中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

幻の第七回全国運動会(1937)の上海市予選など

国民党時代の全国運動会は、1935年が第6回、日中戦争をはさんで第7回は1948年のはずだけれど、上海市では1937年6月に、第7回全国運動会のための予選が行われていたらしく、6月8日の時事新報に、男女の射箭、弾丸、踢毽、拳術、博撃の「初選」についての記事が出ている。
 
 
Shi shi xin bao (時事新報), 1937.06.08
写真の説明はありません。
 
拳術と博撃は6月6日の選考では時間が足りず、摔角とあわせて、13日に続けて選考を行うとのことだけれど、男子拳術の軽量級の試合結果に、「盧山勝徐文忠」とあるのに目がとまった。
この徐文忠は、一年前の1936年、上海市の第七届民衆業余運動会の拳術の部で「第一名」になっている徐文忠のことだろう。
 
 
Shi shi xin bao (時事新報), 1936.06.01
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この人物は、日中戦争終結後、中央国術館の東北分館設立を目指して開催され、上海市内の18か所の武術団体が参加した国術表演大会で「仁和国術社」の「領隊」に名前の出ている「徐文忠」と同じ人物なのだろうか。
 
同じ「徐文忠」という名前は、実は武術関係の記事にも幾つか出てくる。具体的には、時事新報のいくつかの記事において、上海共同租界の虹口地区の治安関係者として活動している記事に名前がでてくる。
 
たとえば、1929年10月には、脅迫状を送られたと市民の謝三希から通報を受けた虹口捕房の「華探」の徐文忠が、西洋人(西探)の「馬緝」とともに犯人の厳剣如を捉えている。
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だだ、この徐文忠華探、多少捜査に強引なところがあったのか、裁判沙汰で被告になったりもしている。
 
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 この1930年代~40年代の上海市の国術競技や演武会の記事に名前のでてくる「徐文忠」氏と、虹口地区の「華探」の徐文忠、さらには、80年代に来日した徐文忠老師が同一人物なのか、別人なのかはわからない。80年代に来日された徐文忠老師は、中華人民共和国成立後、過去の経歴(注)がもとで苦労をされていたはず。
 
 
なお、6月6日の記事で、女子の弓箭と弾丸で代表は「佟桂雲」と書いてあるけれど、佟佩雲の間違いではないのだろうか。
佟佩雲は1948年に再開された全国運動会では摔角代表に名前がでているけれど、弓箭にも秀でていたであろうことは以前にメモした。
 
 
6月14日時事新報の記事によれば、男子拳術軽量級は王彩章を正代表(正取)、田景星が補欠(備取)と決まっている。
 
(注)
 あんまり不確かな記憶に基づいたことは書きたくないけれど、日本では国民党時代の上海市長のボディーガードをしていた、といった話になっていたように思われるけれど、徐文忠に学んだ桂声萬がブログには、日本統治時代に呉世宝の部下として活動をしていた、と書かれていた。(現在、そのページを閲覧することができないけれど、かつてメモしたこの部分の表現は「在敌伪时期,曾在吴世宝手下做事」だった。)
呉世宝は上海市長ではなく、中国語版ウィキの紹介によれば、青幇にして76号特工総部の特務員。活動地域は公共租界ではなく、フランス租界だったよう。彼の妻の佘爱珍のボディガードとイギリス籍の巡長が銃撃事件をおこし、その後、彼の部下たちが公共租界の巡捕たちを暗殺する事件を起こしたらしく、だとすると虹口の華捕だった徐文忠と呉世宝はそう簡単に結びつけて考えることができない。その辺の仔細はどうせ調べてもらわからないだろうから、具体的に調べる予定はなし。
でも、どこかでなにかヒントが見つかることがあるかもしれないから、頭の片隅にはおいておこう。