中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

「洋人大力士」たち2

SNSで、王子平と北京の中央公園で戦ったとされる「康泰尔(爾)」に関する写真が、日本で「発見」された、という記事が流れてきた。

Mantis Boxing and Staff Combat: Chongdetang (Чундэтан)


記事によれば発見者はF.Kuvasovという人で、彼が発見したという写真の出典等はかかれていないけれど、写真の左側の文字をヒントに探したところ、出典はどうやら『武侠世界臨時増刊相撲画報』大正9年夏場所号であるらしいことがわかった。
雑誌の現物は見ていないけれど、この記事について紹介されたブログがあり、2020年の5月頃公開に更新されている。写真には、上掲のFBページに使われていたものと違う写真もあり、小兵な力士たちが左右に分かれて、両側から、ケンテルが胸の前でなにか器具を挟んで組んだ両手の肘の部分につけた紐を引っ張っている写真がある。

ameblo.jp

 

ロシア語もわからないし自分には判断できないけれど、「康泰尔」とケンテルが同一人物で間違いないとすると、中国武術史上に登場する外国人力士の中で、日本ともかかわりもあったことがわかる人物、ということになって面白い。ほかにはそんな例は聞いたことがないけれど、だれかいるんだろうか。

 

その彼が1920年、「出羽の海部屋」にどういう経緯でやってきたのかはわからないけれど、北京の中央公園で王子平と「対戦」したのは、唐豪の「王子平伝」によれば民国8年(1919年)のことなので、中央公園での出来事(後述)よりはあとのことになる。
出羽の海部屋に現れたケンテルは「力試しにと試合を申込」んだというわりには、試合の結果については書かれておらず、彼が行った力技のパフォーマンスのことだけが記されている。写真にあるように、力士たちに紐を左右から引っぱらせたことを「試合」と言ったのだろうか。

 

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ケンテルという日本語名がわかったところで、なにか他に情報が得られないかと思って邦字新聞コレクションを検索したところ、北畑兼高に関する1933年の記事がいくつかヒットした。

これらの記事から、彼はこの当時、力自慢のパフォーマンスで知られていた人物であったことがわかるけれど、かつてケンテルのパフォーマンスを見て刺激を受け、相撲部屋に入門するが、背が低すぎるということで力士にはなれず、柔道や剣道、ボクシングなどを学んだことがわかる。

 

〇「世界 怪力青年北畑兼高君」(日米新聞 1933年3月24日 第4面)

Nichibei Shinbun 1933.03.24 — Hoji Shinbun Digital Collection

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〇古川天洲「怪力青年北畑君と語る」(加州毎日新聞 1933.2.10 第2面)

Kashū Mainichi Shinbun 1933.02.10 — Hoji Shinbun Digital Collection

 

少し脱線して北畑兼高について調べてみると、国会図書館デジタルコレクションの下村海南著『呉越同舟』の中に、北畑について触れている文章があった。下村が大阪清交社の社報で見たという、北畑についての文章を採録したものだけれど、日本体育協会会長を務めた人物が、わざわざ著書の中に転載しているくらいだから、やはりそれなりに目を引く人物あったのだろう。

 

dl.ndl.go.jp

 

これも実物は確認していないけれど、北畑の鍛錬法は、日本のボディビルの父、若木竹丸の鍛錬法の本にも紹介されており、若木の鍛錬法は大山倍達木村政彦も影響を及ぼしている。また彼自身、後年、プロレスラーになったようだけれど、プロレスラーとしての実績などはよくわからない。

彼が考案したという、「いろは体操」もちょっと気になるところだけれど、詳しい情報は今のところ見つけられていない。

 

ヤフーオークションには、北畑兼高が、人がたくさん乗った車を引っ張っている写真も見つかった(注1)。

 

aucview.com

 

いろいろ話が飛んでしまったけれど、この北畑が、自分の鍛錬の原点として、ケンテルのパフォーマンスを見て刺激を受けた・・・と語っている点からも、ケンテルのパフォーマンスはとくに日本人に挑戦状をたたきつけるための己の力の誇示というのではなく、純粋に怪力パフォーマンスであったのではないかという気がする。
それが、中国で王子平と対戦して恥を恥をかいた経験を踏まえてのものなのか、もともとの彼の「興行」スタイルなのかはよくわからないけれど、なんとなく後者と考えるのが自然に思える。

 

 

それで、最後に、ケンテルと王子平が対戦したという話はいつ、どうやって持ち上がったてきたのかを改めて調べてみた。

北京の中央公園での王子平が「康泰尔(爾)」の対戦を時事ネタとしてとりあげた記事自体は、華字新聞データベースからは確認できなかった。同データベースに王子平が登場するのは、1921年の5月に、馬良率いる「振(賑)災武術団」が上海を訪問した際にメンバーの中に出てくるのが最初と思われる。(キーワード検索から漏れてしまう記事もあるので、断定はできない。)その記事から、彼の演じる「攀樹特技」(雑技でよく見かける竿登りのようなものか?)がこの団の見もの(翹楚)であったことがわかるけれど、この時点では、その人となりについての踏み込んだ紹介はなく、かつて「康泰尔(爾)」と対戦したということについても触れられていない。

 

〇時事新報1921年5月2日「中華武術會之成績」

Shi shi xin bao (時事新報) 1921.05.02 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

「…其中有大力士王子平君、并當場演各種攀樹特技、尤為該團之翹楚云。」

User clipping image

 

※民国日報1921年5月3日「中華武術會の表演」

時事新報の記事とほぼ同じだけれど、若干表現が異なる。

「…其中有王子平君。當中演各種攀樹特技。尤為可観。」

Minguo ri bao (民國日報) 1921.05.03 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

その後、22年9月に、馬良が著書の宣伝の名目で再び上海に来て、中華武術会で講演を行った際に、高弟(高足)の王子平を伴っていることがわかる。この講演会の告知記事で、王子平は「撃敗康泰爾之王子平大力士」と紹介されている。

Minguo ri bao (民國日報) 1922.08.30 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

User clipping image



そして、9月4日の民国日報(やはり時事新報にも記事があるけれど、民国日報のほうが若干詳しい)を見ると、そのパフォーマンスの内容がわかるけれど、このときは「石担」を両手でもちあげたあと、肩や背中で旋回させたり、地面に横たわって足でこれをささえて回転させたりしたらしい。興味深いのは、馬良が今後、上海を「武術の中枢」にするために、王子平を中華武術会の教練として上海に留める意向を表明している点か。

Minguo ri bao (民國日報) 1922.09.04 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

User clipping image

 

その言葉のとおり、翌10月、馬良は正式に家族を連れて、青島から上海に居を移し、王子平もこれに従って上海に移っている。(そのことは以前にもメモした。)

上海に移った馬良らは、11月16日には中華武術会において、馬子貞、王子平および馬西民など二十余名による講演と表演を行っている。

 

また、12月7日には、南洋大学で、さらに大人数の四十余名による講演と表演を行なうなど、精力的に武術の宣伝を行っている。このときの表演の内容は中華新武術と各種の技芸。メンバーとしては、王子平大力士のほか、馬西民(注2)、王峻峯の三人を特出し。

このころ南洋大学技撃部の教練は唐豪の師である劉震南であったはず。

Shi shi xin bao (時事新報) 1922.12.07 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

この勢いのまま、1923年5月の全国武術運動会になだれこんでゆくのか。

同運動会を取り上げた『国技大観』には、唐豪による「王子平伝」(目次では「大力士王子平君略伝」)が掲載されている。ここに至って、王子平は、たんなる大力士でなく、各種の武術(幼秉承家伝、長於八極派武術、而披掛形意太極挿花炮紅諸門)を身につけていることが改めて紹介され、北京における「康泰尔(爾)」との対戦の詳細も事細かく説明されている。

それによると、証人を立てて、何があってもお互い恨みっこなし(注3)と確認して臨んだ対戦で、「康泰尔(爾)」は、手を出した瞬間に倒されてしまい(甫交手、康已掊地)、それをみた観衆に失笑されると、約束を反故にして、どこかに逃げてしまった(不知潜匿何許矣)らしい。

出会いがしらに倒されただけで、一手も反抗せずに、そのまま逃げてしまったというこの記述を見る限りは、やはりケンテルというのは格闘技の経験者というよりは、力自慢の大道芸人というのがふさわしい気がする。(だったら、そもそもなぜ生死をかけるような協約を確認をしたのかは謎。あるいは、一手交えてすぐに実力の差を悟ったという可能性も。)

前後の文章を見る限り、そもそも北京の公園で中国人を馬鹿にするようなことを言ったのは、彼本人ではなく、かれの代理人(舌人)のようなので、この代理人が、ケンテル自身が思いもしなかった方向に話を進めてしまったということではいかという気もする。

この代理人ブルース・リーの『ドラゴン怒りの鉄拳』に、日本人の手先になって精武門の人たちをさんざん馬鹿にする中国人が出てきた(ような気がする)けど、あんな感じの人物をイメージするとわかりやすいのかもしれない。こういった手合いが、興行を盛り上げるために誇大な宣伝を行った挙句が生死をかけた対戦に発展したのだとすれば、ケンテルにとってはまことに気の毒な話ではある。

 

zigzagmax.hatenablog.com

 

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(注1)

こういう、車を引っ張ったりする怪力パフォーマンスの元祖はどこにあるんだろう。

(まさか、易筋経にも出てくるような、重りを載せた車輪と睾丸を結んで引っぱるような(「海岱游人序」)が元祖ということはないと思うけれど・・・。これはこれで、なにか情報があるのなら追いかけてみたいテーマではある(笑)。

 

 (注2)

『国技大観』には、唐豪と馬西民の「記十八武術専家」がある。

 

(注3)

唐豪「王子平伝」

「…雙方各延公正人、約死傷勿恤、期既定、各報咸載其事…」