中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

ベルリンオリンピックの国術代表団(代表選考その他)

ベルリンオリンピック(1936)の国術代表団の選抜過程について、その後新たにわかったこと。

いろいろ脱線したり、詰込みすぎの感もあるけれど、そもそもが備忘録、雑記帳なので気にしないでおく。

 

1934年の10月には、早くも選考基準らしきものが発表されている。

Shi shi xin bao (時事新報) 1934.10.24 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

それによると、主な選考条件は

年齢:年齢は19歳から26歳まで

学歴:初中または高小以上(注1)

その他:体重 150ポンド~240ポンド

とあり、かつて拳械摔角拳鬥を学んだことがあるもの、といった条件もある。

この時点では、まだ中華民国側からオリンピック委員会へ、国術代表団の派遣についての打診はされていないようで、あくまでも代表派遣が認められた場合、中央国術館としてはこういう形で選考したい、という考え方にすぎないけれど、オリンピックへの代表派遣についての並々ならぬ期待が伝わってくる。 

 

その後実際に、いつ、どういう形でオリンピック委員会の了解が得られたのかはまだ確認できていないけれど、1936年1月27日、中華全国体育協進会は董事会で、ベルリンオリンピックの各競技の選考責任者を協議。重量挙げと国術については褚民誼(常務董事)を招集人として、張之江、沈嗣良、葉良の計四人とすると決議されている。(この時点で、張館長は昨年より引き続き外遊中。)

国術代表枠の人数のところに、ちょうど変な線があって、見えない。

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.01.29 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

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baike.baidu.com

 

上記決定後、1936年2月2日初旬、中華全国体育協進会の選抜委員会は、国術選手の選抜に向け「参加世運挙重比賽及国術表演選抜簡則」を発表する。

それによると、選抜条件は

年齢は20歳から35歳、

学歴は中等学校程度

となっていて、その他にも「品行端正」で「欧西普通習俗」に通じていること、などの条件が課せられている。

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.02.02 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

王開文『青島武術研究』によると、青島国術館は36年2月中旬に中華全国体育協進会が各省市教育庁(局)に宛てて発出した公文書を受け取って選考に着手している。

 

2月25日付華北日報は、北平市国術館も公文書を受け取り、これから選考に着手と報じている(実際には代表推薦は見送られている)。同記事は、中華全国体育協進会の文書の全文が引用されている。

選手の推薦(保送)は省市の教育庁局或いは各省市国術館となっていて、必ずしも各地の国術館が選考の責任を全面的に追っていないことがわかる。

また、推薦人数も、あらかじめ定められた人数枠から、「4名を超えてはいけない」となっているのが面白い。

Hua bei ri bao (華北日報) 1936.02.25 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

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3月15日に行われた青島市内の選考には欒秀雲、石秀蘭、李世基、張培岳、張仁傑、荊克倹、李乃禎、藍信成の8名が事前にエントリーし、実際に選考に参加したのは欒秀雲、李世基、李逎(乃)禎、藍信成の4名。

同書によれば、選考はまず向九禹、楊明斎、高雲峰の三人を選考委員として実技を見たあと、「我是一個中華民国人」、「我家住在青島」、「我最喜歓練拳」、「我会説幾句英語」の英訳と「オリンピックに参加する意義(試述参加世運会的意義)」の作文が課せられ(この部分の採点者は不明)、最終的に市長の承認を経て候補者が決められ、青島市からは、上海で行われる予選に欒秀雲の1名のみが参加することになった。

各省市からは、5月に上海で行う本選考に、国術表演は6名まで、重量挙げは4名までの推薦枠が認められていたけれど、青島市が候補を敢えて1名(重量挙げの推薦選手は無し)に絞ったのは、選考参加の旅費等を推薦機関が負担することになっていて、その経済的負担も考えたせいかもしれない。

実際、河北省は、予算及び人材不足の双方の理由から、上海の予選には代表を派遣しないと3月8日の華北日報は報じている。

その点でいうと、上海市には旅費負担が生じないせいか、国術6名、重量挙げ4名の推薦枠すべてを行使している。『青島武術研究』に紹介されているレベルの詳しい選考経緯は不明だけれど、4月26日に実施されたと思われる上海市内の選考会で、国術は褚民誼、葉良、徐致一、佟忠義、朱廉湘を選抜委員として、18名の候補の中から6名を選出している。 よく見ると、武術関係者のほかに、重量挙げで推薦されている査瑞龍と常冠群(注2)の二人も武術関係者であることがわかる。査瑞龍をめぐっては、最終選考でちょっとした物議がもちあがる(後述)。

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.04.28 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

ちなみに、上海市のほかに、南京市と浙江省も6名(注3)の国術候補を推薦しているのは、やはり旅費等の負担が少ないといえるかもしれない。(浙江省推薦の6名のうち、何長海は重量挙げの代表候補でもある。何長海については以前にメモした。)

そもそも一名も候補者を送り込んでいない省も少なくない。5月に上海で行われた代表選考参加者は後述のとおり25名。上海市浙江省、南京市だけで18人を占める。(残りは河南省4、青島市1、江西省1、中国駐日留学生監督処1)

ベルリンオリンピックの国術代表団2 (+予選参加者) - 中国武術雑記帳 by zigzagmax

 

若干話が脇道にそれるけれど、重量挙げ選手として選考に参加した査瑞龍は上海の本選で落選する。落選理由について、彼が映画主演で得た知名度を利用して過去に南洋で公演を行っていたことがアマチュア規定に反すると判断されたかのような記事もあり、それに対して上海市側が抗議をし、体育協進会側が妥協案を示したようにも見えるけれど、最終的には物別れに終わったように見える。

彼の主演映画の中には共産主義を宣伝する映画にもあったようなので、アマチュアリズム云々は言い訳で、そのあたりの思想傾向等が、選考側と相容れないと判断されたのかもしれない(注4)。

 

ちなみに、或る意味において優秀人材がもっとも集まっていると思われる中央国術館は、館長以下、主だった面々が1933年に続いて二度目の南洋旅行団を行っており(張館長自身は、その前に欧米視察を行っており、35年8月に出国している)、2月から3月にかけて、選考がまったく進んでいない。

オリンピックのことは情報としては頭にあったはずだけれど、張館長がなぜ敢えてこの時期に長期にわたる外遊を組んでいたのか。そのあたりの理由はわからないけれど、とにかく、選考責任者の褚民誼としては気が気でならなかっただろう。

褚民誼は、3月初旬、張之江に対して、早く帰国して選考に協力するよう電報を送っているけれど、張館長はさらに1か月後の4月10日にようやく上海港に到着、16日に南京に戻り、そこから月末にかけて南京市の選考が急ピッチで準備される。張文広の自伝によると、南京市の代表選考は、4月25日から28日がエントリーで29日の午前に選考が行われ、ようやく候補が決まる。

 

〇時事新報1936.3.6

褚民誼が中央文化事業指導委員会副主任委員の名義で張之江館長に、国術代表選考のために早期帰国を打電。なぜ、この肩書を使って帰国を呼び掛けたのだろう。この辺にもなにか思惑がありそう。

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.03.06 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

〇時事新報1936.4.10

張館長は4月10日にようやく上海港に到着。

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.04.10 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

4月11日付實報によれば、帰国後、張館長は、「二、三日後に南京に戻り、全国をまわって体育の宣伝を行う」とコメント。(目前に迫っているはずの、国術代表選考についてのコメントはなし。)

Shi bao (實報) 1936.04.11 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

〇東南日報1936.4.16

南京には4月16日に到着。自宅でしばし休息のあと、馮玉祥に帰国報告を行っている。

この記事から、張之江館長は35年8月以来各国を外遊していたことがわかる。

Dong nan ri bao (東南日報) 1936.04.16 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

 

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5月の上海・申園における選考も必ずしも順調に進まなかったように見える。

5月12日の時事新報は、11日に行われた選考(女子6人を含む25人が参加、各人4種目を披露。選考委員は褚民誼、張之江、徐致一、葉良、郝銘、佟忠義の六人)はすべて終了し、今日(12日)の午後にも得点が集計され、選手の名簿が発表される予定で、すでに初選・決選ともに終了していることから、当初14日に予定されていた決選はキャンセルになった、と報道している。

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Shi shi xin bao (時事新報) 1936.05.12 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

翌13日に選手の名前が発表さえるかと思いきや、逆に、12日の時点では「中止」を宣言した「決選」を13日に行うとし、13名の選手の参加名前と種目が公表されている。同紙によれば、「決選」を行う理由は、11日の選考では、選考委員全員が揃わず、分担方式(「分工」)をとり、全員で審査を行わなかったこと(これでは当然、得点の集計は困難になるだろう)と、非選考委員の「某君」が選抜に口をはさんだことを挙げ、13日の「決選」は、褚民誼、張之江、葉良、沈嗣良により行うと報じられている。選考委員側の急な方針変更のためか、当初予定されていた13名のうち、馬星五は欠席、朱文偉は棄権となっている。朱文偉の棄権などは、選考過程に対する抗議の意思ではなかったか。

 果たして、誰が誰をねじこもうとしたのか、詳細は不明。

これは憶測だけれど、そもそも選考委員は1月27日の決定のとおり、褚民誼、張之江、葉良、沈嗣良の四人で行うべきところ、なぜか5月11日の選考委員には沈嗣良の名前がみられず、地元上海の武術団体の有力者であって、上海の代表選考にも参加している徐致一、佟忠義が加わっているのは、やや委員の構成として公平を欠く気がする。もしかすると、そのあたりが問題になったのではないか、という気がする。

 

〇1936年5月13日付時事新報より、最終選考参加者(欠席・棄権者含む)とその演武種目 

一、金石生 乾坤剣、乾坤拳、勇戦刀、六合槍

二、鄭懐賢 形意拳、飛叉、六合刺槍、崑崙刀、双刀進槍

三、張文広 剣、槍、拳

四、田景星 双拐、大刀、剣、単刀

五、馬子文 単刀、大刀、槍、双虎頭拐

六、寇運興 単刀、槍、大刀、拳

七、温敬銘 綿拳、三才剣、断門槍、対三合剣

八、張爾鼎 剣、双刀、棍、拳

九、劉玉華 大紅拳、双刀、小五槍、龍行剣

十、翟漣沅 査拳、盤龍剣、梅花槍、双刀対槍

十一、傳淑雲 坤吾剣、梅花槍、対三合剣

十二、馬星五 欠席

十三、朱文偉 棄権

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Shi shi xin bao (時事新報) 1936.05.13 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

13日の選考の結果、5月14日に候補者が発表され、5月21日から中央国術館で合宿が行われている。

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Shi shi xin bao (時事新報) 1936.05.14 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

6月8日には、最終選考の選考委員も務めた褚民誼が、代表たちに2時間にも及ぶ訓話を実施。

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.06.09 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

出発直前には、何度か公開演武が行われている。たとえば6月15日に大光明戯院では以下の内容が披露されている。

開始にあたり、上海市長、ドイツ駐上海領事館の代表、西洋人陸上競技委員会代表の白乃徳、褚民誼が挨拶。

一、少摩拳 金石生

二、龍行剣 龍玉華

三、二十四式 傳淑雲

四、六合双刀 張爾鼎

五、四路査拳 翟漣沅

六、花槍 温敬銘

七、五路査拳 張文広

八、春秋刀 寇運興

九、単刀 金石生

十、対拳 温敬銘・張文広

十一、単刀進槍 寇運興・鄭懐賢

十二、双刀進槍 鄭懐賢・翟漣沅

十三、空手奪槍 温敬銘・張文広

十四、飛叉 鄭懐賢

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.06.15 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

また、6月19日には、四川路青年会大礼堂で表演会が行われている。

そこで披露された内容は以下のとおり。

 

一、挨拶 郝銘

二、少摩拳 金石生

三、大紅拳 劉玉華

四、四路査拳 翟漣沅

五、羅漢影 張爾鼎

六、梅花拳 寇運興

七、崑崙剣 金石生

八、六合双刀 張爾鼎

九、子龍槍 劉玉華

十、太極拳 傳淑雲

十一、対拳 温敬銘・張文広

十二、武當対剣 鄭懐賢・張爾鼎

十三、双剣 傳淑雲

十四、梅花刀 寇運興

十五、双刀進槍 翟漣沅・鄭懐賢

十六、単刀進槍 劉玉華・寇運興

十七、空手奪槍 張文広・温敬銘

十八、五形椎 郝銘

十九、飛叉 鄭懐賢

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.06.19 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

6月26日には、代表選手ごとの演目が発表されている。

これらの種目を組み合わせて、会場ごとの「セットリスト」が作られたということだろうか。

選手ではないはずの郝銘と顧舜華の演武種目も決まっているところが面白い。

張文広

 (一)五路査拳、(2)二路査刀、(三)対擒拿、(四)三路砲拳、(五)梅花刀、(六)大刀単刀、(七)昆吾剣、(八)大刀槍、(九)純陽剣、(十)対剣、(十一)査槍、(十二)空手進槍、(十三)鎖口槍、(十四)対扎槍、(十五)五虎棍、(十六)猿臂棍

 

温敬銘

 (一)綿拳、(二)断門槍、(三)奪槍、(四)六合刀、(五)大刀槍、(六)対三合剣、(七)対拿法、(八)対扎槍、(九)梢子槍、(十)対劈刀

 

鄭懐賢

 (一)雑式椎、(二)宿星剣、(三)単刀槍(寇運興)、四、崑崙刀、五、双刀槍(翟漣沅)、六、飛叉、七、大刀槍(翟漣沅)、八、大刀小刀(張文広)、九、対剣、十、対八打(翟漣沅)、十一、三戦槍

 

金石生

 (一)少摩拳、(二)少林槍、(三)応戦刀、(四)乾坤拳、(五)梅花刀、(六)飛虎「戦」、七、盤龍棍、八、梅花大刀、九、梅花双槍、十、六合双刀

 

張爾鼎

 一、羅漢影、二、五子梅花、三、単刀対槍、四、飛天掌、五、護身槍、六、少林拳、七、梅花刀、八、五虎刀、九、連環剣、十、龍行剣、十一、開路棍、十二、少林棍、十三、関刀一路、十四、梅花鉤

 

翟漣沅

 一、四路査拳、二、盤龍剣、三、大刀進槍、四、梅花槍、五、双刀進槍、六、崑崙刀、七、太極拳、八、対八打、九、青竜大刀、十、参戦柁

 

傳淑雲

 一、連環腿、二、坤吾剣、三、対坤吾剣、四、二十四式、五、龍形剣、六、対単刀進槍、七、斉眉槍、八、対拳、九、子龍槍、十、羅漢刀、十一、二郎棍、十二、双剣、十三、小花刀

 

劉玉華

 一、二蹚大紅拳、二、臥龍刀、三、対坤吾剣、四、三蹚大紅拳、五、太極連環刀、六、対単刀進槍、七、双刀、八、対拳、九、小五槍、十、琵琶槍、十一、子母棍、十二、斉眉棍、十三、龍形剣、十四、飛龍剣

 

郝銘

 一、五行椎、二、太極拳、三、形意拳、四、羅漢拳、五、八法奇門拳、六、太極十三刀、七、太極推手

 

顧舜華

 一、通臂拳、二、蟷螂門崩歩、三、武當対剣、四、太極球、五、太極棍

 

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Shi shi xin bao (時事新報) 1936.06.26 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

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 現地への船旅の途中では、同船者と象棋をやったり、余興として国術を披露する機会もあったようだ。

Hua bei ri bao (華北日報) 1936.07.13 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

数名の(といっても、もともと数名しかいないけれど)国術女子選手は船酔いで船室に閉じこもって、上海に帰りたいと泣いて、代表に参加したことを後悔している、との特派員報告もある。

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.08.01 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

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ドイツでの活動の詳細は残念ながら、ほとんど新しい情報は得られていないけれど、

7月28日の留学生会主催の歓迎会で、代表団は表演を行ったあと、最後に傳淑雲の主演で、芝居「王寶川」が披露されたらしい。

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.07.29 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

8月3日現地発の記事では、5日にいよいよ中国武術が披露される予定、と報告されているけれど、その後数日の記事には実際の公演後の状況を伝えるものが見あたらない(見落としているだけかもしれない)。

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.08.05 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

ようやく12日になって、表演状況を伝える記事がでてくるけれど、現地の反響を具体的に伝えているというよりは、どこか抽象的。

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.08.12 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

比較的具体的なものとしては、「万国拳術表演台」における演武についての記事がある。

万国拳術表演台 16時30分 十余分

 金石生 少摩拳

 刀槍剣叉等之単双表演、如八卦対刀単剣、空手奪槍等、尤以劉玉華女士与興運興君之単刀対槍、及傳淑雲女士与劉玉華女士之対拳、与鄭懐賢之飛叉、特別出色

 

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.08.13 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers 

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.08.14 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.08.16 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

そうこうしているうちにオリンピックは終了。その後も国術団は国術の披露を行う。

ミュンヘンでは傳淑雲の太極拳が好評であったとの報道。

https://gpa.eastview.com/crl/lqrcn/newspapers/ssxb19360905-01.1.8

 

現地活動のまとめのような記事。

太極操と太極球のデモンストレーションと、教材の配布も行われていたらしい

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Shi shi xin bao (時事新報) 1936.09.10 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

1936.10

国術隊代理管理顧舜華による総括

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.10.04 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

上海中華体育会における帰国報告

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.10.05 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

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以上の経過を踏まえて、念のため改めて書いておくと、上海での最終選考に参加したのは「25名」で、選考は「5月11日と13日の二日」に分けて行われ、男子二人、女子一人の補欠候補を含む、「9名」が選出されている。

カッコで記した点について、『中央国術館史』(1996年6月発行)は、「4月初」旬に全国から「100多」名の候補者が上海に集まり、激烈な競争が繰り広げられ、「七人」が選出された、と記しているのは、当事者がまとめたものであるはずなのに、極めて不正確であると言わざるを得ない。不幸にも、昌滄(雑誌『中華武術』初代編集長)は、「南京中央国術館始末」と題する、1997年に発表した文章(彼の著作集である『余生跡』所収)の中でその誤りをそのまま引用している。おかげで、しばらくの間、代表参加者の中に寇運興と張爾鼎の二人がいたことに気付かなかった。この二人が外して記されていたのは意図的なものなのか、そうでないのかはいまのところ未確認。後者に関しては、日本留学の経験もあり、意図的に排除されていた可能性があるような気もしているけれど、あくまでも憶測の域を出ない。

 そして、選考過程を見る限り、主導権は中央国術館よりも中華全国体育協進会にあり、召集人である褚民誼の主導で進められていることがわかる。36年1月末の時点で、褚民誼は彼自身も代表団とともにベルリンに赴く予定、と発表している。それは、中央国術館の張館長が、35年の秋からずっと外遊していて不在だったせいもあるかもしれないけれど、褚民誼と張之江の間には国術の普及をめぐる考え方に大きな乖離があったことを考えると、代表選考をめぐっても、両者の間でなんだかよくわからない主導権争い・駆け引きが行われていたようにも見える。

上海で行われた最終選考のみならず、彼は上海市の予選、浙江省の予選にかかわっている。南京市選抜で、女子では最高得点で代表に参加した翟漣沅は、もともと上海ベースの人でもある(注5)。また、なぜか一人だけ省・直轄市ではなく中国駐日留学生監督処から推薦され、異例の扱いを受けているように見える張爾鼎を含めると、25人の最終選考参加者のうち約半数(上海6、浙江省6、南京1、その他1)は褚民誼の(息のかかった、とまではいえないにしても)お眼鏡にかなった候補者といえるかもしれない。

ただ、国術精鋭を選抜するのに、中央国術館の張之江館長の協力を得ないと世間的には体裁が整わないし、そもそも南京市の代表すら決められないので、なんとかなだめすかして帰国させ、南京市の代表選考は4月末にぎりぎり間に合っている。上海での最終選考も若干揉めた形跡があるのは上に記したとおり。

褚民誼自身は代表団とともに現地に赴いてはいないけれど、代表決定後も要所要所で存在感を示しており、代表団に腹心(といってもいいのだろう。太極操普及記事によく名前が出ている)顧舜華を送り込み、現地において彼の発案による太極操のPRを行うことにまんまと成功している。帰国報告で、顧舜華が太極拳が好評であった殊更に協調しているところなどは、なんだかすべて彼の計画どおりのような気もして、やや気持ちが悪い気もする。

個別選手の注目のされ方を見ても、上海チームの鄭懐賢の飛叉(ほとんど雑技のように見えるけれど、これを本当に呼んでよいのだろうか)が最後になるプログラムの組み方や、女性選手の中では翟漣沅(南京選出だけれど、もともとは上海出身)への注目度など、上海選手が優遇されているようにも感じられる。

 ただ、中央国術館選出の張文広らは、自分たちこそがエリート中のエリートだという矜持をもって参加されたことは間違いないと思うし、張文広、温敬銘、鄭懐賢の三人は意気投合して兄弟と呼び合うようになったらしいので、上層部の関係と選手たちの頑張りは分けて考える必要があるのだろう。

 

なお、オリンピックの翌年、ドイツから送られたオリンピック勲章は、一級勲章が張之江に、二級勲章が褚民誼に送られている。それを考えると、必ずしも代表団派遣とその活動について、褚民誼の一人勝ちであったとはいえなさそう(注6)。

Hua bei ri bao (華北日報) 1937.02.17 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

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その後の政権交代に伴う参加者の境遇も含め、ベルリンオリンピック代表団についてはまだまだこれからも注目したい。

 

(注1)

この当時の学制については未確認。中華民国建国当初は、初等小学4年、高等小学2年で初等小学が義務教育にあたったと思われる。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/87477/5/ckk0579.pdf

 

(注2)

 1937年6月には、唐豪、佟忠義、王子平、姜侠魂らが組織した上海市摔角協進会の行った上海市長杯摔角大会にも出場。

Shi shi xin bao (時事新報) 1937.06.14 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

摔角だけでなく、大力士として、闘牛などのパフォーマンスを行っている。

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Dong nan ri bao (東南日報) 1948.06.14 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

(注3)

浙江省国術館は、この年の3月15日に褚民誼が館長に就任している。

省推薦の代表選考は褚民誼の着任後に行われた模様。

Dong nan ri bao (東南日報) 1936.03.16 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

4月23日付東南日報の記事によると、27日午後二時から浙江省国術館で開始予定の選考には、何長海ら二十余名がエントリーしている。記事には選考は褚民誼氏が自ら主持、と書いてあるけれど、同氏以外の選考委員の名前はない。

Dong nan ri bao (東南日報) 1936.04.23 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

なお、浙江代表が6名とは、本文に引用の過去メモ従って記したものの、過去メモで引用したサイトの記述はやや怪しい。

同記事に6人目の候補者として名前の出ている陳枝青は、国術ではなく、重量挙げの省内選抜第3位。

Dong nan ri bao (東南日報) 1936.04.28 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

ただし、翌29日の記事によると、国術候補の点数が拮抗し、重量挙げは第2位、第3位の推薦参加を見合わせることにしたよう。

Dong nan ri bao (東南日報) 1936.04.29 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

5月8日の東南日報によると、浙江省からは国術代表5名(何長海、顧士岐、潘振声、盧星如、王志華)が上海での選考に参加、としており、メンバーの中には、4月29日の記事の中で同立3位に名を連ねていた4人のうち、黄君道の名前が見えない。

Dong nan ri bao (東南日報) 1936.05.08 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

ただし、選考直前の5月11日の時事新報の記事では、国術候補ではなかったはずの陳枝青が浙江省代表の中に復活しているのは、意味がわからない。陳枝青の師匠の劉百川のメンツを重んじたのだろうか。このあたりはすべて館長である褚民誼の裁量(独断)のなせる技?

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.05.11 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

※この注、2020.7.16に大幅加筆

 

(注4)

時事新報 1936.06.12「体育会与業余規則」

Shi shi xin bao (時事新報) 1936.06.12 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

東南日報 1936.5.18版は上海隊の抗議を伝える

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Dong nan ri bao (東南日報) 1936.05.18 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

華北日報 1936.12.25版は、全国体育協会が、査瑞龍のアマチュア資格回復を条件つきで認めたと報じている。この条件を受けて、結局どのような対応をしたのかはよくわからない。ただし、その後、査瑞龍は再び南洋(シャム)公演を計画し、女優の夏佩珍がギャラだけ受け取って参加しないなどのトラブルを起こして新聞ネタになっているところを見ると、双方の協議は物別れに終わったように見える。

そして、重量挙げの選考定員1名の旅費枠が、張爾鼎に充当され、劉玉華と寇運興の旅費は河南省が負担するという形で、国術は補欠候補を含めた全員がベルリン行きを果たす。

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Hua bei ri bao (華北日報) 1936.12.25 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

シャム公演をめぐる査瑞龍と夏佩珍との金銭トラブル

Tie bao (鐵報) 1937.01.28 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

重量挙げの一枠が国術の補欠候補の張爾鼎にまわされ、劉玉華と寇運興の旅費は河南省政府が補助することで、全員が渡航を果たす

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Shi shi xin bao (時事新報) 1936.06.18 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

(注5)

 翟漣沅は1935年の全国運動会では、審判も担当している。このときには、女子摔角における孟健麗(ベルリンオリンピック選考時の上海代表)は技術ではなく体格差で勝利したのだと批判しているけれど、鐡報1935年10月18日付の記事で翟は「褚秘書長得意女弟子」と紹介されており、褚民誼との関係の深さがうかがえる。(この注釈とリンク すべて2020.9.22加筆 もとの注5は注6に修正)

Tie bao (鐵報) 1935.10.18 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

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 (注6)

この部分2020.7.16加筆。

 

2020.8.16

2月25日付の華北日報について加筆

 

2020.9.22

3月8日付華北日報(河北省が予選に選手を派遣しないと報道)について加筆

 

2021.1.3

1936年4月11日の實報について加筆