満州国建国十周年慶祝東亜競技大会(1942)の国術代表団
1940年の東亜競技大会(東京開催)には国術代表団がいたことがわかっていたけれど、それに続く1942年の東亜運動大会(満洲国 新京開催)に国術代表団がいたことは知らなかった。
『新申報』1942年6月21日付の記事と代表団の名前を以下に記しておく。別の競技の代表団の名前のなかで、浙江省の選手は名前の後ろに(浙江)と書いてあるところ、国術の選手に限っては、誰にもその記述がないということは、24名全員が上海の選手なのだと思われる。
ただし、競技会の開催は8月なので、6月の時点で発表された一行24名が全員、実際に新京に行ったのかどうかはまだ確認できていない。
〇1942年の東亜運動大会(満洲国 新京)への第二区(上海市と浙江省)の国術代表団
Xin shen bao (新申報) 1942.06.21 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
団員の名前を書きだしておくと、以下の通り。
①紀晋山 ②鄭文祥 ③佟忠義 ④王子平 ⑤李尊思 ⑥賈安泰 ⑦海肇襄 ⑧許雲龍
⑨胡振翼 ⑩田景山 ⑪蘇中華 ⑫沈忠道 ⑬黄英 ⑭張樹檀 ⑮宋傅英(宋傳英?)
⑯張秀堂 ⑰高振興 ⑱王樹玉 ⑲顧家成 ⑳趙玉龍 ㉑田家榮 ㉒鄭榮華 ㉓劉鳳翔
㉔高振標
このうち、③、④の二人については言うに及ばず。
それぞれをメインに据えたメモは作っていないけれど、このブログにはそれぞれ何度も登場している。
⑤李尊思についても以前にもメモした。
その時には書かなかったけれど、一門の間には、彼が1944年に来日したという説もあるよう。もしかするとそれは、この1942年の満洲国行きが誤って伝えられているのかもしれない。
その他の団員について。
①紀晋山は国術(精神)研究社国術組長 (石担組の組長は彭飛)
Shi shi xin bao (時事新報) 1933.10.05 Edition 02 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
Shi shi xin bao (時事新報) 1933.08.22 Edition 02 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
⑥賈安泰、⑱王樹玉、㉓劉鳳翔に関して、
東南日報1946年9月2日版に、強華体育社の会員(社員)募集の記事がでており、その中で国術組総教練として③佟忠義を招く、とあるほか、摔角組長として㉓の劉鳳翔、機械組長として⑱の王樹玉、象棋組長として⑥の賈安泰の名前がでている。
Dong nan ri bao (東南日報) 1946.09.02 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
賈安泰は、華字新聞データベースの中に、ほかにも象棋の対戦記事がいくつかヒットするので、国術よりも象棋の方で有名な人だったのかもしれない。
強華体育社の摔角組は、当時、新興勢力として台頭していたようで(ベースは南京?)、1947年4月には精武体育会と摔角・ボクシングの対抗戦を行っていて、強華の擁するベテランの一人として、呉錦初、李啓龍、劉国良、朱伯康、顧佩林、趙玉龍(⑳)、邱漢忠とならんで劉鳳翔(㉓)の名前がでている。
趙玉龍と劉鳳翔は1943年12月、YMCAが主催した、YMCAと精武体育会の国術摔角対抗戦(佟忠義は「古代弓箭」と「弾丸」を表演)では対戦している(趙玉龍の勝ち)。このときは、趙玉龍はYMCAの所属で、劉鳳翔は精武体育会の所属。
Xin shen bao (新申報) 1943.12.16 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
Xin shen bao (新申報) 1943.12.17 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
〇1947年12月の精武体育会と強華の対抗戦の告知記事 強華隊の選手の名前のなかに
劉鳳翔、趙玉龍がいる
Dong nan ri bao (東南日報) 1947.04.18 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
劉鳳翔は翌1948年の第七届全国運動会で摔角の中甲級の部で、参加者四名中、三位になっている。
Xin min bao (新民報) 1948.05.14 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
なお、この1948年の全国運動会の摔角競技の採点をめぐって、審判をつとめた佟忠義は「東南日報」紙上で、審判として「無能」であると批判され、反論の文章を投稿したり、ちょっとした騒動が持ち上がっている。
東南日報 1948.05.18 「摔角決賽的我見」
Dong nan ri bao (東南日報) 1948.05.18 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
東南日報 1948.05.23 「佟忠義来函答覆「摔角決賽的我見」」
Dong nan ri bao (東南日報) 1948.05.23 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
東南日報 1948.05.31「国術界前輩佟忠義 致函本報表示退休」
Dong nan ri bao (東南日報) 1948.05.31 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
東南日報 1948.06.01「再談摔角決賽」
Dong nan ri bao (東南日報) 1948.06.01 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
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なお、上記のとおり、6月に発表されたこの代表団が、8月に実際に満洲国に行ったのかどうかは未確認。実際に行っているとしたら、汪兆銘政権の代表団の一員であったわけだから、戦後は大きな問題になっているはず。(実際、1940年の代表団に対しては、その後も厳しい批判がされている。)
競技会そのものについては、さほど目を引く報道はない。
詳しい競技日程とか、受け入れ側の資料などが残っていないのか、別のルートからさらに調べてみたい。とりあえずは、華字新聞データベースの中にあった記事をメモしておく。
〇競技会の閉幕を伝える記事。
記事でも言及されている「日満交驩武道大会」には植芝盛平がいたはず。
〇以下のブログの、植芝盛平が写っている写真の背後に「建国10周年慶祝日満交驩武道大会」とあるので、この写真は1942年のものだとわかる。キャプションに1939年とあるのは誤りだろう。
中國東北長春市神武殿與合氣道cenyohopu.wordpress.com
〇東亜運動大会閉幕
Xin shen bao (新申報) 1942.08.11 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
Xin shen bao (新申報) 1942.08.09 Edition 02 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
〇競技会に関連した関連のコラム
国術普及、「褚民宜先生所提唱之太極操」についても言及されている。