中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

「田州土司瓦氏女将の双刀で槍を降す法」など

まとまりのない感じになっているけれど、色々整理がついていない点も含めて、とりあえずの備忘録・頭の体操として。

 

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 少し前にSNSで、倭寇と戦う明軍兵士が双刀をもっている画像が流れてきた。

 写真の説明はありません。

www.facebook.com

 

 その後、地元の図書館に行って、この画像は、東京大学史料編纂所に所蔵されている『倭寇図巻』の一部であることがわかった。この場面全体をもう少し「引き」で見ると、この明軍兵士は船に乗っていることもわかった。

出展:東京大学史料編纂所編『描かれた倭寇 「倭寇図巻」と「抗寇図巻」』

 

 さらにネットで少し調べてみたら、倭寇と戦う明軍兵士が双刀をもっている図がほかにもいくつか確認できた。中には、徒歩のもの、騎馬のものがあった。

  これらの絵画の制作時期とかは調べていないので、これらの場面が、どのくらい史実を反映しているのかはわからないけれど、画像としておもしろいのでとりあえずメモしておく。

 

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「永寧破倭寇図」(部分)

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「安海平倭寇図」(部分 1)

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「安海平倭寇図」(部分 2)

上記画像はいずれも陳履生「版刻の使い道  --明代典籍の挿絵にある抗倭図の研究---『三省備図記』を中心に」より

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/26/kiyo0026-09.pdf

 

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 対倭寇戦に投入された客兵の中でも瓦氏が率いた広西・田州の部隊は双刀を用いていたとして(呉殳「双刀歌」)、その他の部隊の中にも双刀を得意とする連中がいたのだろうか。

 林伯原先生の『中国武術史』によれば双刀術は元代には史書に多くの記載があるようだし、朱元璋の明の建国を助けた王弼は「双刀の王」というあだ名もあったらしいので、江南地方にも、双刀術の伝統があったのかもしれない。

王弼 (明朝將領) - 维基百科,自由的百科全书

 どういう伝承のものかわからないけれど、唐順之『武編』巻五には、拳・槍の次に刀が紹介されている。その書き出しは、「雙刀は、彼若し一の伏虎を使い、我の頭を打たば・・・」と双刀術であることがわかる。

 

〇刀は112コマ目から113コマ目

archive.org

 

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 倭寇の側に二刀流がいたことも史書には記載があり、中国国家博物館(北京市)に所蔵の「抗寇図巻」にも、二刀をもった倭寇らしき人物が描かれている。対倭寇戦のあちこちで、イップマン3のドニー・イェン対マックス・チャンのような両手に刀をもったもの同士の戦いが繰り広げられていたと思うと、妄想が膨らむ(刀の形状がかなり違うけど)。

 

〇「抗寇図巻」の一部

 出典:東京大学史料編纂所編『描かれた倭寇 「倭寇図巻」と「抗倭図巻」』より

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 『手臂録』所収「双刀歌」によれば、呉殳は、項元池から瓦氏夫人の双刀術を学んでいる。

それによると、項元池は、呉殳に

長矛は遠く疎なるが利。彼已に填密なれば須らく短器(を用いるべし)。

と語ったという。

 長武器は、相手から遠く離れて(遠)、味方との距離もある程度離れた状態(疎)で用いてこそその「利点」を発揮するものであって、密集体形を組んでいることで動きが制限されている長矛には、短武器で接近して対処するのが吉、ということだろうか。

 

 「単刀図説自序」 に、反語的に、「行列の稍や疎ければ短(武器)に長(武器)を破るの理なし」とあるのも同じ趣旨だろう。

 

  馬明達「抗寇英雄瓦氏夫人」は、この項元池の指摘を、近距離戦に弱い長槍の弱点を補うために双刀と組み合わせて(「配合」して)用いることを述べたのだと解しているけれど、この「単刀図説自序」の記述や、「短降長説」に瓦氏の双刀は「槍を降す法」と記されていることから、この部分は槍と双刀の「配合」を述べたのではないように思う。(七人編成の岑氏兵法(前回メモした)の中にも、双刀取り入れられていないし、それに学んだと思われる戚継光の鴛鴦陣にも双刀隊はおらず、双刀が長武器と「配合」して用いられたようには見えない。)

  

 以下は、『手臂録』「短降長説」の仮訳(あくまでも自分の理解用の仮訳であって、厳密な逐語訳ではない。テキストは人民体育出版社『中国古典武学秘籍録』のもの)。

 世間の人は、短い武器で長い武器を制す(以短降長)と簡単にいう。私は敢えて言いたくないし、また言わざるを得ない。敢えて言いたくないのは、それが万全必勝の方法ではないということであり、敢えて言わざるを得ない、というのは、止むを得ずこれを用いる時があるということである。

 我が槍は九尺七寸、彼の槍は二丈四尺[石、沙、楊、馬、少林、冲斗六家槍法説に記載のとおり、敬岩の木槍の長さは九尺七寸、対して沙家竿子の長さは長いもので二丈四尺]あるとする。彼がもし単殺手で刺してきたならば、我はそれを革(かわす)して入り込むことができる。もし彼が半ば実、半ば虚で攻撃してきたならば、我はこれを拿攔せんと欲して煩わしく揺れ動く。(チャンスを見計らって)ついに進もうとしても、彼の槍が、活(機敏)であれば、万全・必勝は期しがたい。両陣が相対するが如き事態に至っては、やむを得ず降長の法を用いているのであり、(それによって)必死に活路を見出すしかないのである。
 蓋し、長(器)が短(器)を制する所以は、その「虚」を用いることにある。しかし、(距離が)遠ければ(相手も)「虚」を用いることも可能だが、近づかれたら「実」で応じざるを得ない。我が彼の槍に直進迫近すれば、彼も「実」を発せざるを得ないのである。実を発するとは、つまり単殺手のことである。(敵が単殺手を出してくれば)我はこれを革(かわ)して(彼の懐に)入ることができる。彼の槍に迫近する方法とは、すなわち(広西)田州土司瓦氏女将の双刀で槍を降す法であって、私は、これを槍に取り入れたのである。このとき、彼が「実」をもって攻めてくれれば幸いである。(そうではなく)彼が退いたならば、万全は期しがたい。ただ、両陣が相対する場面においては、(勝手に)後退する槍などないというだけである。

 

 『手臂録』のこの観点は、『無隠録』の「短降長説」でも補足されている。(説明は上に同じ。)

 

  長(武器)が短(武器)を制することができるのは、その武器自体にあり、その理由はわかりやすい。(他方)短(武器)が長(武器)を制することができるのはその武器を用いる人にあり、その理由は測りがたい。もしはっきりと(相手を制する道理を)理解できなければ、実際の場面に臨んで、恐れ、まよいが生じる。しかしながら、槍というのは長ければすなわち腰が軟らかく頭が重くなるものである。(そうなると)峨嵋槍法の臨機応変な手法などは用いようがない。だから、見た目がいくら雄々しくても、実際は恐れるに足りないのである。短槍を執るもの、この道理を喝破して、決然として飛び込み、相手の槍先より前に進んでしまえば、相手は素手に等しい。(そうなってしまえば、どんな)使い手であっても、(距離を稼ぐために)ただ飛び退くしかないのである。

 

 項元池にしろ、呉殳にしろ、なぜか倭寇の立場にたって、密集体形を組んでいる長槍(それって官軍ではないの?)との戦い方を研究しているように見えるのが面白い。それとも、呉殳はもともと槍の専門家だから、項元池に対しても、それ(双刀)でどうやって槍と戦うんですか?みたいなことを聞いたのだろうか。

 

 ちなみに、瓦氏夫人が広西から浙江にでてきて倭寇と戦ったのは嘉靖34年(1555年)の数か月だけ。

 李吉遠『明代武術史研究』などは、このわずか数か月の間に、瓦氏夫人の武術と中原の武術の交流・融合が行われたのだと書いているのだけれど、やや額面どおりには受け取り難い。

 かつ、項元池が「双刀歌」のとおり、瓦氏夫人から直接教わった(「天都少侠項元池、刀法女侠手授之」)というのもいささか信じがたいところがある。項元池と呉殳が出会ったのは嘉靖34年から80年後の乙亥(崇偵八年 1635年)春(このとき、呉殳は25歳)で、項元池が嘉靖34年に15歳の少年兵だったとしても95歳になってしまう。それを考えると、この生没年不詳の項元池が、そもそも瓦氏夫人から直接に双刀術を学んだとは思えない。

 それらの点を考えると、この項元池、本当は倭寇の一員として明軍と戦った経験の持ち主と考えるほうが自然な気がするけれど・・・・そのような観点は、きっと瓦氏夫人を倭寇と戦った民族英雄の元祖ように位置付ける中国大陸の研究者からは出てこないだろうなあ。(広西からの客兵は瓦氏夫人の一行だけではないので、「刀法女侠手授之」の部分は作り話として、たしかに狼兵の一行から学んだということはあるかもしれない。)

 

 なお、懐に入ってしまえ、というのは、あくまでも、相手が自由に身動きがとれないという前提での対処法であって、相手が後退するなどして、再び距離をあけられてしまったら、必勝は期しがたいというのは、「単刀図説自序」 の説明と同じ。

 

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 長槍ではないけれど、短槍からみた双刀への対処方法については、『手臂録』の「鎗王説」に「…帯打法は剣を破り、叉を破り、鏟を破り、双刀を破り、短刀を破る」という形で記されている。

 これは呉殳の考えというよりは、程真如の「峨嵋槍術並びに序」の「破諸器篇」に「双刀は、奇抜であるが帯打を用いれば必ず打ち落とすことができる。」とあるのを踏まえたもので、呉殳は『無隠録』「役棍法」で「鶏啄粟」を説明する際に、「峨嵋槍術」からこの一文を引用している(注)。そしてこの箇所から、「鶏啄粟」がこの「帯打」を用いた技法であることがわかる。

 

(注)

 ただし、『無隠録』での引用は、「双刀雖奇」の「奇」が「利」にかわっているよう。この点は、『中国古典武学秘籍録』が底本としたものも、許金印『無隠録 校註』も同じで、後者にもとくに解説がない。

 

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 その 「鶏啄粟」については以前にメモしたけれど、もともとは棍法に由来し、「斫」と「削」の技法を中核とする十八勢を補うものとして刀術に取り入れられたものだった。

 

zigzagmax.hatenablog.com

 

もともと呉殳の刀術は、瓦氏夫人の双刀の技術を呉殳が項元池に習い、彼自身、両手のさばきが太鼓のばちを使うように自在になったと感じるほどに熟練したものの、顔の前で両刀を交叉させるような技術についてどうしてもしっくりこないものを感じていた(「眼前両臂相繚繞殊覚神思非清虚」)。のちに漁陽老人に剣術を学んだところ、その剣術は「拍位」を越えたと思ったらすぐに相手の「門」の中に入っているなど、非常に素早いもので(「隻手独運捷於電、唯過拍位已入門」)、双刀というのは、左右を併用しようとするからかえって煩瑣(左右並び用故煩瑣)なのだ、と感じ、右手の刀は漁陽老人の剣術に、拍位を越えてからは左刀のかわりに左手を使う(今以劒法用右刀得過拍位乃用左手)刀法を整理するに至ったと考えられる。(引用は「双刀歌」から。)

 ※やや単純化している。

 

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 「短降長説」に「彼の槍に迫近する方法とは、すなわち(広西)田州土司瓦氏女将の双刀で槍を降す法であって、私は、これを槍に取り入れたのである。」と書いてあったけれど、以上のような「双刀歌」の書きぶりをみると、実際に槍の懐に入り込む方法は、漁陽老人の技のほうが優れていて、むしろ呉殳はその技術を双刀術にとりいれ、さらに二本の刀を一刀に置き換えてしまったというのが実態に近い気がする。だとすると、彼が殊更にそれを「田州土司瓦氏女将の双刀で槍を降す法」に紐づけて見せたのは、かつてそれが対倭寇の実戦の場で実際に使われたのだ、と示すことでこの技の「権威」を高めようとしたようにも理解できる。中国武術の先生たちが、技を教えるときに、「かつて〇〇先師が××師を破ったのがこの技です」などと、見てきたかのように語るのと同じ趣向だろう。

 

 なんどか繰り返したように、思い切って相手の懐に入ってしまうのは、(隊列を組んでいるため)相手の方は簡単に距離が調整できないというのが大前提で、そのことを頭に入れながら読むと、「剣訣」のおわりに近い部分で、「相手が退けば自分は進む。相手の後退には奇伏(思わぬ反撃)がある。相手が歩を進めれば、自分もまた進む。」といって、常に近い距離をキープし、相手に距離をあけられた場合には特に注意するよう記されていることが理解できる。懐近くに入ってさえいれば、死中に生を得て、鉄でてきた部屋にいるように安全だ、(「死裏得生坐鉄屋」)、というのも面白い。

 

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 漁陽老人の剣術を学んだ呉殳は、長いこと槍の信奉者であったはずなのに、この「剣訣」において、生死を決める場面では、槍は長いから有利だとか、剣は短いから不利だとは言い切れない、ということを、頭が白くなってからようやく悟った、といって苦笑してみせる。

 その最後の句は、「兵を学んで白頭に至り、初めて囊中の三尺の練習の仕方がわかるとは、自ら笑うほかない。」と読めるテキストと、「三尺」の部分が「一条」になっているものがあるらしい(許金印『手臂録 校註』)。「三尺」(剣のこと)だと、剣というものの本当の使い方を、白髪の老人になってようやく知ることができた、という意味になるし、「一条」の場合は、「槍が長いから有利だとか、剣が短いから不利だとかいうのは関係なく、どの武器も「練の一条」(どれだけ練ったか=功を積んだか)こそが重要だとようやく気がついた」という意味になるのだろうか。やや拡大解釈してるような気もするけれど、この解釈も味わい深いところがあるなあ。

 

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 今回、たまたま倭寇期の双刀の絵を見かけたことから、『手臂録』の関連する記述を読み直してみた。

 短器対長器という一点に限ってみても、『手臂録』の各編に述べられていることは首尾一貫していることが確認できたのは収穫だった。

ということで、古典の旅は(ときどき、思い出したかのように)続く。

 しかし・・・冒頭の絵に描かれていたように船に乗っていたんでは、相手に近づこうにも近づきようがないな・・・。

 

 かなり想像を逞しくしたので、「妄想系」のタグをつけておく。このブログすべてにいえることだけれど、たまたまご覧になった方は決して鵜呑みにしないように。

 

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