中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

丁汝昌提督の死・・・からの頭の体操

張作霖の軍事顧問を務めた町野武馬の父・町野主水を主人公にした小説『その名は町野主水』を地元の図書館で借りたついでに、同じ著者の『侍たちの海─小説 伊東祐亨』を読んでみた。

北洋艦隊の丁汝昌提督への降伏勧告と、丁提督の自決のエピソードは、なかなか興味深く、以下の記事などでも、「東洋的武士道の体現者」同士のエピソードとして取り上げられている。とても日本人好みのエピソードといえるのだろう

丁汝昌の最後は、国に対する忠誠心、司令官としての意地と責任による「殉節」であったことが、多くの日本人の胸を打った。敵将とはいえ、その壮絶な死に接し、当時の日本人は日清戦争以前の「支那」に抱いた、「立派な、ロマンチックな、そしてヒロイックなもの」(『明治大正見聞史』)への記憶を甦らせたと言える。「嗚呼丁汝昌は実に殉国の烈士なり」(『朝野新聞』)をはじめ、各紙は一様にその死を称え、惜しんだ。また丁汝昌の死を悼む詩や歌も数多く制作された。

福井智子「依田学海が見た清国軍人・丁汝昌:-日清戦争と明治の知識人-」(注1)。

 

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中村彰彦は別の小説(『海将伝』)でもこの件を描いているけれど、そこでは、丁汝昌の軍人としての経歴について以下のように紹介している。

 北洋水師提督丁汝昌は、中国大陸東部の安徽省豪農の家に生まれ、少年時代にはもっぱら文学を学んだ。その軍歴は、二十歳のころ初めて淮軍に入ったことに始まる。淮勇とは、今は清国皇帝直属の直隷総督兼北洋通省大臣の地位にある李鴻章が、安徽省に組織して自身の権力基盤とした近代的装備の軍隊をいう。

 その淮勇で太平天国の乱鎮圧などに武功を積み、李鴻章に気に入られて什長、千総(少尉)、参将軍(中佐)などを歴任した丁は、光緒三年(一八七七)、劉歩蟾や林泰曾をふくむ第一回留学生のひとりとしてイギリスへ派遣された。当時の彼はまだ陸軍の軍人であり、英語はみごとにマスターしたものの酒色に溺れて留学費用を使い尽くしてしまい、汽船の最下等室に無一文で乗り込んでようやく帰国した剛のものでもあった。

 資性敏捷、特に中国伝統の射(弓術)に長じていたが、光緒十三年(一八七七)海軍に転じると、バックに李鴻章がいたこと、劉や林よりも長い軍歴を誇っていたことなどから北洋水師提督に指名されたのである。

 薄い眉にくぼんだ両眼、高い頬骨とやや突き出し気味の唇をもつ丁汝昌は、いつも鍔なしの丸い便帽のなかに弁髪を隠し、中国服と洋服折衷の私服とほとんど変わりない軍服をまとって北洋水師の指揮をとっていた。PP.64-65

 

中国の射法云々の部分に関しては、『侍たちの海』には、伊東祐享に語ったという以下のようなエピソードも紹介されている。

 

 作りつけの洋机に軍服の両肘を突き、指先でこめかみを押さえて溜息をつくと、甦ってくるのは隣邦諸港巡行中の祐亨たちを迎え、大歓迎会をひらいてくれたときの丁汝昌の姿であった。わずか一年八か月前の明治二十六年六月、威海衛城迎賓館の広間のメイン・テーブルに祐亨とならんで着席した丁は、こんなスピーチをした。

「私は少年時代、中国の伝統の射(弓術)を学びました。古来、射の極意は「不射の射」すなわち矢をつがえることなく弓弦のみを鳴らし、空ゆく雁を落とすことにあるといわれています。わが北洋水師および貴国の常備艦隊も、弓につがえられることなく終わる矢のような存在でありたいものです」

 わが意を得たり、と祐亨がうなずいて中国式の乾杯をつづけるうちに、官服のチョッキも脱いで丸顔に笑みを浮かべた丁は、イギリス留学中、娼家に通いつめて帰国の船賃もなくなってしまった話を打ちあけて祐亨を唖然とさせたりもした。(P.306)

 

これらの記述を通じて、古典にも通じた智将としての丁汝昌の姿が浮かび上がってくるようだ(注2)。

 

ただ、あとで少し調べてみたら丁汝昌は生粋の軍人ではなくて、もとは太平天国軍にいたのが清朝に降伏・帰順し、太平天国軍や捻軍の鎮圧で功をたてた人だとわかった。

そこから受ける印象は、清朝にとって、丁汝昌はどちらかといえば、最前線で戦わせるための使い捨ての駒のようなもの。

太平天国のほぼ同時期に西北で起きた回族反乱でも、左宗棠が回族の一部を切り崩して寝返らせているし、その流れを汲む部隊が義和団事件にも投入されている。

(その左宗棠は丁汝昌の勇敢さにも目をつけている。)

そして、こういった使い捨ての駒の部隊が、治安回復後に武装解除されたり、それに抵抗して匪賊化することは中国史上に枚挙に暇がない。このブログでメモした範囲でも、ベトナムでフランスと戦った劉永福の黒旗軍は帰国のまえに現地で武装解除されているようだし、日露戦争時に関東独立自衛軍なる団体を組織してロシアに対抗した張榕は、「団練」としての存続を認められず、反清朝に転じている(注3)。

彼の部隊も同様に、捻軍鎮圧後に整理の対象になったらしく、かつての上司(劉銘伝 注4)に意見したところ、逆に刺客を放たれている。

そんな彼をなんとか拾ってくれたのが李鴻章で、李鴻章としても劉銘伝との関係に配慮しながら、新軍の中に彼を位置付けたことがうかがえる。(李鴻章や曽国藩の組織した湘軍・淮軍は、劉銘伝がその一人であるような「郷勇」を組織した軍隊だから、李鴻章としては、こういった小集団のボスの束ね方は心得ていたのだろう。)

そう考えてくると、丁汝昌日清戦争において敗戦の責任をとって自決したことについて、大任を任せてくれた李鴻章への責任は感じていたかもしれないけれど、それが清朝や民族全体に対する責任感であったのかどうかはわからない。彼の中に「東洋的武士道」を見るのは、自分が見たいものを相手の中に見ているだけのような気もする。

 

この点に関して、やや時代もズレているし、彼一人の意見ですべてを代表することはできないけれど、彼の国の軍人に関して、後藤朝太郎が『支那秘談 青龍刀』に記した見方は以下のとおり。

 支那の軍界にも、君の為めならば城を枕に討ち死にすると云った、気概のある武士的精神のあるものが一人や二人はあってもよいだろうと日本人からは推察せられるが、事実はむずかしいことである。本来支那軍隊のスタートに於て既に斯くの如き精神の人間を見出すことは殆ど出来ないのである。何故かと云えば、元来支那の武力と云うものは、君臣の義を以て出来上っているものではなく、寧ろ利害関係から結ばれている商業関係の如きものであるのである。それ故利益になるならば、主従関係の気持ちはいつまでも持続して行くが、つまらないとなれば機を見てすぐ見切りを付ける。今日は主人でも明日は敵に廻わすかも知れぬと云った様なことになる。それ位の事は平常茶飯事の如く考えられていて別段之を不忠不義、不道徳などとは考えないのである。唯大勢の赴く所に依って動いて行けばよい。それが軍人界のモットーであると云った風に考えているのである。『青龍刀』「三十九 郭松齢寝返りの幕」PP.197-198 カナは適宜改め

dl.ndl.go.jp

 

 同様の説明が『支那の体臭』にも出てくる。

 ところで支那では、誰一人として国家万能主義を考えている者はなく、政府当路者自身にしてみたところで、やめた後には富貴長命の心持ちをいかにして満足させるかということ、これが主眼となっている。それ故、国家のために命を捨てるというように考えている支那の軍人は恐らくあるまい。全然ないとは言わないが、そこのところの考えが違う。また国家のために命を捨てたからといって、日本では法律的に決めてある如き優遇の方法は、支那には出来ておらない。だから支那の軍人であっても、やはり一つの商取引の気持ちで戦争に従事しているのであるし、師団長がその金を多くくれる方へ、部下を引き連れ寝返りを打つということをするのも、支那では格別珍しくも見られていない。また世間でもそれを別に不思議だとも言わない。金鵄勲章がもらえるわけでもなし、身の保障が出来ているわけでもないのだから、めいめい先のことを考えてしかるべく身の振り方を考えようとする。何よりもまず第一に自分の力を入れて考えている点は、そのいかにして長生きをし、いかにして幸福な衣食住、その他気持ちに満足を与ええる生活を営みえるかということ、その方面を拡大することにのみ向かっている。 PP.243-244

 

・・・もし支那の戦争が商取り引きの変形であるとか、支那の軍隊がかねで動くとか喝破した断定を下す時は、甚だしくこれが世人に露骨に響くであろう。しかし支那で兵隊をつかまえこのことを切り出してみたって怒る者は殆んどいまい。むしろ事実が全くその通りなのであるから、ニコニコ顔で笑いだすくらいのものである。・・・P.256

2013再版『支那の体臭』 

 

 

軍人の例ではないけれど、名誉を重んじる人間の例として溥儀の「帝師」であったジョンストンの同僚の一人、梁鼎芬の例をメモしておく。ジョンストンによれば、彼の父は政府の役人で、「常に自己修養と自尊心が大切なことを諄々と説き、もし死か恥辱かの選択を迫られた場合は、必ず死を選ぶべきだという教えを、梁の心に刻みつけた」という。また、彼が少年時代に一番興味を引かれ、話を聞くのが好きだったのは「詩と剣術」であったとのこと。『完訳 紫禁城の黄昏(上)』文庫版P.356

 

あまり参考にはならないけれど、大変天国の投降者の丁汝昌を、なぜ清朝は重用したのか、という記事。現代の学者は、彼が北洋提督であったのは、明らかに不釣り合い「不称職」だと考えているよう。

m.k.sohu.com

 

(注1)

福井智子「依田学海が見た清国軍人・丁汝昌:-日清戦争と明治の知識人-」

この論文でも、丁汝昌はあくまで「清国軍人」ととらえられている。

ci.nii.ac.jp

 

(注2)

この挿話がどこからきたかについては未確認。

福井智子の上掲論文によれば、明治二十九年、依田学海のもとを、関口信篤という人物が、威海衛の丁汝昌の官舎から得た「支那製の矢及び陶盆」をもって訪れている。

 

(注3)

 「支那では取り消しに模様替え、寝返り、破棄と何でも比較的やることは自由であって、その場限り、あとはどう変更されようと勝手であるといった気持ちがある。だから師団長が戦いまさにたけなわなるの時、ある事情の下に敵へ寝返りを打つなどといった話はあまりによく知れ渡った話である。」 

後藤朝太郎『支那の体臭』(バジリコ株式会社2013年版 P.44)

  清朝からの抱き込みに対して、反乱軍の側でも、援軍が来るまでの時間稼ぎのようなものも含めて、投降を偽装する例もあった。
 黒旗軍の宋景詩も、いったん清朝側に投降しているけれど、これが偽装であったのか、一時的とはいえ、本当に投降したのかが『黒旗軍でも議論されていた。

 北洋艦隊が一時、白旗を掲げ、近づいていった日本艦隊の船に攻撃をしかけるという国際法違反の偽装を行ったことも、『侍たちの海』にも描かれていた。

 

 (注4)

 この人は地元の団練あがり。太平天国の乱の際は、清朝側にも太平天国側にもつかず、「傍観」していたところ、投獄され、協力の姿勢に転じるという経歴が面白い。

 この人も、ベトナムでフランスと戦ったり、台湾に派遣されたり、最前線をたらいまわしにされているようにみえる。

 劉銘伝は初代の台湾巡撫でもあり、台湾の発展の礎を、日本の植民地統治以前の彼の治世に求めようという動きもあるようだけれど深入りしない。

ja.wikipedia.org

 

 

 .2020.10.17

支那の体臭』PP243-244、P.256の引用箇所を追加