中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

中央国術館の設立前後(当時の新聞報道から)

「Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers」で、中央国術館の成立前後から、第一回国術国考あたりまでの動きについて調べてみた。

新聞報道を時系列で眺めてみると、いろいろな発見がわかり、『中央国術館史』の記述もかなりアテにならないことがわかる。

 

3月3日

南京の府内大校場にて国技遊芸大会が開催され、多くの武術家が参集

※3月4日の時事新報に参加者についての報道あり。とても興味深い顔ぶれ。

※林志遠と李發蘭が「八極対打」、柳印虎が「八極拳対打」を行っていることが確認できる。似たような名前で、同じもののような気もするけれど、柳印虎のほうは、相手の名前が出ていない。

柳印虎は孫禄堂の門人で、実際、中央国術館では設立当初の機構編成のなかで、武當門の科長になっているけれど、もとは霍殿閣と並ぶ李書文の門人であるという。このように、当時から、いわゆる少林と武當の双方に通じていた人がいたのだとすると、中央国術館において少林門と武當門の対立が、門長同士の腕比べにまで発展したという、あの事件はいったい何だったのだろうという気がしないでもない。もしかすると、この対立は、いま考えられているような、武林の二大派閥の対決というよりはもっと俗人的なもので、現在の我々の捉え方は、武侠小説的な見方に影響され過ぎているのかもしれない。

劉玉春の門人の任鶴山(注)、馬英図の短刀、短棍、春秋刀というのも気になる。

※第三組の西北軍枠の二人目、黒虎拳を演じている「王天平」は、もしかしたら王子平の誤植ではないか。王子平は西北軍とは関係ないけれど、この枠には同郷の人たちがたくさんいたはず。二日後の準備会議に彼の名前があり、国術館では重要な位置を占めるのに、ここに名前がないのはやや不自然。

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Shi shi xin bao (時事新報) 1928.03.04 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

(注)

民国初年,军阀纷争,民不聊生。为了生计,刘玉春弟子任鹤山(老大),任秀峰(老五)哥俩南下上海某生,并很快站稳了脚跟。其中,任鹤山还与沧州二杰佟忠义(任向荣弟子),王子平结拜为兄弟(佟忠义老大,王子平老二,任秀峰(ママ)老三)。1926年前后,刘玉春孙子刘景云(1906-1944)也来到上海。可以说,此时的上海已成为独流苗刀的一个重要传承地。任鹤山,任秀峰弟子鲍关元,孙云鹤,顾宏森,以及再传弟子潘锦生(孙云鹤弟子),吴茂贵(鲍关元弟子),杨善耕(鲍关元弟子)等均为独流苗刀的发展默默地做着贡献。 杨祥全「苗刀・運河・中日交流」『耕余論剣』所収 P.141

 

 

3月5日

午後二時、廖家巷一号張宅で第一回準備会議が開催される。出席者は張之江、李景林、駱斌、劉鴻慶、蕭芹、季光恩、劉百川、易龜、孫少江、王子平、于振聲、永田等二十余人。館長を張之江、副館長を李景林とすることで衆議が一致、着手のために一千元を準備することに。

「国術研究館縁起」をあわせて掲載。

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Minguo ri bao (民國日報) 1928.03.07 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers 

 

3月8日

廖家巷一号(張宅)において、国府委員譚延闓、李烈鈞、張之江らによる準備会合が続く。組織条例が検討されている。衆議により、駱斌が議案の整理、国府への提出を担当。地方公会との交渉は蕭芹が担当。経常経費は暫定的に一万元とし、国府に五千元の補助を求め、残り五千元は発起人が募集するとされる。研究館の人員は、(一)列席者の紹介と(二)新聞での募集に分けて行う。

(一)として、李景林は孫全福(ママ)、楊少侯、楊澄甫を紹介、張之江は馬詡(ママ)、王子平は楊洪修、易龜は蕭展舒を紹介。設置場所が定まったら成立大会を行う。

3月8日付民国日報掲載の組織条例によると、本館は理事一人を置き、全館事務を総理、副理事一人を置き、館中事務を襄理、となっている。

※副理事長は「春季全国代表大会」で公選するとし、「理事長」の選出方法については言及なし。

※3月5日の会議で「館長を張之江、副館長を李景林」と決めたはずなのに、はやくも変更が見られる。

※張之江が推薦した馬詡とは誰?馬健詡(馬鳳図の字)のこと?張之江は、馬英図よりも馬鳳図を国術館に残したかったのか?(馬鳳図が中央国術館に着任していたことは確認できないけれど、なぜか「中央国術館史」には詳しい紹介がある。)

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3月24日

14時、南京の東街大舞台で国術研究館の成立大会が開催され、「正理事」張之江、「副理事」李景林が就任宣言を行う。国民党の譚延闓主席と于右任が党部を代表して挨拶。李宗仁が軍委員会を代表して挨拶。三十余種の表演。

※責任者は「正理事」と「副理事」

※少なくとも、副理事は「春季全国代表大会」で公選するのではなかったのか。

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Minguo ri bao (民國日報) 1928.03.26 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

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Shi shi xin bao (時事新報) 1928.03.25 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

4月29日

蘇省大中校連合運動会の二日目に、国術研究館の面々が参加して演武を披露。

※表演者に「董事」、「主任」、「教授」といった肩書がついている。これらはいつ決まったのだろう。なお、同志とあるなかでも黄玉珊は最年少で十二歳。何福生もまだ十三歳。

※この時点で馬英図にはすでに「主任」の肩書がある。第一届国術考試に「優勝」したので中央国術館の教官になったとの説があるけれど、実態は中央国術館の設立当初から主任教官なのであって、この説は前後関係が逆転していることがわかる。

※于振聲、馬金標はこの「国技裁判」でもある(4月28日付民国日報

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Shi shi xin bao (時事新報) 1928.05.01 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

6月末

国民政府国術館啓事 という形で、国術研究館から、「研究」の字が正式に削除されることが発表される。

※「国術研究館」から「国術館」への変更であり、「中央」の文字はない

Minguo ri bao (民國日報) 1928.06.28 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

7月17日 

「中央」国術館組織大綱が確定

※3月8日の準備会議で議論され、駱斌がまとめて国府に提出することになっていた組織大綱がここでようやく確定して公表された模様。「館長」「副館長」の呼び名もここではじめて確定したというべき。3月8日の「組織章程」では理事、副理事を置くと定めており、実際、それの呼称により就任宣誓がなされている形跡がある。また、以後の、さまざまな会合でも「理事長」「理事」の呼称が使われ、さもなければ「政府委員」と呼ばれている。

そして、若干「ゆらぎ」があったように見える張之江館長による指導体制があらためて確認された模様。民国日報は改めて「張之江主持国術館」という見出しの記事も掲載している(7月21日)。

※「本館経費」は(甲)本館収入、(乙)団体及び個人の寄付、(丙)政府補助費、とある。3月8日の準備会議の時点でも、経常経費を暫定的に一万元としながら、政府による補助は半分、残り五千元は発起人が募集すると議論されている。中央国術館への政府支援は最初から一部でしかなく、1931年の盧溝橋事件後に減額されたという説はなりたたないことがわかる。

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Minguo ri bao (民國日報) 1928.07.18 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

7月21日

国府は国術館理事として以下の十一名を「推定」すると発表

譚延闓、蔡元培、張人傑、李烈鈞、于右任、薛篤弼、鈕永建、李石曽、何応欽、宋淵源、王正廷

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Minguo ri bao (民國日報) 1928.07.22 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers


7月22日

中央国術館は10月15日に国術考試を実施すると発表。考試委員として、蔡元培、薛篤弼、李烈鈞、宋淵源ら。

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Minguo ri bao (民國日報) 1928.07.23 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

※考試委員の詳細は、9月16日付時事新報掲載の人員とやや異動も

Shi shi xin bao (時事新報) 1928.09.16 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

※各省市区に国技専家の選定、参加を求めるための書簡を発出したと書かれているけれど、9月6日付中央日報に、中央国術館から各級政府に送られた、理事長李烈鈞、正館長張之江、副館長李景林の連名文書(発出日不明)が載せられている。

※9月6日付民国日報にも、同じ文書が全文掲載されている。この文書が7月の時点で各地に出た文書なのか、9月になってから改めて発出されたものかは不明。李烈鈞理事長と明記されている点は要注意。

なお、1936年4月2日付東南日報には、戴季陶が民国18年に全国運動会会長、中央国術館理事長に任命された、とあるので、李烈鈞が理事長であったのは1年程度であったのか。戴季陶の在任期間、後任などは未確認。

Dong nan ri bao (東南日報) 1936.04.02 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

※当初は、上海での開催が予定されていたことがわかる。

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8月27日時事新報に、「各級国術館組織大綱」が載っている。

正式に発表されてのはいつかわからないけれど、7月に発表された中央国術館の組織大綱とあわせて、ようやく全国を覆う国術館体系の全体像が明らかになったというところか。

江蘇省上海市では5月末には、はやくも国術分館の設立をしていたけれど、これらの構想にあわせた修正が行われている。

Shi shi xin bao (時事新報) 1928.08.27 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

(上海分館の、中央国術館側での正式な登録完了を伝える時事新報1928.10.25の記事

Shi shi xin bao (時事新報) 1928.10.25 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers )

 

10月21日

国術考試の入賞者124人が発表される。

時事新報10月24日の記事によると、うち最優等15人、優等37人。

10月22日時事新報によると以下のとおり。若干の誤植がある。

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Shi shi xin bao (時事新報) 1928.10.22 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

民國日報 1928.10.22より。張之江と李烈鈞が授賞していることがわかる。館長と理事長なのだから、妥当といえる。(ただし、李烈鈞は審査委員長のような立場も兼ねている。)

他方、『中央国術館史』には、「冯玉祥将军,以中央国术馆理事会长的名义,为大会最优胜者备好了十五份奖品」(P.45)とある。この本は、全体として、馮玉祥を理事長と記しているけれど、参加呼びかけの文書の名義からしても、事実と異なる気がする。(ただし、少なくとも大会初日、三日目、四日目にの会場を訪れていることは確認できる。)

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Minguo ri bao (民國日報) 1928.10.22 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

きりがないので、第1回国術国考3日目の来賓に日本人の名前を確認したことを記して、とりあえずのメモとしておく。井上謙吉と菊地良一、ともに孫文以来、国民党、辛亥革命と深くかかわった日本人といえそう。何か、記録は残していないんだろうか。

いやはや本当に驚くことばかり。

 

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Shi shi xin bao (時事新報) 1928.10.18 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

2021.1.3

1936年4月2日の東南日報(戴季陶理事長)に関する記述を追加