中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

関清拙『達磨の足跡 : 禅僧の支那行脚』、上海における中華新武術 など

笠尾恭二『中国武術史大観』(復刻版が出たけれど手元にあるのは旧版のみ)をぱらぱらと見直していたら、馬良の中華新武術について紹介した箇所で、1918年の5月に日本の禅僧・関清拙が済南の馬良邸を訪問しており、そこで中華新武術を含む各種の武術の演武をみたときの記録が紹介されていた。文章も軽妙で面白い。

この箇所を含む関清拙の旅行記『達磨の足跡 : 禅僧の支那行脚』はデジタル版が国会図書館のデジタルコレクションで公開されている。関清拙は少林寺も訪れており、少林寺のほうには何枚かの写真があわせて掲載されており、興味深い。

dl.ndl.go.jp


関氏と馬良の間は、東京の士官学校を卒業した、日本語の達者な「親日派の人副官某」が通訳をしたことがわかる。わざわざ名前を伏せている理由はよくわからない。

 

なお、以前にメモした小坂順三が馬良のもとを訪れるのはこの約一年後の1919年(大正六年)11月のことと思われる。この間、2月には郎坊駐屯の引田乾作10月には青島司令部の由比光衛馬良のもとを訪れており、記事から推測するにその都度、武術の演武を目にしているようだ。

 

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1919年の3月末から5月初旬までの間には、江蘇省教育会付属体育研究会国技部主任の唐豪が済南を訪れている。彼は同年2月にできた、体育研究会国技部において、同じく六合門の劉震南の門人と思われる周啓明と二人三脚で、号令などを用いた武術の団体教学について試行錯誤をしていたところだった。

 

〇1919.2.23

江蘇省教育会附設体育研究会国技部成立大会。

唐豪が冒頭挨拶。

Minguo ri bao (民國日報) 1919.02.24 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

※2月21日付民国日報の記事により、国技部設立の中心人物は、上海公学の技撃教員唐君豪、倉聖明智学校の周君啓明、務実中学の黄君滌之、中華体育学校の唐君越石、武進県立乙種商校の周君夢飛であることがわかる。また、同記事から、陳子正の南下で指導の機会がもたれ、国術に対する注目が集まったことがわかる。

Minguo ri bao (民國日報) 1919.02.21 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

 

どういう経緯でこの済南視察が実現したのか、詳しいことはまだわからないけれど、馬良から、唐・周ふたりの取り組みを応援する手紙が届いてることが、体育研究会の3月16日の第四次研究会についての記事からうかがえる。(同記事より、同じくこのときから、「天津武士会」の朱国福と上海中華国技伝習所の任子敖が会員に加わっていることがわかる。国技伝承所は劉震南の開いたものだから、任子敖の加入は、唐豪が気ごころの知れた仲間を会員にしたものと考えられる。)

あるいは、すでに1914年には南京に定住し(『中国武術人名辞典』より)、この頃には南京高等師範学校体育科で武術を教えていた済南出身の于振聲が何らかの仲介役を果たしたのかもしれない。

いずれにしても、この頃より唐豪と馬良およびその周辺との連携がはじまっているのがわかる。

この視察については、唐豪によって5月18日の第18回研究会で報告されている。

 

江蘇省教育会国技部第4回研究会(1919年3月16日)に関する記事

Shi shi xin bao (時事新報) 1919.03.17 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

江蘇省教育会国技部第5回研究会(1919年3月23日)に関する記事

※唐豪らが上海公学の学生を対象に、国技の団体教学の実験をしていることがわかる

Minguo ri bao (民國日報) 1919.03.24 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

江蘇省教育会国技部第18回研究会(1919年5月18日)に関する記事

Shi shi xin bao (時事新報) 1919.05.19 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

その後、6月末に、江蘇省教育会国技研究会(記事の表記に従う)は、西門外公共体育場で7月1日から8月11日まで、拳脚科率角科を教えるための(暑期)武術伝習所を開講すると発表。教員として山東武術伝習所から程錫三を招いたほか、南京高等師範体育専修科教員の于振聲と劉笑(詳細未確認)も担当した。于振聲は伝習所の開講前に一時帰郷して、開講期間の半ばから合流したが、その際に馬良の技術隊副総教練であり自らの師である楊鴻修(字は奉真)を上海に連れてきている。

 中華武術会では、この約1週間前に、「山東鎮守使署技術隊総教師」楊鴻修を招聘し、楊および劉徳生(公共体育場国技教師)、于振聲(南京高等師範国技教員)の補佐により、今後中華新武術および各派技撃の教授をはじめること、こられに伴って、従来の教員が退くことを発表している。

  于振聲の帰郷は楊鴻修を上海に連れてくる意図もあったと思わるけれど、上海に到着した楊鴻修は、さっそくこの暑期武術伝習所の様子を視察している。

 

江蘇省教育会国技研究会武術伝習所

Minguo ri bao (民國日報) 1919.06.29 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

Minguo ri bao (民國日報) 1919.07.19 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 〇上海武術会の楊鴻修の招聘等を伝える時事日報7月16日の記事

Shi shi xin bao (時事新報) 1919.07.16 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

武術伝習所開講中の7月20日には、場所も同じ公共体育場で、「中華武術研究会」による武術表演が行われる。冒頭、唐豪が開会の主旨を述べ、武術と国運の関係、我が国における武術不振の原因などを語っている。

Shi shi xin bao (時事新報) 1919.07.21 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

 

中華武術会は8月には、北四川路で他団体を交えた、第一回「交誼会」を開催しており、唐豪・周啓明のふたりはここで率角を披露している。北四川路は、同会の分会が設立されるところで、公共体育場の活動への協力のお礼に、今度は唐・周のふたりが中華武術会の活動に友情出演したような形だろうか。

Shi shi xin bao (時事新報) 1919.08.12 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

ところがほぼ時を同じくして、山東で起こっていた学生運動馬良が武力鎮圧する出来事が起こり、新聞紙上に批判の声が高まる(注)。

そして、会の名前こそ明示されないものの、某団体は馬良に買収され、従来の教員をすべて馘にして、山東から新たに教員を招聘することにしているとの批判文が民国日報に掲載される(民国日報 8月15日 「武術界与馬良」)。

中華武術会では、すかさずその翌日、「当会の状況は昨日の記事の某会と似ているが、当会が馬良に買収されたという事実はない」という趣旨の投稿で反論(民国日報 8月16日「上海武術会之声明」)し、さらに8月18日には王占坤(楊鴻修の弟子)を教授として招聘することを決定しているけれど、やはり周囲の評判を気にしてなのか、しばらくの間、これら教員の出自について触れた記事が少なくなるように見える。

唐豪と江蘇省教育会付属体育研究会国技部の活動についての報道も1919年8月以降暫くの間、「時事新報」や「民国日報」紙上から確認できないけれど、鎮圧された側でも、保守派による弾圧に抵抗するためにも、武装強化自体は引き続き必要と認識されていたようで、この間も唐豪は上海において学生連合や「救国十人団」や「国民大会策進会」の運動にかかわりながら、「国技」の普及指導を推進していていることがわかる。そして1920年3月には、江蘇省教育会付属体育研究会が設立する上海柔道場の場長(主任は周啓明)になっている(教員確保に手間取り、実際の活動は5月から)。

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(この「柔道」は、「中国固有的武技」とだけ説明されており、具体的に何をさすのかよくわからない。「全省全国の柔道家」のほかに北方武術専家の蕭君を招き、太極八卦形意三門武術を課外教授する、と説明されているので、これらの武術でないことだけは確か(時事新報 1920年5月11日「柔道場組織就緒」)。

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1920年の夏にも、 江蘇省教育会付属体育研究会は暑期体育補習会を開催しているけれど、唐豪の上海柔道場もこれに参加している。ただし、武術についての科目は、精武会の陳子正、盧煒昌、「国粋体育研究家」の王懐琪なども加わり、前年にくらべより多様化しているように見える。

Shi shi xin bao (時事新報) 1920.07.22 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers )

 

1921年5月の「振災武術団」(2日目には、唐豪は馬良にかわり(馬良を代表して)挨拶。表演内容には新武術が含まれており、それと区別する形で従来の武術はわざわざ「中華古有武術」と呼ばれている)を経て、1923年5月には、やはり西門外公共体育場で、馬良を会長として「武術運動会」が開催される。ここで唐豪は交際股、糾察股などの役割を担っている。

 

1921年5月の「振災武術団」表演

Shi shi xin bao (時事新報) 1921.05.11 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers 

Shi shi xin bao (時事新報) 1921.05.13 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

〇1923.3

武術運動会の準備会議

Shi shi xin bao (時事新報) 1923.03.17 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

〇1923の武術運動会

Shi shi xin bao (時事新報) 1923.04.15 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

Shi shi xin bao (時事新報) 1923.04.22 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

Shi shi xin bao (時事新報) 1923.04.23 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

※武術運動会の臨時職員の中には、唐豪の弟の唐越石(主に映画や演劇分野で活躍)の名前も見える

Shi shi xin bao (時事新報) 1923.04.13 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

以上、一部中華武術会の話に脱線してしまったけれど、このような、唐豪と馬良周辺との関係は、その後も唐豪の中央国術館時代まで続いているように見える。

 

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このあたりのことは、時事新報や民国日報の記事を時系列に追ってみてわかったことだれど、従来、中華人民共和国の武術史の中ではほとんど知ることができなかった部分のように感じる。
漢奸・馬良との関係は新中国の武術の推進者としての唐豪の権威に傷をつけるので、あまり語ってはいけないこととされていたということだろうか。

 唐豪の活動が多岐にわたり過ぎていて、あまり性急に結論を急ぐことはできないけれど、一つ追及し甲斐のあるテーマが見えてきたように思う。

 

また、このテーマに限らず、膨大な情報量をもつデータベースがいきなり目の前に現れて、「備忘録」にまとめるだけでも、整理すべき情報の量が多すぎて、簡単に作業が進まない状態になってきた。

今後は、敢えて更新の頻度を落としてでも、もう少しじっくりと検討を加えてゆ く必要があるかもしれない。この「備忘録」の位置づけも、少し考えなおす時期に来たのかもしれない。

 

 (注)

このことは、日本の公文書にも出ている。

発信者:青島守備軍民政長官法學博士秋山雅之介 大正8年8月8日付

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03041665000、青島民政部政況報告並雑報 第一巻(1-5-3-21_001)(外務省外交史料館)」

 

「・・・武術隊ハ青龍刀又ハ拳銃ヲ手ニシテ校門ノ警戒及仝校門前西大街ノ交通遮断ニ当リ群衆ニ対シ拳銃ヲ突キ付ケ或ハ青龍刀ヲ打振リ頻リニ示威行動ヲ為シツゝアリシモ男女学生共ニ斯カル物々シキ警戒モ何等眼中ニナク毫モ恐怖シタル態度ナシ・・・」

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「・・・馬良ノ武術隊ハ隊長其ノ十数名ヲ率ヒテ各校ノ動静ヲ視察シツゝアリ・・・」

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