中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

Hoji Shinbun Digital Collection、北京警務学堂の柔術教習など

最近さかんに参照している、華字新聞データベースは、発行地域に限りがあったり、メジャーな新聞が入っていなかったりという限界はあるけれど、もはやこの時代のことを語るのに、裏を取る意味でも参照しないことはありえないほど貴重な情報源になっている。

似たような邦字新聞のデータベースがある。華字新聞のデータベースとはやや趣向が異なり、日本国内で発行されたものではないけれど、米国の日系社会で話題になったことが紹介されていて興味深い。

hojishinbun.hoover.org

 

なかにはこのブログの観点から、思いもかけない発見がある。

たとえば、早稲田大学図書館の二葉亭四迷資料の中に、警務学堂章程案なる史料があり、第17条に高等班の科目の中に「柔術」とでている。

警務学堂章程

 

起案された日時は確認できず、二葉亭四迷こと長谷川辰之助が一時籍を置いた北京警務学堂がこの「案」のとおり実際に運営されたのかどうかもよくわからないけれど、肖朗 施峥「日本教习与京师警务学堂」によれば、少なくとも1910年6月には栃木県の野口清が京師高等巡警学堂(北京警務学堂の後身)に月給150元で招かれて柔術を教えたと紹介されていることがわかる。

中国語で書かれたその他の論文やブログ記事から、帝国尚武会の野口清はこの少し前の時期から天津や上海にいたように思われるのだけれど、そのことについて日本語で書かれた資料が見つけられないのでやきもきしていたところ、1915年11月15日の日米新聞の記事に、「欧米漫遊の途次目下当市帝国ホテルに滞在中なる柔道八段野口清氏は神道六合流の創立者にして久しく北京高等順(巡)警学堂の師範たり」と出ているのをようやく見つけることができた。

Nichibei Shinbun 1915.11.05 — Hoji Shinbun Digital Collection

 

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前後の記事から、野口清は10月半ばサンフランシスコに来ていること、対戦が決まったあと、決戦の会場となったドリームランド・リンクで行われたサンテルのプロレスの試合も観戦しており、「何うですだいぶ強いやうですなア」と記者にいわれた野口清は莞爾(にっこり)として「何あれならば大丈夫です」と答えている。

Nichibei Shinbun 1915.11.18 — Hoji Shinbun Digital Collection

 

Nichibei Shinbun 1915.11.19 — Hoji Shinbun Digital Collection

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さらには練習風景も記者に取材させ、余裕しゃくしゃくであったけれど、試合にあっけなく敗れると、新聞紙上の扱いも「野口八段」から「野口自称八段」に変わり、期待を裏切られた在留邦人たちからの避難に身の危険すら感じ、ロサンゼルス経由でシベリアに流れていったらしいことも、これらのデータベースの記事からうかがえる。

野口に続いて、三宅太郎や伊藤徳五郎が挑戦した過程も、キーワード検索で容易に追いかけることができるけれど、そのあたりはこのブログの守備範囲を超えるし、すでにいろいろと紹介もされているので省略。

 

なお、余談になるけれど、前掲「日本教习与京师警务学堂」のなかで「委嘱教習」として名前がでている唐家楨は日本留学の経験もある清の翻訳官で、東文館において中国における日本語教育の先駆者としても知られる。

 

北京警務学堂の総教習・稲田穰は、警務学堂への二葉亭四迷の着任を批判的に見ていたことでもよく知られているけれど、吉弘白眼 (茂義)『当世名士譚』に「保安課長警部稲田穰は河内の人なり機敏俊邁にして頃を處するや神の如し警視部内随一の腕利きなり・・・」とあって、警務学堂設立にあたり、日本としてはかなりの腕利きを赴任させたことがうかがえる。警察協会雑誌所収の稲田穰「清国警察制度の創始について」と題する講演資料のなかで、警務学堂における稲田の授業を通訳したのが唐であることを紹介しながら、「支那の外務部二等通譯官唐家楨氏が通譯の労をとられる。此人は曾て二三年を日本に遊学した人で、日本語が可なり充分に出来るのみならず日本の新聞紙をも読み得るのである・・・」と述べている。

その後も1925年5月まで、天津警察庁の技正を務めており、直隷省からの要請により、別の任務につくために、同職を解かれたことがわかる。別の任務とはなにか、具体的には不明。

Shi shi xin bao (時事新報) 1925.05.14 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

興味深いのは『復興北京文化芻議』は、彼が起草したものを橋川時雄とともに, 武田熙が校正していること。

CiNii 図書 - 復興北京文化芻議

http://xzeea.com/pdfile/pdf/fSxQjUgqV

武田との関係は、1938年に「平安城」の鼓詞を共に編纂していることからも伺える。

Hua bei ri bao (華北日報) 1938.05.24 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

このあたり、日本語の新聞資料に公文書、中国語の新聞資料などを組み合わせてみえてくるものがありそう。