山左聊城鈺山馬永勝とその周辺 老衆成鏢局、南強武術会、呉県国術館など
以前にメモしたけれど、中央国術館の張館長(このときはまだ「館長」という肩書はないので、「理事」と呼ぶべきか)は、国術館(研究館)
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改めてこの記事を確認して、演武には、地元の「南強武術会」と「馬教練」はじめ公安局の面々が参加していることに気付く。
そこで、南強武術会について調べてみると、同年4月10日の蘇州明報に、南強武術会が名称変更予定、という記事があることに気付く。それによると南強武術会教師の馬鈺山は先月(3月)に「南京国術研究社」(研究館のことだろう)と種々の協議を行った結果、同会は「中国国術研究社分会」となり、馬氏は同会の主任になる予定だという。
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1928.04.10 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
前後の経緯からみて、この馬鈺山こそ、6月に張館長らと演武している「馬教練」と考えてよいと思う。
それで今度は、この馬鈺山について調べてみると、約半年前の1927年の12月に、王組善とともに、蘇州市公安局に招かれ、技撃大隊の武術教師に任じている人物であることがわかる。馬鈺山の紹介が、経験豊かな拳師(「富有経験之拳師」)なのに対して、王組善の紹介が王県長の弟で県の党部委員(コネかい!)というのがなんだかおかしい。
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1927.12.01 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
張之江館長一行がわざわざ蘇州まで来て、合同で演武までしたということで、地元では大きくもりあがったのだろう、張館長が蘇州を離れて間もなく、「国術研究館蘇州分館」設立準備のための準備会合(第三回会合。第一回、第二回についての記事は未見)が開かれており、早々と幹部の顔ぶれについても議論されていることがわかる。
常務委員として、馬永勝、王引才、殷石笙の三名の名前があがっている。
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1928.06.11 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
これ以後、蘇州日報の記事には「馬永勝」がでてきて馬鈺山が出てこなくなるので若干混乱するのだけれど、のちに馬永勝が発表する『新太極拳書』の黄曦による序文に「我友聊城馬君鈺山…」にあり、『新太極剣書』の「新太極剣図」に「山左聊城鈺山馬永勝繪」とあるところから、「馬永勝」=馬鈺山であることがわかる。
ただし、このように盛り上がってきた、蘇州における国術分館設立の動きは、若干、地元関係者だけが前のめりになっていたように見受けられる。
その証拠に、張館長の蘇州訪問はあくまでも蘇州青年会の招きに応じたもので、国術館成立の協議のためではないし、これ以後、蘇州に作られるべき組織の検討は「
考えてみれば、まだ省級国術館の江蘇省国術館も設立されたばかりで(注1)、館の体制が整っておらず、その下に今後作られるべき市や県レベルの国術館との関係も未整理(中央国術館も、方針を示していない)な状況なので、これは当然といえば当然の処置だろう。
7月26日付蘇州明報によれば、
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その江蘇省国術館は、9月になって、各地に分館を設立する前に、まずは各地の中核となるべき
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(この間、蘇州市公安局は、1928年の冬を迎えるにあたり、対応すべき課題の優先度に鑑み、国術の稽古をいったん中止する、と発表。これも現地の国術関係者にとっては残念な知らせだっただろう。ただし、国術訓練の中止は、あくまで一時的なものであり、訓練そのものを廃止したわけではない、とわざわざ断っているところは、国術館設立に向けて前のめりで、張館長らとも通じている馬永勝ら地元国術関係者の焦り(?)にも幾分か配慮しているようにも読める。
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このようにして若干迷走した蘇州における国術分館設立は、それから約1年後、「蘇州分館」ではなく、蘇州市のさらに下の呉県国術館という形でようやく実を結んでいるように見える。
1929年12月5日の「蘇州明報」の記事は、設立予定の呉県国術館の董事には、馬永勝以下9人が内定し、近く省国術館に報告される、と報じている。
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その後、12月中ばから、館員募集の新聞広告が地元紙に掲載されているので、呉県分館の成立は問題なく認められたのだということがわかる。
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呉県国術館では、設立から約半年たった1930年7月には、呉県国術館による第一届成績表演を行っている。
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1930.07.25 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1930.07.28 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
31年1月には呉県国術館同学会が立ち上がり、鮑愼之、馬永祥の二人が顧問になっている。
馬永祥は馬永勝と同じく公安局の関係者で、馬永勝とともに対練なども披露しているところを見ると、同門のようにも見える。一字違いでもあり、兄弟なのかもしれない。
鮑愼之は、呉鑑泉の弟子の趙壽村が蘇州でたちあげた蘇州太極拳研究社の教員だから、呉式の人なのだろう。のち、1935年に天賜荘の聖約翰堂が益徳会の執行委員になっているところをみると、クリスチャンなのだろうか。
このようにして、馬永勝にとって、念願(?)の国術館が蘇州でき、もしかすると蘇州における国術普及が一時的に盛り上がったようだけれど、それはどうやら長くは続かなかったようだ。
1935年10月に蘇州で行われた演武活動の記事によると、この演武会は、一時盛り上がった国術人気が徐々に下火になった状況下、いまいちど国術に対する人々の関心を集めることをこと目的に、「公共体育場」が組織したものであることがわかる。参加者の中には馬永勝、馬永祥らの名前はない。
・・・蘇州向有国術館之成立、惜近来漸漸解散、碩果僅存者、惟公共体育場之健身隊曁(及)早晨班、穿珠巷之業余国術研究会等、然参加者寥寥、其他則公安局、保安隊之国術班而已、国術之風在蘇頓呈衰落之象、公共体育場長馬治奎、極力提倡、特発起国術表演会・・・
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1935.10.28 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
(文中、公共体育場の早晨班とあるのは、星晨班(城廂各小学星晨国術連合訓練班)の誤り?
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1933.10.23 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers )
文中にある、近年次第に解散していった(惜近来漸漸解散)国術館とは具体的に何を指すのかわからないけれど、この頃には呉県国術館の活動について紹介する記事が見当たらないことから、おそらくはもう活動を停止していたのだろう。それに先立ち、江蘇省国術館も1932年2月の江蘇省政府会議で活動の停止が決定されているので(注2)、その時点で、江蘇省における国術館のネットワーク構築(注3)が空中分解してしまったともいえる。
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1932.02.20 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
馬永勝自身の動きも、1933年10月に「別命のため待機」するために公安局の国術教官の職を解かれて以来、見えなくなってしまう(注4)。
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1933.10.19 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
その後、蘇州市の国術界は、前述した公共体育場の馬治奎、公安局の強雷、尤晋(俊)卿の業余国術研究社、顧浩然の蘇州国術会などが中心になっている(注5)。
1937年に蘇州で開催された愛国精神発揚のための国術表演のイベントは公共体育場主任の馬治奎が中心で、上記の人々が中心になっている。馬永勝は1939年逝去なので、この年にはまだ存命のはずだけれど、蘇州の武術界の老武術家であるはずの彼の名前は見られない。
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1937.01.10 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
公安局退任後、一つだけ、彼とも関連のある記事がある。
それは、故郷の山東で武術を教えていた彼の弟弟子が、蘇州に兄弟子の馬永勝を訪ねてきたというもの。
それによれば、蘇州で鑣(鏢)業を営んでいた楊季林の息子・楊金生は、故郷の山東に戻って武術を教えていたが、このたび弟子たちが山東省の国術省考に参加して入賞(未確認)し、首都南京を経て蘇州に兄弟子の馬永勝を訪ねてきたのだという。記事には馬永祥の名前も見える。
この記事から、そもそも馬永勝が1914年に蘇州に出てきたのは、楊季林・楊金生父子の老衆成鏢局を頼ってきたのではないかとも考えられ(注6)、その意味でもとても興味深い記事だと思う。
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1934.06.13 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1934.06.14 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
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最後に、馬永勝の『新太極拳』について。
もともと彼は査拳や弾腿が専門の人のようで、『弾腿講義』
その彼が太極拳と接したのはいつのころかよくわからない。
THE TANTUI MANUAL OF MA YONGSHENGbrennantranslation.wordpress.com
ネットには、「最も古く、
『新太極拳書』の複数の序文をみても、この太極拳は彼が師友との交流を経て編み出したものだと書かれているだけで、特定の太極拳に基づいたものとは書かれていない。
(注1)
江蘇省国術館の成立時期については諸説あり、童旭東『孫氏武学研究』は1928年6月27日(P.141)、太极网の「江苏省国术馆始末 」(作者不明) 1928年7月1日としている。両説とも、1928年5月28日には、成立大会が開催されている点について触れていない。
この時点では董事団、教務体制等については未整備であり(整備する必要性すら認識されていない)、6月末から7月にかけてようやくそれらの体制が整うのは事実だけれど、1928年5月28日をもって設立されたとすべきだと思う。
(注2)
江蘇省国術館の活動停止については、上海事変の勃発により、江蘇省国術館を資金的に支えていた「股東」たちがみな避難してしまい、資金的に行き詰まったせいだという説明もある(童旭東『孫氏武学研究』)。実際、1932年2月の江蘇省政府会議は、活動停止の理由として、資金不足を挙げているけれど、事変が起きた地である上海市国術館は引き続き活動を継続しているのに江蘇省国術館が活動を停止するのは別の理由がありそうな気がする。
実際、1931年8月には、陳微明の教え子の胡樸安が館長に就任しているけれど、わずか2か月後の10月には辞任を申し出て承認されるなど、上海事変が起きる前から、すでに館の体制が不安定になっていることがうかがえる。
〇胡樸安の江蘇省国術館館長就任
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1931.08.15 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
〇胡樸安の館長辞任承認
Minguo ri bao (民國日報) 1931.10.07 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
〇江蘇省国術館の活動停止
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1932.02.20 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
直観的な印象としては、江蘇省国術館は、孫禄堂一人の名声に頼るところが大きく、その孫禄堂が早々に館を離れてしまったことの影響が大きいように感じる。
胡樸安は、江蘇省国術館の館長就任以前から、民生庁長として、致柔拳社蘇州分社の設立二周年にあわせてわざわざ蘇州を訪れたりしており、国術(太極拳)についての理解のほどがうかがえる。
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1931.04.19 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1931.04.20 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
(注3)
胡樸安が江蘇省国術館館長になることが議決されたは1931年8月14日の省政府会議ではは、省国術館の董事会から各県に対し、県国術館の設立を促す公文書を送ることが決議されている。このことは、江蘇省内では、呉県の国術館成立はむしろ他県より先行していたことがうかがえる。
(注4)
公安局の国術教官は、その後は張雷という人物がになっている模様。
強雷について、1935年4月4日の蘇州明報は、「張之江入室子弟」と報じているけれど、そこで演じているのが形意剣であったりして、何か間違っている気がする。より正確には、迷蹤藝、雄拳、水火剣などが得意だった模様。
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1935.04.04 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
強雷および強夫人朱錦蓉女士が武術を演じている1937年1月の表演会。
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1937.01.09 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
(注5)
蘇州国術会は1933年に設立が認められている。
尤晋(俊)卿の業余国術研究社、陳雲の民衆健身隊の地方政府による正式認可は1937年のことで、それまでは小規模な活動を行っていたものと思われる。
〇蘇州国術会の成立
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1933.09.23 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
〇業余国術研究社、陳雲の民衆健身隊の認可申請と承認
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1937.05.22 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
Suzhou ming bao (蘇州明報) 1937.05.27 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers
(注6)
もう一つの可能性は、この時期、江蘇省一帯で武術の体育化についての新しい動きがあったと思われること。具体的には、キリスト教青年会が体育を事業部門の一つの柱として明確にしたことで、済南出身の于振聲がやはり1914年に南下して南京に定住し、南京高等師範学校体育科で武術を教えたことや、自分が確認できる唐豪のキャリアのスタートになった江蘇省教育会附設体育研究会国技部成立につながってくる。
このメモの冒頭、張之江館長の蘇州訪問が、蘇州青年会の招聘によるものだったのとあわせて、基督教青年会の活動は無視できないものがある。