の臉譜の検討をしていたようだ。その関係からか、谷崎潤一郎が訪中した際には、内山完造が内山書店の二階で開催した、当地で新しい運動を起こしている青年文士芸術家の一人として、田漢、郭沫若、欧陽予倩らとともに出席者に名前を連ねている。谷崎の「上海交遊記」には、谷崎が参加した集会で唐越石が歌を歌っているようすが記されている。また、同集会では、武術家の米剣華が双剣、欧陽予倩が撮影のために剣術を披露した様子が記されている。米剣華は、精武体育会が代表団を組織して天津の中華武士会と交流した際の一行に含まれ、そこでは少林拳を披露している。

 

 

谷崎潤一郎が内山書店を訪ねたのは大阪毎日新聞上海支局の村田孜郎の案内だったようだけれど、唐越石は1926年の5月に、同じ村田孜郎を通じて大阪毎日新聞の要請で、当時の中国映画の新作数片を携えて来日している。「映画評論家」として作品を解説することが期待されていたらしい。

 この来日が契機となったのかどうかはわからないけれど、翌27年に再び来日し、歌舞伎座で舞台背景の研究をする計画であったようだ。

 

〇唐越石の来日に関する記事

Shi shi xin bao (時事新報) 1926.04.30 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

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Minguo ri bao (民國日報) 1926.05.11 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

 このあたりは、武術を離れて、忘れられた日中文化交流の一コマとして実に興味深いけれど、彼は不幸にも帰国後まもなく、8月に腸チフスを患い、9月23日に急逝してしまう。

 

1926.9.24

藝術家唐越石の逝去を伝える時事新報の記事。上記の唐越石のプロフィールの多くはこの記事による。

Shi shi xin bao (時事新報) 1926.09.24 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

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 唐越石は4年後の1930年に上海公墓に場所を得て埋葬される。 埋葬時の記事によれば、

未刊行の「日游漫録一冊」が兄の唐豪のもとに保存されていたはず。この原稿はどうなったのだろう。

Shi shi xin bao (時事新報) 1930.05.13 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

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 その後の日中関係を考えると、周作人のように裏切者のような評価を受けずに早くになくなったのは彼の名誉のためには幸運なことだったのかもしれないけれど、このまま彼が日中交流を担っていたらどのようなことになっていたのか、残念に思えてならない。

 

 なお、共産主義者の嫌疑を受けて一時拘束された唐豪が、なんとか釈放された(朱国福の尽力があったとどこかでよんだ気がする)あと、日本に「留学」するのは1927年。弟が再来日するはずだった日本に足を踏み入れた唐豪は何を思ったんだろう。弟と交流のあった人達を訪ねたりはしなかったんだろうか。

 

 また、内山完造や塚本助太郎、村田孜郎にはそれぞれ著作も多いけれど、彼の知見はそれぞれどれくらい生かされているんだろう。

 

〇「重要西披分子」唐豪らの摘発を伝える民国日報の記事

 西披分子とはCP分子、Communitst Party の略と思われる。Communitst Group CG分子、という言い方もある模様

Minguo ri bao (民國日報) 1927.09.12 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

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2023年5月18日

谷崎潤一郎の「上海交遊記」に関する記述を追加。

原文は以下のとおり(記述は適宜改めた)。

〇唐越石が歌を歌う場面

日が暮れかかると、来会者はますます殖えて、どの部屋も人で一杯になった。もう腰掛けるところもないので、彼方の部屋から此方の部屋へ参々伍々に連って歩く。溜まりの間では誰かが胡弓の調べに合わせて、唄をうたい出した。人混みの間から覗いて見ると、唄っているのは唐越石君である。群衆の方へ背中を向けて、部屋の隅っこの壁に顔を突き合わせているのは、そうする方が声の反響が一層大きくなるのであろうか。それとも恥かしいという遠慮の心持であろうか。が、そんなことは兎に角、支那人の唄い方は日本人のように微音的でなく、どんな場合にも全身的に、張り裂けるほどの声を絞ってあの甲高い調子を出すので、後から見ると壁へ噛み着いているように見える。しかし唐君の声量は私のような素人が聞いても立派なもので、節廻しも巧いに違いない。一番済むと又所望されて、たてつづけに二三番唄う。「では僕も一つ」と、今度は田漢君が飛入りをする。唐君に比べると稍劣るが、私の歌澤や端唄よりもずっと上手なことは確かだ。

〇米剣華と欧陽予倩の剣術

「此れから活動写真を撮ります。どうか戸外へ出てください」

と、幹事に促がされて、一堂ぞろぞろとベランダの外の広ッぱへ集る。最初に撮影されたのは米剣華氏の剣術であった。此の老人、齢は六十を超えたりと覚しく、その頤髯は銀のように白かったが、何処やら武道の達人らしい面影があって、剣を振って舞う姿はさすがに颯爽たるものである。剣は刀身の真っ直ぐなもので、二たふりの白刃をきらりきらりと両手で鮮やかに使うところは、日本の剣舞、若しくは居合い抜きを見るようである。思うに此れは剣法の型を示す演義であろうが、支那の武術というものを実際に見るのは始めてであった。米老人が済むと、今度は欧陽予倩氏が剣を使う。予倩氏は新劇の頭領だけれども、しかし俳優たる以上はこう云う心得もあるのであろう。但し此の人のは両刀を使わず、一本の剣を正面に構え、その刀身をじっと睨んで、黒眼が真ん中へ寄ってしまうように瞳を据える。(その眼つきは日本の正眼の構えとは違う。われわれから見るとちょっと変な眼つきであった)それから両足を大きく開き、左の手を肘を曲げて頭上に翳し、右手で真っ直ぐ横に剣を突き出して、側面の敵をグイと刺すようなしぐさをする。米老人の遣り方とは又いささか違っていた。」