中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

R.F.ジョンストン『紫禁城の黄昏』など

約1年前に入手した『完訳版 紫禁城の黄昏』、買ってすぐに読まずにいるうちに、関心が別の問題に移ってしまい、しばらく置いておいたままにしていたのをようやく読み終えた。

直接的には武術と関係ない本なので、武術について言及されている箇所もあまりないだろうとは思っていたけれど、案の定、ほぼゼロといってよかった(苦笑)。

 

 

完訳 紫禁城の黄昏(上) (祥伝社黄金文庫)

完訳 紫禁城の黄昏(上) (祥伝社黄金文庫)

 

 

 

完訳 紫禁城の黄昏(下) (祥伝社黄金文庫)

完訳 紫禁城の黄昏(下) (祥伝社黄金文庫)

 

 

 

 

それでも、気になる点はあったし、なによりも書籍として普通に面白かったので、読んでよかった。

 

宣統帝溥儀には、唯一の西洋人のジョンストンを除き4名の教育係(帝師)がいた。うち三人が漢人、一人が満洲人だけれど、いずれも教養豊かな当時の大知識人が選ばれていたのだろう。具体的には梁鼎芬、陳宝琛、朱益藩(以上3人は漢人)、と伊克擔(満洲人)。

そのなかで、このブログの観点から面白いと思ったのは広東人の梁鼎芬。
この人は、ジョンストンによれば、幼い頃に最も関心をよせたのが「詩と剣」で、父親からも「もし死か恥辱かの選択を迫られた場合は、必ず死を選ぶべきだ」(上巻 P.356 ページ数は文庫版 以下同様)と教えられて育ったという。どことなく武士道精神ににたものを彷彿とさせる。
彼が実際に剣を学んでいたのか、学んでいたとして、その腕前がどうであったのかはよくわからない(ジョンストンが帝師になったときは病身で半身不随になっていたこともあり、ジョンストン自身も一度もあったことがない)けれど、彼はそのキャリアのなかで、帝師になるまえに湖北師範学堂の校長になっており、体操を見るのを好んだといわれており、教育の一部としての体育の重要性には早くから注目していたように見受けられるので、彼自身に剣の嗜みがあったとしてもおかしくないだろう。

ちなみに、この学校では、彼が校長のときに中国人初の運動会を開催している。

(その運動会を仕切ったのは日本人教官の東京高等師範学校卒業の戸野周二郎(高嶋航「なぜbaseball は棒球と訳されたか -翻訳から見る近代中国スポーツ史」)。


一瞬、溥儀が霍殿閣に八極拳を習ったのも、身近なところにこういう教育係がいたせいなのかな、と思ったものの、霍殿閣らが雇われたのは紫禁城における教育時代ではなく、天津に移り、近隣で爆弾騒ぎなどもあって治安面で不安を感じた溥儀が、日本領事館が手配する警護役以外に、より安心できる近従を自ら確保しようとしたことがきっかけなので、あまり関係はないのだろう。実際、飽きっぽい性格の溥儀は、自ら武術を学ぶことについては三日坊主で終わらせてしまっている。(このあたりは、側近の李国雄の回想録に詳しい。)

むしろ、別の帝師の朱益藩などは、人の生命力は持って生まれたもので、補充できないから、運動などで浪費すべきではない(「もともと蓄えてあった生命力を若いときに消費することなが少なければ少ないほど、それだけ年老いても長生きできる」(上巻 P.367))という考えをもっていたようで、梁鼎芬のような考えは西洋かぶれのけしからん考え方であったかもしれない。(先天の気を後天の気で補うという考えはこの当時はなかったんだろうか。)

 

「体育」の位置づけは別として、君子としての教養はやはり、古典に精通し、書法に熟練している点に求められたよう。特に書法は「皇帝が受けた教育の制度では、書道の練習に相当の時間を費やさなければならなかった」(下巻 P.40)と書かれている。


書法に関して、つい最近、宮崎市定の「宋代文化の一面」(岩波文庫中国文明論集』所収)の一節がとても印象深かったので、少し長めに以下にメモしておく。武術も、書道と同じように、さまざまな「手本」を真似て学ぶという学習方法がとられるけれど、そのうちの一つを「これが標準だ」、と固定することの意味とか、どの「手本」を、どう学ぶべきか、などについて、とても示唆に富んでいる。

「一時にたくさんの人の書を学ぶことは実際にはできない」「自分の習おうとする一つ以外はよけいな蛇足にすぎない」という点に関していうと、現代人のやる武術は多くの場合、いろんなお手本の要素がごちゃ混ぜになっている、ということはあると思う。それが他流派の優れた技であるならよいのかもしれないけれど、雑技やバレエ、ダンスの要素であることもあるわけで、それは文章に置き換えれば、日本語で書かれた文章の中にいきなり簡体字の漢字とか、アラビア語の単語がまじっているようなものかもしれない。

あと、この文では特に触れられていないけれど、一つの語の中に、いろんな意味が隠れていたり、語と語を組み合わせて「熟語」という別のまとまりになり、それがさらに、文章という大きなまとまりなっていく点は、個々の「勢」から複合的な「勢」や、それらが集まって路(套路)になることとよく似ている。また、書法で一つ一つの筆の運びにこだわり(右にいくときに、まず左から、とか)があったり、全体的なバランスの重視の仕方なども、武術の一挙手一等足の在り方や、勢をみるときの美的感覚にも影響を与えているように思われる。

 

 …書についていえば、唐代までの習字の手本は、古人の名筆を臨摹したものを用いた。これが法帖であるが、肉筆で臨摹する法帖は、転々と写してゆく間にだんだん原本との間に距離が生じてくる。これを避けるために印刷して法帖を固定させることが、五代の南唐の時から始まった。即ち今の南京に都した南唐の李後王の時に王義之の十七帖を石に刻した、『澄心堂帖』なるものが法帖印刷の最初のものと云われている。これらの法帖は一個人の筆蹟を一帖としたいわゆる単帖であるが、『澄心堂帖』とほとんど同時に石刻された『昇元帖』は、南唐の宮中に蓄えられていた多くの名人の筆蹟を蒐集して編纂された集帖であったことが注目されなければならぬ。宋代に入ると太宗の命によってもっと完備した『淳化閣帖』が印刷されることになった。ところでこの単帖と集帖とはただ単数と複数との、分量的な相違には止まらないのである。前述の如く、法帖は原来手習い用の手本というのが目的である。そしてその目的のためには単帖でたくさんである。書を習うにはある一人の書について十分にその筆法を学ばなければならず、一時にたくさんの人の書を学ぶことは実際にはできないからである。だから単に手習いだけの目的から云えば、集帖は、自分の習おうとする一つ以外はよけいな蛇足にすぎない。しかし手習いをする前に、選択が許されるという点から云えば集帖の蛇足は蛇足でない。集帖によってこそ、多くの古人の筆蹟を比較して鑑賞し、その中から自分の最も好きなものを選択して手本にすることもできる。いきなり手本が与えらえるか、選択が許されるか。あるは、手習いが先か、鑑賞が先か、ということで結果がだいぶんに違ったものになってくる。

 甚だ大胆な結論かもしれないが、唐代までの書法は単帖によって代表され、宋代以後は集帖によって代表される。唐までの単帖派は何よりもまず実地の手習いを重んずる行動派ならば、宋代以後の集帖派は一通り鑑賞眼を養ってから、自分の趣味にあった書法を選択する理論派であるといえる。例の蘇舜欽も、書に巧みであったが、理論の方がもっと達者であったとは、彼の親友、欧陽脩の批評である。

 その欧陽脩はいう。「唐代以前の人はまた幼少の物心のつかない頃から専心に書を習わされて、年が長ずるに及んで自由の境地に達しえた。ところが今の人は晩年になってから書を学びだすので頭ばかり働いて手が動かぬ」。この言葉はよく唐と宋との相違を説明している。唐までの書は幼少の時から師法で鍛えらえた書であり、宋以後の書は、十分に目が肥え、書に対する興味を覚えてから習いだした書である。前者はいわば書家の書であり、後者はいわゆる素人の芸である。どちらがいいかはにわかに断言できないが、腕から入って目の開けた書は完成しすぎて面白くない。目が肥えてから習い出した書は、技は未熟だがその素人くさい初心なところがかえって面白いという見方も成り立つ。そこには多分に個性が生かされているからである。個性の尊重すべきことは既に宋代の人が意識し自覚している。『続書譜』にも、書は古人を学ぶとともに、「時に新意を出せ」と付け加えることを忘れない。蘇東坡の如きも自らその書に新意あることを以て任じていたが、新意というのは今の言葉でいえば個性というに当る。宋人の書で現今までも尊重されているのは有名な詩人、従って強い個性の持主の書が多い。

 運筆の法についても宋人は型に拘泥しない。蘇東坡は「筆の持ち方などはどうでもよい。要するにいい字が書ければそれでいいんだ」といって肘を机につけたまま書いていたという。それよりは道具を精選する方が大事だ。あたかも宋代にはこの要求に応じて地方地方に固有の特産品が現われた。曰く、湖州の筆墨、宣州の紙、端州の硯、これも各地の個性を活かして大量的に優秀な商品を提供したものといる。

 個性の発見は合理主義の一つの表われである。個性は現実に存在するもので、存在するものを尊重し、これを引きのばしてゆく方が、これを無視するよりもずっと合理的だからである。宋代の文化にはあらゆる方面にこの合理主義が根柢に横たわっている。

 宋代は中世的な家法や、師法や、書法や、画法や、色々な権威があるいは喪失しあるいは減退した後の真空の中に生じた自由主義の時代であった。伝統的な権威がなくなれば、あとに頼りとするものは合理主義より外はない。

 ところで合理主義はどこかで現実を肯定しなければならない。そこで次にどの線で現実を認めるかが問題になる。食も本能、性も本能、それを存在するがままに認めては社会の秩序が成り立たない。南宋時代の社会的風潮はややもすれば、この現実をば余りに寛容に認めすぎようとした。教師が弟子をつれて遊里に出入する。考えようによっては、これもあるいは合理的かもしれぬ。しかしそれでは困るというので、再び家法の権威の復活が企てられた。朱子の学問がそれである。そしてその後楯となったのが、強大な天子の独裁権力の権威であった。これ以後中国社会は再び不自由な社会へと次第に後退してゆく。しかも権威に反抗しようとした宋代自身がかえって新しい権威をもたされて後世に圧力を加えるようになった。いずれの時代もそうであろうが、特に一つの革新期に当る宋代は、後世に及ぼした影響を通してばかり眺められてはならない。いちおう後世から切りはなして、宋代に身をおいて宋代を観察しなければ、この時代がもつ本当の文化史的意義はつかめないであろう。

宮崎市定中国文明論集』PP336-340

 

 

中国文明論集 (岩波文庫)

中国文明論集 (岩波文庫)

  • 作者:宮崎 市定
  • 発売日: 1995/12/18
  • メディア: 文庫
 

 

武術と書法に対する比喩は、呉殳の『無隠録』「槍法微言」に以下のように述べられている。ここでは槍法が楷書、行書、草書の三書体に比較されていて、はじめに楷書(短槍)を学んで草書(沙家竿子)を学べば技に規則性が保たれ、かつその中間の行書(楊家槍)は学ばずしてなる、と述べられていて、示唆に富む。

短槍は小楷のごとく、楊家槍は行書のごとく、沙家竿子は狂草のごとし。楷書を学び成し、然るのち草(書)を学べば、すなわち規則あり。まず草書を学べば楷において遠し。行書楊家槍、二者の間に在り、すでに二法を得れば、中間の者、学ばずして得る。

 

短槍如小楷、楊家如行書、沙家竿子如狂草。学成楷書、然後学草、乃有規則、先学草書、於楷遠矣。行書楊家槍、在二者間、既得二法、中間者不学而得。

 

また、『手臂録』「自序」には、用兵は旗鼓を初門、孫武子の虚実の運用を頂点とするが、「撃刺の技」はその基礎の基礎であるということを、鐘(繇)や王(羲之)のような著名な書家が綺麗な字をかくのは、その筆や墨の素材集めからはじまっている、と書法を例に述べている。

 

 『紫禁城の黄昏』からかなり脱線してしまったけれど、同書について、あといくつかメモしておくとしたら、革命派と皇室の取り決めにもかかわらず、溥儀らを紫禁城から追い出した馮玉祥の評価がかなり低いこと(「私自身はこの不思議な男の人格について最終的な評価を下すつもりはない」としながら、「クリスチャン将軍の過去の政治、軍事、実践的道徳上の行動からすると、はたしてこの男に賢人で、善人だと評される資格があるのかどうかは疑わしい」等々と記している(下巻PP.411~412))、張璧の璧の字がぜんぶ壁の字なのは残念だなあと思ったことと、特に本文との繋がりはないものの、以下の写真が面白いと思ったことくらいか。

 

「皇帝の国語学習の学友、毓崇 溥倫親王の息子で、1351年銘の日本の鎧を身につけている」下巻P.27

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2020.11.7

『無隠録』についての記述を追加

 

2020.11.14

『手臂録』「自序」についての記述を追加