中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

倭寇期の「客兵」について

馬明達「抗倭英雄瓦氏夫人」(『説剣論叢』所収)は、瓦氏夫人の武功の代名詞である双刀を謳った呉殳『手臂録』「双刀歌」につづいて、

「嘉靖六年(1527)、瓦氏の夫、岑猛と子どもの岑邦彦が相次いで死去し・・・」と書いてある。

あまりにもさらっとした書き方なので、これまで気に留めたことすらなかったけれど、この一件は、史上「岑猛之乱」と呼ばれているものだった。

 

〇明史記紀事本末:第五十三巻誅岑猛

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〇谷口房男「思恩田州叛乱始末記 ---明代注記広西右江流域における土官・土目の叛乱と改土為流---」

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〇山崎岳「同化と異化 ---明代広西の「猺獞」と土官岑氏一族---」

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「明初、広西西部右江流域の非漢民族集居地域では、前代に引き継いで土官岑氏一族による統治が行われていた。」(谷口房男「思恩田州叛乱始末記 ---明代注記広西右江流域における土官・土目の叛乱と改土為流---」)岑猛は、明初・洪武二年に田州知府になった岑伯顔から数えて七代目ということでよいのかな。

詳細な経緯は上記論文などに譲るとして、岑猛とその息子の邦彦が福建への赴任(左遷)を拒んで、高官への賄賂などを使いながら地元で巻き返しを図ろうとして企てたのが「岑猛の乱」(明朝側から見た言い方)で、朝廷に睨まれた岑猛は、義父(つまり瓦氏夫人の実父。瓦氏はもともと同じ岑姓で、同姓の岑猛に嫁いでから瓦氏を名乗る。そこで名乗ったのが、なぜ「瓦氏」なのかは未確認)の岑璋を頼る。

ところが、岑猛の、娘(瓦氏夫人)の扱いに対して不満をもっていた岑璋によって、岑猛は自決に追い込まれる。
その後、瓦氏夫人が、猛の妾が生んだ岑芝とともに浙江省への赴任の命令を躊躇することなく受け入れて、広西の「狼兵」を指揮して倭寇と戦ったのは、倭寇の侵略に対する愛国精神の現れ、とされるのが常だけれど、かつて赴任を拒み、最終的には自決に追いやられた夫のことは当然よく知っていただろうから、彼女としては黙って赴任する以外の選択肢はなかったような気もする。

  

瓦氏夫人の率いた広西の「狼兵」は確かに勇敢だったようだけれど、そのあまりの狂暴さに、地元の禍になったらしいことも多くの史書に記されている。石原道博『倭寇』から、関連する箇所を引用してみる。

 

『籌海図編』の「将才を択ぶ」の条には、将たるものは、「人を殺すことは草を刈るが如し」(「巻一一・経略一)とあるから、人を殺すぐらいは、まったく朝めしまえのことであった。「教練を精にす」の条において、兵部尚書楊愽は、「遠く客兵を調するは、郷兵を団練するに如かず。此れ誠に不易の論なり」といい、さらに、「況や、調する所の狼・土等の兵は、兇狼狂悖〔くるいもとる〕なること、倭奴に十倍するをや。(巻一一)」とのべているのは、とくに注目すべきである。倭寇の患害になやまされつづけたものの口から、それに十倍する残暴をはたらくのが、すなわち狼兵・土兵だというのである。「客兵を募る」の条には、このことを、もっと具体的にのべているが、たとえば兵部尚書張時徹は、

 

 今、兵を他省に募るは、動(やや)もすれば数千里を越ゆるも、徴発するには僅かに千百人のみ。…至る者は、未だ必ずしも皆、精ならず。之を以って闘いに赴かば、往往にして餌を貪りて敗を致し、官府の之を詰るを恐るるなり。即ち又、戈(ほこ)を棄てて鼠走し、過ぐる所の道路は、率(おおむ)ね又、其の狼豕(ろうし)〔ぶた〕貪残の性を逞しくし、白日には剽掠し、昏夜〔くらいよる〕には則ち婦女を汙瀆〔けがす〕し、一たび或いは捍拒〔ふせぎこばむ〕すれば、則ち露刃して譁(さわ)ぎて人を殺し、忌むこと無し。故に諺に曰く、寧ろ倭寇に遇うも、客兵に遇うこと毋かれ。倭に遇えば猶、避く可きも、兵に遇えば生を得ざるがごとし、と。此れに由りて観れば、客兵の有害にして無益なること明らかなり。況や、之をして久しく内地に居り、道路に間熟し、土風・民俗の事を習知せしむるおや。必ず不戦自焚の禍い有らん。(巻一一)

 

という。右のことわざや、「不戦自焚の禍」などといっているところに、この間の事情を、もっとも端的に、雄弁に、物語っているといえよう。客兵〔他郷からの兵〕には、調兵と募兵の二つをかんがえねばならないが、主事黄元恭は、募兵について、「募りて至る者は、烏合して統領の素無く、萍聚〔うきくさのようにあつまる〕して籍貫の真無し。況や、多くは游手・好閑・無籍の悪少なるおや。安んぞ知らん、其の武習を恃まず、衛に反いて仇と為り、山谷に嘯聚〔よびあつめる〕し、海島に党付する、皆、難からざるを」とのべているのは正しい。『籌海図編』の著者が、

 

若し四方に募を泛くすれば、則ち是れ烏合の衆・無頼の徒にして、之を招くは甚だ易きも、之を散らすは甚だ難からん。今日の兵は、夫れ他日の盗賊なり。蓋し家を離るること久遠にして、財は寄帰するを得ず、賭博に酗(くる)い、恒心〔つねのこころ〕なし。一旦、之を革〔あらた〕むれば、刧奪に非ずんば、何を以って生ぜんや。荊川(唐順之)の、遠募は近募に如かずと云うも、亦、此の意なり。(客兵を募る)

 

となげいているのも、まことに、もっともなことであろう。御史徐栻は、「客兵の地方の害と為るは、夫れ人にして之を知る。・・・蓋し狼兵は其の貪なること狼の如く、土兵は之に似たり。而して性は尤も狡譎〔ずるくて、いつわる〕、客兵の中、狼兵・土兵は尤も甚だし。一勝の後は、其の気は必ず愈々驕猛〔おごりたける〕にして忌むこと無し。・・・兵は素より相睦まず、散ずれば相顧みず、聚まれば則ち仇殺す。・・・茲に久しく留まりて制する無ければ、則ち其の悍恣の性は、過ぐる所は残擾〔そこないみだす〕し、村市は空と為らん。是れ倭の害を去ると一間なり」(同上)という。また、「客兵を調す」の条においても、御都史章煥が、客兵の残暴について

 

婦女を淫し、貨物を刧し、良民を殺す。是くの如ければ、則ち客兵の乱は、倭夷と等し。

 

といい、また、「調至の土兵は、賊は頗る畏忌す。然れども亦、獷悍〔あらくつよい〕にして馴れ難し。夫れ苗を以って倭を攻むるは、猶、毒を以って毒を攻むるがごとし。軽がろしく用う可からず。亦、久しう用う可からざる者なり」といい。今日の兵は他日の賊とか、客兵の乱は倭賊とおなじとか、苗をもって倭を攻めるのは毒をもって毒を攻めるようなものだとかの表現は、たんに「夷を以って夷を制す」とはまた別の意味の、客兵の残暴・害毒が、まったくおそるべきであることを指摘したものである。

石原道博『倭寇』PP.179-182

 

 このあと、『倭寇』では、客兵についての史書からの引用がさらに長く続くのだけれど、少々気がめいってきたので、原典からの読み下しの部分のみ転載しておく。

「広西の狼兵は、今、海内に於いて、尤も悍然と為す。・・・東蘭(広西省)・那知(東蘭県北)・南丹州(広西省)の狼兵は、能く少なきを以って衆きを撃ち、十出して九勝す」

「狼兵は、性は貪淫なり。家離れて遠く出で、酒肉を御すること罕れに、又、貨色の慾を獲継せず、怨を含み恨を飲む」(以上は、『籌海図編』の「客兵付録の条」(?)

「狼・土兵は肆(ほしいまま)に焚掠す。東南の民は、既に倭に苦しみ、復た兵に苦しむ」『明史』「周珫伝」

「(楊)宜は、狼兵、徒らに剽掠して用うべからざるを以って、江浙の義勇・山東の箭手を募り、益々江浙・福建・湖広の漕卒、河南の毛兵を調せんことを請う。此(この)ころ、客兵は大いに集まりしも、宜は馭すること能わず。川兵と山東兵と私闘し、幾んど参将を殺す」『明史』「楊宜伝」

「客兵の禍は、寇盗より甚だし。寇の害は、猶、方有るがごときなり。客兵は及ばざる無し。寇の至るや、人は猶、梃〔丸木〕を持ちて之を逐うを得るがごときも、客兵は、人を殺すも、人は敢えて怒りて訴えざるなり。即ち訴え有れば、反って之を益すの禍なり」(不明)

「狼兵は軽剽にして利を嗜む。倭の富み財貨有るを聞き、亟(すみや)かに之を取らんことを欲し、居民も亦、倭寇の暴に苦しみ、朝夕、倖(さいわ)いに一戦せんことを冀(ねが)う」『嘉靖東南平倭通録』嘉靖三十四年五月の条

「 是れに由り、倭患は日に新たにして、狼土兵は復た地方の苦しむ所と為り、東南の事は、愈々為す可からず」『世宗実録』巻四二二

「狼・苗の二兵は、浙江に敗衂〔やぶれる〕してより後、一も用うるに足る無し」

「狼兵の若きは、則ち徒らに地方を擾(みだ)し、繊毫も戦守の力無し」『世宗実録』嘉靖三十四年十月壬寅の条(巻四二二)

「狼兵は鷙悍〔あらくつよい〕にして、天下、最と称す。性は極めて貪淫にして、動(やや)もすれば制す可からず」鄺露『赤雅』

「狼兵数千、餉(しょう)を索(もと)めて至り、露刃して側に坐す」『福建通志』

 

これらの記述を見ると、呉殳の「双刀歌」に、瓦氏夫人の部隊の「規律は戚重熙(戚継光)に比し」とあることだけをもって、厳格な規律を保った部隊であったというふうに解釈するのは無理があるのではないかと思う。

 

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 ただ、山崎岳「同化と異化 ---明代広西の「猺獞」と土官岑氏一族---」を読んで、客兵の狂暴さは、もしかすると、倭寇の場合と同様に、誇張されて伝えられている可能性があるように思った。

…万暦『広西通志』は、諸夷の概説の結びの論を以下のように書き起こしている。

「今日両粤の政事を論ずる者はたいてい夷狄が中国を乱すというが、そのきっかけが夷にはないことをわかっていない。夷は漢語に習熟せず読み書きもできない。中国から亡命した連中こそが国法にたてつくのである。官府がこれを捕らえようとすれば山の奥に身を隠し、夷をそそのかしてその手引きをする。また無為徒食の遊民たちの中には、耕作に従事せず、喧嘩出入りを好み、もはや後がないとなれば自分から夷と結ぶ者がいる。(彼らは)利をえさに(夷)を剽掠に導き、夷は欲深く凶暴なのでその術中にはまり、禍い「が村々に及ぶのである。」

 漢人にして「蛮夷」の側に附く人々の存在は、『桂海虞衡志』にも指摘されており、決して明代に始まったことではない。「猺獞」が蜂起するたびに多数の漢人の脅従者を生んだ事実からも、こうした「蛮夷の叛乱」の背景に「漢人」社会そのものの脆さ、危うさが介在していることが窺われる。王朝体制からこぼれ落ちた漢人たちが、「夷」に従うことで活路を開いてゆくことは、この当時南北の辺境で広く見られた社会現象であった。西南中国は一方的かつ単線的に「漢化」したのではない。社会的・経済的に劣勢に立たされた人々の間には常に「蛮化」というそれとは逆方向の流れが存在した。そして、東南沿海部の「倭寇」などと同じく、「猺獞」もまたこの相反するヴェクトルの間で張りつめた複雑かつ多様な実体を、漢人たちが「他者」として対象化するために用いられたレッテルという一面があった。PP.48-49

 

 土官配下の兵士は土兵と呼ばれ、しばしば狼兵の名で史料上に現れる。彼らは「猺獞」の叛乱のたびに官軍側に動員され、全国にその勇猛ぶりを知られた。いわゆる嘉靖倭寇期には、湖広の保靖・永順両宣慰司から土兵六千名、広西の田州・帰順州・東蘭州・那地州から狼兵六千名が江南の戦役に徴発された。江南に駐留した土兵・狼兵については、戦功よりも徴用先で一般人民を虐げた話ばかりが誇大に伝わっているが、原因の一端は土官による兵士に対する扱いの苛酷さにも帰せられる。王士性によれば、土兵に支給されるはずの糧食はすべて土官の懐に消え、彼らは自分で兵糧を携えてゆかねばならなかったという。P.61

 

兵糧に関しては、現地調達した例もあったのだろう。「 廩〔こめぐら〕を毀(こぼ)ちて食を求め、甚だしきは、人畜を捲擄〔まきかすむ〕」(『湖南通志』にひく游雲得の辺防議。石原道博の前掲書より)とか、田川(州?)土官瓦氏の兵が、「日に蛇犬を需(もと)めて食と為し、且つ最も貪横なり」(『同治上海県志』同)というのも、その一環だろう。

 

漢人にして「蛮夷」の側に附く人々の存在は、倭寇の問題でも、指摘されている。

倭寇は)自らたどり着くことはできない。福建の内地にいる姦人の援助によるものであった。米と水を提供されたから長くいられる。貨物を提供されたから貿易を行える。案内をしてもらったので、奥地まで入れた。海に助っ人がいるのは、北の辺境にスパイがいるのと同様であり、スパイを取り除いてはじめて北虜を追い出せる。助っ人を厳しく取り締まってはじめて倭夷は平定されるであろう。

『籌海図編』「福建事宜」 陳履生「判刻の使い道 明代典籍の挿絵にある抗倭図の研究 『三省備辺図記』を中心に」の日本語訳

http://130.69.199.4/publication/kiyo/26/kiyo0026-09.pdf

 

倭寇や客兵を悪しざまに記すことで誰が得をしたのか、これ以上深くは立ち入らないでおく。

以上を前段にして、続けて、瓦氏夫人の双刀術に関連して『手臂録』をもとに少しメモしておきたかったのだけれど、ここまででもけっこうなボリュームになってきたうえ、まだうまく整理できない部分もあるので、続きは項(稿?)を改めることにする。

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若干余談ながら、近年、北京の中国国家博物館で所蔵の確認された「抗倭図巻」の一地番うしろに、「浙直文武官僚」「蘇松水陸官兵」「広*******長」の旗に続いて、「田州報効狼兵長」「川広義〇兵」の旗がみえる。

 

  
鄺露の『赤雅』には「岑家兵略」、「狼兵」という一節がある。

前者によると、岑氏の兵法は七人一組で、四人が撃刺を担当、三人が首級をあげるのを担当する。ここには双刀についての記述はなく、撃刺担当は「必ずしも武芸絶倫ならず」という(同じ文が唐順之『江南経略』巻八「調狼兵記」にもある)。「狼兵」は、「性は極めて貪淫にして制する可からず」とのことで、よく統制できた場合ば勝てるが、そうでない場合は敗ける、とのことで、使い方が難しいことが窺える。

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「調狼兵記」はP.23から その次が「僧兵首首捷喜記」

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 出展:『描かれた倭寇倭寇図巻」と「抗倭図巻」』 

 

描かれた倭寇:「倭寇図巻」と「抗倭図巻」

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  • 発売日: 2014/11/25
  • メディア: 大型本
 

 

 

2021.2.22

 鄺露の『赤雅』「岑家兵略」、「狼兵」についての記述とリンクを追加。