中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

『中国伝道四五年 ティモシー・リチャード回想録』

たまたま地元の図書館で手に取った本。

 

中国伝道四五年: ティモシー・リチャード回想録 (903) (東洋文庫)

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以下は、飢餓救済のためにリチャードが山西にいたころの出来事。

 

 ある日、儒教の書院の院長が私のところにやって来て、「われわれの古典のなかには、体の組織の破壊を食い止め、結果として動物の冬眠と同じように活力を停止させる方法が述べられています。西洋には何かそうしたやり方がありますか?もしご存じであり、飢えている人々にその秘訣を教えていただければ、多くの人々が死から救われるのですが」と語った。

 私は一度だけ、ハックスリーの『生理学初歩教程』のなかで心臓の活動を停止させる実験について読んだことがあると答えた。しかし私の知識は不十分で、危険を冒して何かを試すことはできなかった。PP.161-162

 

これは、上記のとおり山西での出来事だけれど、山東においては、地元の有志から、民を助けようとしない政府を倒すリーダーになってほしいと頼まれたりもしている。

 

・・・六月三〇日、文人が二人、寿光県と益都県北部から私に会いにやって来た。どちらも三、四〇代の秀才だ。ただその日はとても忙しかったため、二人は約束を取り付けて次の日にまた訪ねてきた。そして部屋に入るなりひれ伏し、弟子にしてくれと言う。少し話をしてみて二人は、私に反乱の頭目になってほしいと願う人たちの代表だということがわかった。死に瀕している人々に政府が食べ物を与えてくれないからだ。すでに家を借り、大勢の男たちが私の命令を待っていた。私は代理の者たちに言った。そのようなことは夢にも思わない。人々をもっと苦しめることになるだけだ。反乱が始まれば、どこで終るか誰もわからないし、きっとおびただしい血が流れるだろう、と。そして人々の状況を改善するためには破壊的ではなく建設的な手段を考えるべきだ、と助言した。PP.100-102

 

ちなみに、この少し前の個所で、同じように反乱軍のリーダーになることを求められ、断ったところ、家族を惨殺される男の話が記されているので、頼む方も必死なら、断る方も必死だったのだろう。〔〕は訳注。以下の引用も同じ。

 

 Lo-ngan〔鹿皋?〕地域に、チウ〔丘か〕という男が住んでいた。六〇年代の太平天国の乱の末期に反乱軍に抵抗するため四〇の村々の首領に選ばれた男だ。食糧不足で人々が非業の死を遂げるなか、これらの村々は、今度は政府に対する反乱を指揮するようチウに求めた。彼がそれを断って青州府に逃げると、その行動に激怒した村人たちは彼の家へ押しかけ、家族六人を皆殺しにした。P.101

 

このブログ的には、こんな面白い一節を見つけただけでも読んだ価値があったといえるけれど、ほかにも興味深いところが多かった。

 

たとえば、リチャードは、済南で武挙を受けるために集まった男たちと交流をしている。

一八七三年の秋、友人のリリーと煙台のスコットランド一致長老会の宣教師マッキンタイアとともに、私は煙台から三〇〇マイル〔四八〇キロメートル〕以上離れた所にある山東省の省都・済南を訪問した。そこでわれわれはおそらく地球上で最も優れている教育システムの一つを目撃することができた。当時、中国人の学生たちを年に一度〔実際は三年に二度〕、政府の試験官が帝国内の一四〇〇もの県で試験していた。そして秀才の資格が三年に一度〔実際は二度〕、全帝国下で同時に与えられ、秀才たちは修士号(MA)と同等の資格である挙人の選抜候補者としてそれぞれの省都に赴くのである。済南にはすでに一万二〇〇〇人ほどの学生が集まっていた。だが、このなかで挙人の資格を得ることができるのは、上位九五人にすぎないのである。文人の試験の直後には武人の試験も開催されることになっており、一〇〇〇人ほどの受験者が集まっている。杭州で同様の学生たちが外国人にたいして騒ぎを起こしていたため、われわれは文科の受験生にはほとんど会わず、また彼らに接触するときは十分に注意を払わねばならなかった。しかし武科の学生とは自由に交流した。P.54

 

自由な交流の具体的な中身が書いていないのがなんとももどかしいのだけれど、力自慢のパフォーマンスでもやってくれたのではないか、と妄想が膨らむ。

 

また、リチャードは満洲に聖書を販売にいったり、山西の飢饉の状況を視察したりする際に、盗賊から身を守るために武装していたり、満州では、当時、移動の安全を確保するために、盗賊に保険料を払ったうえで、荷馬車に旗を掲げて移動する習慣のあることを記している。

 政府が人々の安全に無関心なのだから、冬ごとに一種の保険料を匪賊に支払うのが自分たちの利益にかなっていると農民たちが考えるのは、もっともなことだ。それによって、強盗に襲われる心配なしに旅行ができるのである。保険をかけた荷馬車は匪賊が認可した旗を掲げ、時には匪賊が農民を護衛しながら危険地帯を安全に通り抜けることもあった。P.43

 

プロの用心棒のような人々はでてこないけれど、道中擦れ違う人々がさまざまな武器で武装している様子もでてくる。満洲では、盗賊は洋服を着ているという噂があり、彼等の一行が盗賊と勘違いされることもある。

金塊を以て逃げたと誤解され、地方政府に拘束されたところ・・・窮地を救おうと村人たちがかけつけてきたこともあった。その中には「こん棒を持つ者、三叉を持つ者、さらにはもっと危険な武器を持つ者もいた」P.120

 

そして、少なくとも一度は実際に盗賊の被害にあっている。

(一八八三年のことか 引用者注)山西に戻る途中の直隷省で、ある日の明け方、私が泊まっていた宿が強盗の一団に襲われた。私の荷馬車が二台、そして一緒になった旅人の荷馬車が五台から六台あった。賊どもは全部の荷馬車の箱を開け、衣類や書類を庭中にまき散らした。起き出してみると、かわいそうな旅人の一人が北京の主人のもとに届ける三〇〇〇両の為替が見つからないと言って慌てている。しかし幸い、日が昇ってから、まき散らされた所持品を隅々まで探したところ、庭で踏みつけられているのが見つかった。彼は大喜びだ。私はというと、旅行カバンがひとつ荷馬車から消えてしまっている。賊の足跡を外までたどってみると、ある場所で高い塀を乗り越えて逃げていた。塀の反対側には、男ひとり分の深い足跡が二つあった。私の重いカバンを持って飛び降りたに違いない。庭の薄明かりの下で、カバンの中に何か光るものが目に入り、銀塊だと思って一番の荷物として持ち去ったのだ。さぞかし悔しかったに違いない。重い旅行カバンを背負って塀から飛び降りて逃げ、なかを開けてみたらブリキ缶のコンデンスミルクしか入っていなかったのだから。P.195

 

なお、リチャードは済南で山東巡撫の丁宝楨に会っている。

丁宝楨は、山東在任中、西太后の腹心の宦官・安徳海を処罰し、このときに安徳海に同行していた南皮出身の武術家が連座して処刑される事件があったことは以前にメモした。その後彼が四川に赴任したときに連れて行った護衛官が現地に伝えた武術が、現在も「緑林派」として伝えられているらしい。

一説によると中華料理の宮保鶏丁の「丁」は丁宝楨のことだといい、武術と料理にいわれが残っている人物であることがわかる。

 

  済南府の巡撫〔山東巡撫〕は貴州出身の丁宝楨だった。七月七日に渡しはその町に到着し、巡撫と面談した。丁宝楨は実力者で、太平天国の反乱を鎮圧した主要な官僚の一人とされている。反乱軍が全一八省のうちすでに一三省を手に入れていたとき、丁が軍を率いて反乱軍に対抗し、北京に入るのを阻止した。私は彼に、満洲だけでなく朝鮮や日本からも穀物を輸入するために協定を結ぶこと、そして貧しい人たちに雇用の機会を与えるために鉄道や鉱山を開発することを提案した。彼は非常に興味深そうに聞き、そのような改革を進めることに賛成すると言う。ところが山東省にとって不幸なことに、彼はその後すぐに四川総督に昇進し、もう山東省のために働く機会がなかった。その息子の丁体常とは、のちに山西省で再会した。そのとき道台であった。父親と知り合いということで、彼は太原府で私に親切に接し続けてくれた。彼はのちに広州における主要な省級の官僚に昇進した。P.106-107

 

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