中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

馬場毅『近代中国華北民衆と紅槍会』

前からずっと読みたいと思っていた本の古本がお手頃価格で入手できたので、年末をはさんで読んでみた。

筆者によれば「紅槍会」の語には、「一つは、文字通り赤い房(紅纓)のついた槍を持ち「刀槍不入」の信念で団結した秘密結社を指す狭義の意味」と「当時の「刀槍不入」の信念で団結した秘密結社の総称」としての広義の意味の用法があり、本書では両方の意味で用いられているとのことで、後者の意味では、大刀会、小刀会その他の名目の結社を含む。「当時」とは1920年代を指し、本書ではとくに山東と、それに先行する事例として河南の例が紹介されている。

 

よく見る中国武術の近代史の記述は、武術が民族スポーツの一つに分類されるに至った現在の立場から遡ってなされることが多いので、そこでは、精武体育会のような近代武術団体の誕生、学校教育における導入、競技化の歩みが詳しく語られることはあっても、それ以前から続く義和団式の武術がどうなったかについて紙幅が割かれることはあまり無い。しかし実際には「義和団の伝統を継ぎ、義和団の再来」(P.315の「結語」)ともいうべき紅槍会運動が「一九二〇年代と、一九三〇年代の抗日戦争開始後」に盛んになり、「中華人民共和国成立以後の一九五〇年代に弾圧されて姿を消」すまで続いていることがわかる。

(さらにいうと、その動きは70年代後半、人民公社解体後の農村の文化変容のなかで、「一度姿を消した紅槍会の類の結社を含む秘密結社が復活し」てきたとされ、「復活してきた紅槍会の類の結社の消長については、今後も注意深く見守りたい」とされる。)

 

 このブログの観点では、

 

1.封建王朝以来の、軍隊とは違う村落自衛組織の実際

2.迷信や呪術的な内容も含む義和団的伝統の継承

3.「神力」の源泉となる信仰の対象

 

などの点で示唆が得られた気がする。

 1.に関して、「結語」の一部を(長いけど)メモしておく。

・・・次に紅槍会の発展の原因とその運動について山東省を中心に略述する。一九二〇年代の軍閥混戦期には、まず例年のように起きる自然災害による農業経営の打撃、その上帝国主義国向けの商品作物栽培の普及及び貨幣経済の浸透による貧富の差の拡大による一部農民の離農化による土匪の増加があり、それへの防衛組織として地主・富農や自作農を結集して多くの村落を連合して紅槍会が発展した。そしてさらに発展してくると苛捐雑税を課す省統治者である軍閥の軍隊にも対抗した。本来村落の秩序維持は、国家が直接的あるいは官製の連荘会の組織化などにより間接的に行う仕事と思われるが、国家がそのような機能を果たし得ないところに紅槍会の発展の一因があると思われる。直魯連軍の苛捐雑税に対抗してしばしば暴動を起こした紅槍会は、一九二八年、国民党の支配が始まると、日本軍の膠済鉄路沿線二〇華里以内の軍事占領による山東省の南北分断によって北部、膠東への国民党支配が不可能だったことによる土匪の跋扈、一部の旧直魯連軍の雑色軍化および国民革命軍への参加による残存、それによる駐屯地での恣意的な苛捐雑税徴収策の継続によりその闘争を各地で継続した。また西南部において上から強権的に破除迷信(迷信打破)運動を展開した馮玉祥系軍の統治下にある国民党に対しても暴動を起こした。その際山東省支配の復活を図る張宗昌一派への働きかけもあったが、それ以外に国民党支配下において、農民の望むほどには苛捐雑税が軽減されず、その上破除迷信(迷信打破)運動が彼らの思想の中心である「刀槍不入、降神付体」への真っ向からの挑戦であったからである。一九二九年五月以後になると、日本軍の膠東鉄路二〇華里以内からの撤退による国民党の膠東への実効支配の実施、張宗昌の反乱に呼応した旧直魯連軍の破壊、駐屯軍の現地での給養の徴集禁止、国民党による民団や紅槍会の人民自衛団化にみられる統治の末端への抱え込む試み等により、紅槍会の闘争は沈静化していった。

 紅槍会が再び盛んになるのは、抗日戦争開始後、日本軍が華北に侵入して以後であった。そこでは日本軍の攻撃により、国民政府の統治機能が麻痺し支配秩序が崩壊した。山東省でも抗日戦争初期、山東省主席兼軍指揮韓復榘の命により、黄河北岸から県長などの官僚および国民党軍が撤退し、政府の統治機能は崩壊し、農村では、土匪や敗残兵の襲撃、さらには日本軍の進行に直面し、村落自衛のために再び紅槍会が盛んになった。PP.316-317

 

 

紅槍会の呪文修行の対象になる神々の例が、P.32に掲げてある。この中にある、「金剛将」は「仏教の寺院の前にいて守護している金剛力士であると思われる」と書いてある。金剛力士であるとすれば、本来那羅延であるはずの緊那羅であるとも解釈できる気がする。

 〇本書P.32より

同ページにも紹介されている『支那の動乱と山東農村』は、国会図書館デジタルコレクションで確認できる。

dl.ndl.go.jp

 

 

前記のように本書は、武術についての専門書ではないけれど、「第二章 紅槍会の思想と組織」の中で、紅槍会の武術修錬についてはまとめて述べられている。端的には、それは「それ自体としては儀式的色彩の濃いもの」、「「刀槍不入」「銃や砲は身を傷つけない」という宗教的確信のためのものであった」とされる。

その項のまとめの部分から。

 ところで紅槍会の武術修練そのものは、敵の「刀槍は入らず」「銃砲は身を傷つけることはできない」という受け身的、儀式的、演劇的なものであった。そして普通には、会員たる零細自作農は一方において耕作に携わっているが故に、「彼らは平時には戦闘を重視せず、訓練も重視しない」(62)とあるが如く、恒常的には専門的な軍事訓練をしたり、軍事技術の習得を行わなかったようである。だがその時でも、いざ戦いになると「刀槍不入」の不死身であるという確信を持ち、軍隊組織のもと「敵前逃亡者には死を!」という厳しい規律に支えられ、熱狂的かつ勇敢に戦った。さらに土匪や軍隊との戦いを経る中で、必要に迫られて軍事訓練を行うようになってきたようである。例えば溧陽大刀会は、九八日の修行の後、文科では専門に符咒、銃を避ける等の法術を学習し、武科では突撃して敵陣を陥落させる技倆を学習したという(63)。

 その他、協調したいことは宗教的・武術的修練によって、敵の「刀槍不入」「銃砲は身を傷つけることは出来ない」という不死身になるという信念と、自らが槍や刀のみならず、ピストル、機関銃、大砲等の攻撃用の近代的兵器で武装することは、彼らの世界では矛盾しないことである。

 彼らの不死身の信念が最もゆらぐ可能性があるのは、戦闘において銃弾等によって仲間が死ぬ時であるが、その時老師は、その死者の心はまことではななく(戒律を破って)悪いことをしたか、出陣のときしりごみした気持ちがあったからだと述べ会員を納得させたのである。

 したがって、李大釗(64)およびそれを下敷きにされた里井彦七郎氏の近代的武器を持った敵との闘争の敗北→機関銃、大砲等の近代的兵器の装備→銃砲を避けるという宗教信仰=非合理的側面の克服という図式(65)は、事実にあわないし、義和団および紅槍会の世界を内在的じとらえていない。

 

注釈部分

(62)霽帆「介紹河南的紅槍会」(『中国青年』第一二六期、一九二六年7月)

(63)張振之『革命与宗教』民智書局、一九二九年、171頁

(64)李大釗「魯豫陝等省的紅槍会」(『政治生活』第八〇・八一期、『李大釗研究辞典』(紅旗出版社、一九四四年、九九頁)

(65)里井彦七郎『近代中国における民衆運動とその思想』東京大学出版会 一九七二年、二九〇頁

 

 

2.に関しては主として「第二章 紅槍会の思想と組織」の「五 武術修練」の項で紹介される。

筆者の見立ては、端的に以下のとおり。

紅槍会の武術修練は、管見の限りではそれ自身としては儀式的色彩の濃いものであり、「刀槍不入」「銃や砲は身を傷つけない」という宗教的確信のためのものであった。(P.45) 

 

そこをさらに詳しく述べた部分。

 

…紅槍会の武術修錬そのものは、敵の「刀槍は入らず」「銃砲は身を傷つけることはできない」という受け身的、儀式的、演劇的なものであった。そして普通には、会員たる零細自作農は一方において耕作にたずさわっているが故に、「彼らは平時には戦闘を重視せず、訓練も重視しない」とあるが如く、恒常的には専門的な軍事訓練をしたり、軍事技術の習得を行わなかったようである。だがその時でも、いざ戦いになると「刀槍不入」の不死身であるという確信を持ち、軍隊組織のもの「敵前逃亡者には死を!」という厳しい規律に支えられ、熱狂的かつ勇敢に戦った。さらに土匪や軍隊との戦いを経る中で、必要に迫られて軍事訓練を行うようになってきたようである。例えば溧陽大刀会は、九八日の修行の後、文科では専門に符咒、銃を避ける等の法術を学習し、武科では突撃して敵陣を陥落させる技倆を学習したという。

 その他、協調したいことは宗教的・武術的修練によって、敵の「刀槍不入」「銃砲は身を傷つけることは出来ない」という不死身になるという信念と、自らが槍や刀のみならず、ピストル、機関銃、大砲等の攻撃用の近代的兵器で武装することは、彼らの世界では矛盾しないことである。

 彼らの不死身の信念が最もゆらぐ可能性があるのは、戦闘において銃弾等によって仲間が死ぬ時であるが、その時老師は、その死者の心はまことではなく(戒律を破って)悪いことをしたか、出陣の時しりごみした気持ちがあったからだと述べ、会員を納得させたのである。 PP47-48 

 

 これらの紅槍会の「法術」を相手にする軍隊の側にも呪術的なものが見られる。

たとえば1926年、秦大文、郭廷倹率いる汶上の紅槍会と対抗した許琨の直魯連軍第七軍は、紅槍会の法術を破るために、血が法術を破るとの考えに基づき、黒犬一〇〇〇余を殺してその血を銃につけていたという(P.114)。(しかし、多勢に無勢で包囲され兵士一〇〇人ほどが殺される。つまり、直魯連合側は簡単には紅槍軍の法術に対処できていない。)

 

「処女を裸にして城壁に立て、包囲軍の的にするような可逆的な行為」もあったという(P.159 章邱の事例において、紅槍会に包囲された元直魯連軍営長であった土匪張明(鳴)九の県城籠城時の対応。)

 

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ちなみに、時代も場所も若干異なるけれど、それらとの関連で、新たに見つけた史料二つをメモしておく。

一つは、昭和七年、敦化(吉林省延辺朝鮮族自治州)で「大刀会匪、紅槍会匪」と戦った関東軍のよる記録。

 この中に、「大刀会匪、紅槍会匪等の大部火器ヲ有セス大刀或ハ槍ヲ以テ最初ヨリ白兵戦ヲ演スル場合多キヲ以テ之ニ対抗シ得ルノ兵器を所持セシムルコト必要ナルヘシ。特ニ刀或ハ小銃ヲ携行セサル者に対シテ然リ」

「彼等ハ或ル迷信ノ下ニ頗ル勇敢ニ前進シ来ルヲ以テ動セス剣術ニ十分自信ヲ有セシムル如キ教育ヲ実施スルコト緊要ナリ」

「彼等ハ突撃に当リ呪文ヲ唱へ前進ヲ起スカ如ク前線騒然タルヲ以テ其時機ヲ看破スルコトヲ容易ナリ」などとある。

また、「大刀会紅槍会匪に関する参考」の中に、彼等の「砲弾ヲ防ク法」などが記されている。これらは「去ル十五日ノ戦闘に於テ敵ノ遺棄セル手帖ノ中二記載シアリシ文句ヲ譯セルモノナリ」という。

www.jacar.archives.go.jp

 もう一つは、翌昭和8年4月、益世時報社が浅草で開催した「時局満蒙展覧会」の展示品の中の資料で、この中に現地で押収した、大刀隊や紅槍会の武器があるのだけれど、三本の槍のうち一本には呪文が附着しているたり、それ以外にも、呪文と呪文入り袋などがなどが含まれてることがわかる。どこかに実物の写真とか残ってないのだろうか。

www.jacar.archives.go.jp

 

3.については、「第二章 紅槍会の思想と組織」「三 紅槍会の神々・儀式」に詳しいけれど、このブログの観点からとくに興味深いのは、たとえばP.32で紹介されている、祭壇に祭られる神々の中に金剛将がいること。

筆者は「金剛将は、仏教の寺院の前にいて守護している金剛力士であると思われる」(PP.32-33)として、特にそれ以上の考察はないけれど、金剛将が金剛力士であるとするならば、それは緊那羅であると思われ、少林寺由来の武術がこうした紅槍会組織に伝わっていた可能性がある…ともいえないだろうか。祭壇にいるほかの神格についても、それに由来する武術を伝える教師が招聘されていることを反映しているのかもしれない。

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*** 

その他、本書は1920年代の山東省(およびそれに影響を与えた周辺諸々諸省の動き)の状況を扱っているので、一時は郭松齢とともに張作霖に反旗を翻そうとした李景林が、密約を結んでいたはずの馮玉祥から裏切られ、張宗昌の直魯連軍の側にたち、張作霖とよりを戻そうとしたあたりの動きも、詳しく説明されていてよく理解できた気がする。

 

また、この当時の中国共産党の方針としては、河南省等での経験に基づきつつ、政権奪取のための軍事力として紅槍会の武力を一時的に利用こそするが、それは独自の軍事力に欠けるがゆえの一時的な措置で、暴動が発展するにしたがって、農民たちに階級意識の自覚を目覚めさせ、紅槍会の組織自体も解体しなければならない、と冷徹に考えていたことがわかって興味深い。言い換えれば、政権奪取や勢力拡大に使うだけ使ったら、あとは捨てるつもりであったということで、このあたりの動きは福本勝清『中国革命を駆け抜けたアウトローたち』にも詳しく紹介されていた。

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