幻の?中央国術館東北分館など
1948年の8月と9月に、上海で中央国術館が東北分館設立の資金集めのために表演大会を開催していて、告知記事や記者発表の様子、実際の活動の様子いくつかが短い記事になっている。具体的には以下のとおり。
東南日報8月10日の記事は開催趣旨が明確。開催はもともと11日を予定していたが、各地の武術家が集まることができず、開催を4日間後ろ倒しした、とのこと。
Dong nan ri bao (東南日報) 1948.08.10 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
中央日報 8月11日の告知記事
この記事には、参加予定の上海の団体名と代表者(領隊)の名前が一番詳しく出ている。徐文忠の仁和国術社、佟忠義の忠義国術社、蔡桂勤の華聯国術社などの名前に目がとまる。
Zhong yang ri bao (中央日報) 1948.08.11 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
1948.8.13 立報
Li bao (立報) 1948.08.13 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
1948.8.14 立報
Li bao (立報) 1948.08.14 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
二日後の開催を控えた記者会見の記事。王子平・王菊蓉、佟忠義・佟佩雲という二組の親娘が参加している。王子平とは別に、拳術を演じてみせた王治平とは何者か。(67歳ということで、王子平(1881年生まれで、この年同じく67歳のはず)の誤植の可能性も)
テープカットを行った王菊蓉、佟佩雲、殷佩霞の3人のうち、王菊蓉はこの年の5月に行われた全国運動会で徒手の女子冠軍。器械の女子冠軍の殷佩霞は警察所属(注1)。
8月17日中央日報より、初日(16日)の終了後の記事
Zhong yang ri bao (中央日報) 1948.08.17 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
その約一か月後、八月の国術比賽表演大会にも参加した華聯同楽会国術隊(中央日報 8月11日の記事では華聯国術社)が、9月9日の体育節に際し、再び国術表演大会を開催するという告知記事。
同じく国術表演大会当日(9月9日)の告知記事。
Zhong yang ri bao (中央日報) 1948.09.09 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
この日の参加者と表演種目についての記録はないけれど、華聯が同年3月に行った演武会の告知記事には、参加者の記述がある。具体的には以下のとおり(注2)。
蔡龍雲、黄士傑、潘梓明、何金章、蔡培徳、黄漢雄、呉英傑、陳長龍、王海龍、林康徳、蔡濟平、蔡鴻祥、邵興祖、蕭殿華、朱兆徳
Dong nan ri bao (東南日報) 1948.03.30 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
なお、この日(体育節の九月九日)、精武体育会も摔角や武器術の演武を行っている。
Dong nan ri bao (東南日報) 1948.09.09 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
(中央日報), 1948.09.10
Zhong yang ri bao (中央日報) 1948.09.10 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
中央国術館東北分館も、体育節にあわせて9月10日から12日まで表演大会の開催を予定していたが、中央国術館から連絡があり、本大会の主催者(主持人)である于斌総主教、名誉董事長の莫徳恵、大会主席団主席・国防部部長何応欽将軍、張之江館長が公務の都合で開幕式に参加できなくなったため、開催を17日まで延期すると発表される。
(中央日報), 1948.09.17
中央国術館東北分館による国術表演会当日の告知記事。
Zhong yang ri bao (中央日報) 1948.09.17 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
Zhong yang ri bao (中央日報) 1948.09.20 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
東南日報にも同じ記事。
Dong nan ri bao (東南日報) 1948.09.19 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
最終日か、と思ったら一日会期延長。
東南日報の同じ記事。なぜ、一言一句同じなんだろう。
同じ系列会社?
(中央日報), 1948.09.21
9月21日、国術表演大会の閉幕を伝える記事。
Zhong yang ri bao (中央日報) 1948.09.21 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
(東南日報), 1948.09.21
Dong nan ri bao (東南日報) 1948.09.21 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
この一連の記事を集めながら、いろいろな疑問が頭の中をよぎる。
東北分館の活動資金集めのための表演を、上海で行っているのはなぜなんだろう、そもそも東北分館なんて、「中央国術館史」には一言も書いてないし、実際に設立されたのか。
ちなみに、この活動の約1年前の報道では、日本との戦争を経て、中央国術館は北平と寧波に事務所を各一ヶ所ずつ保持しているのと、天津で国立国術体育師範専科学校が暫定的に活動を再開している以外の活動は停止しており、活動再開に向けて、50億元を目標にした資金集めが9月からスタートする予定、と報じられている。この記事においても、東北分館の設立構想などには、何も触れられていない。
Xin xing bao (新星報) 1947.08.24 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
それでも、一連の記事の中には張之江館長の名前も見えているので、中央国術館と完全に無縁ではないのだろう。
・・・いまのところ、「東北分館」について、それ以上の情報はないけれど、記事の中で名前のでてくる「于斌」については若干気になる。記事によって、国術館での肩書は「董事」とか「董事長」と書かれているけれど、カトリック教会の南京教区の大司教で、ウィキペディアの記述が正しければ、共産主義反対の立場から、共産党政権成立後は胡適らとともに「文化戦犯」とされ、米国に脱出、本人不在のまま「欠席裁判で死刑を宣告された」ような人だから、彼を「董事長」と仰ぐ「東北分館」構想も、戦後、中華人民共和国で中央国術館史が振り返られる際に、無かったことにされてしまっているのかもしれない。(その意味では、馬良が主催した武術運動大会のことがほとんど取り上げられないのとよく似ている。)
逆にいえば、于斌の経歴を丹念にたどってゆけば、東北分館設立の顛末も多少ははっきりするのかもしれない。
于斌はカトリックだけれど、張之江はどうだっけ、と思い改めて「張之江将軍伝」をみたけれど、よくわからなかった。1935年に訪米した際、「受到美国基督教会和世界圣经总会的接待欢迎,设宴慰劳并作演讲。该两会请张之江为名誉会员」とある。YMCAの体育事業と国術館の活動のつながりも改めて確認しないといけないと感じる。
(注1)
Shi shi xin bao (時事新報) 1948.05.17 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
女子器械冠軍の殷佩霞はイラストにもなっている。
Dong nan ri bao (東南日報) 1948.05.07 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
他方で、「便衣女警」(私服警察)として黄牛(ダフ屋)を摘発したとの記事も。
警察所属でこんな競技に出場してたら、ダフ屋にもすぐばれちゃうじゃないかという気も・・・。
Mei ri wan bao (每日晚報) 1949.02.13 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
(注2)
そのときの参加者の演武種目は以下のとおり。後ろ一つまたは人によって二つは対練種目で、誰とのペアかも、リストから想像できるけれど、相手方が不明なものも。
蔡龍雲
華拳勢、春秋刀、擒拿勢、大刀戦槍
蔡済平
節拳、梅花槍、対打二路華拳
何金章
燕青拳、梢子棍、擒拿勢、大刀戦槍
宋品才
潘粹明
洪拳、金剛圏、月牙鏟戦槍
鄒興祖(?)
黄士傑
蔡培徳
羅漢拳、少林刀、拐子刀戦槍
Dong nan ri bao (東南日報) 1948.03.31 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers