中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

清代の人口増加の武術への影響 過去メモから

以前にもメモしたけれど、陳舜臣の小説『阿片戦争』にはイギリスとの戦争に備えて組織された自警団やそれを指導する武術家が登場するけれど、自警団が組織されるのはイギリスとの対抗というよりも、急激な人口増加と流動人口の増加による治安の悪化に対処するため、という観点が示されていた。

 

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この当時の人口増加のすさまじさは、岡本隆司『中国近代史』のグラフをみると一目瞭然だ。

出典:岡本隆司『中国近代史』P.34

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ちなみに、この清代の人口増加を説明できる学説はなく、中国史上のナゾとされているとのこと。(加藤徹「中国の人口の歴史」)

http://www.geocities.jp/cato1963/jinkou996.html

 

 

この時期、治安を悪化させた匪賊と、これら匪賊から村を守るグループの双方に、腕に覚えのある(武術のできる)人材が含まれていたと思われるけれど、その一部は、おりからの四川への移住奨励や同地における流通経済発展の中で、華中地域を経て、四川に移住していった人々の中にも含まれていただろう。そしてその過程で、華中地域や四川省に「外来拳種」として、広東や福建の武術をもたらしたと思われる。一部には太平天国軍に流れたものもあるだろう。

管見の限り、武術研究のなかでこういう点に着目したものはあまり見当たらないけれど(注)、結社研究の領域では早くからこうした点が注意されているように思わる。今回、理由があって改めて酒井忠夫『中国民衆と秘密結社』(平成4年の出版)を読みなおして、そのことを痛感した。

 武術研究以外の領域の研究成果から学べることはとても多い。

もっと時間がほしいなあ。

 

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(注)

移民と武術の伝播というテーマでは、たとえば

(1)近代の東北地方への山東や河北からの移民

www.360doc.com

 

(2)山西の大槐樹から陳家溝への移民

人口迁移与武术传播 - 其他文化 - 中华武术网

などが思い浮かび、それぞれに研究もされている。

 

 2018.6.6追記

加藤徹「中国の人口の歴史」についての一文とリンクを追加

 

2021.4.27

人口増加と治安悪化について

一八世紀の中国は人口爆発の時代であった。それまで一億人前後で推移していた人工が、三億人へ増えたのである。むろん十八世紀の人口増加は温暖な気候の影響もあって世界的に見られる現象だが、政治的に安定していた清朝統治下の中国はその増加ぶりも突出していた。

 それは同時代の日本と比較するとよくわかる。戦国時代に一五〇〇萬人程度だったと言われる日本の人口は、戦乱の終息や新田開発の結果もあって江戸時代前期に三〇〇〇万人ちかくまで増えた。だが一八世紀を通じてみるとその後人口は増えなかった。社会の基礎となるイエ制度や本百姓の経営規模を維持するために、次男以下の男子を「人口の蟻地獄」と言われる江戸へ丁稚奉公に出したり、耕地を相続できず小作人となった息子夫婦が子孫を残せないまま死亡し、人口が抑制されたためと言われている。

 いっぽう中国の場合は違った。当時の日本では一子相続が一般的だったのに対して、中国では息子たちに財産を均等に分割する均分相続が行われていた。科挙合格者を生むためには多くの男子を生み育て、競争させて社会的に成功する可能性を高める必要があったからである。だが均分相続は財産の分割を伴うため、世代がくだる度に一人当たりの取り分は減少する。これを補うために行われたのが国内のフロンティアあるいは海外への移住で、清代には四川、台湾や東南アジアに多くの漢族移民が移り住んだ。華南の広西、湖南といった地域も多くの移民が入植しており、だからこそ客家の人々がこの地に住んでいたのである。

 一九世紀に入る頃には、中国国内の入植者は飽和状態になっていた。それを示すのが四川で発生した白蓮教反乱で、入植後も不安定な生活に苦しんだ移住民が帰依した民間宗教が起こした反乱だった。同じ時期に台湾でも移民同士の利害衝突をきっかけに天地会の反乱が起きた。

 またイギリスが中国とのあいだにアヘン交易を始めると、それまで中国経済の繁栄を支えていた銀が大量に流出し、国内とくに南部の各省は不況にみまわれた。湖南でも耕地や職を得られない移民が多くなり、先住の漢族や少数民族と衝突したり、西南中国に広がった民間宗教である青蓮教や天地会系の結社に庇護を求めた、湖南南部で太平天国に加わった人々もこうした組織の会員が多く、実際に太平天国工作員が広東北部で活動していた天地会のメンバーと連絡を取り、彼らに太平軍へ合流するように促したことを示す供述書などが見つかっている。

 これと並んで見逃せない点として、現状に不満な地域リーダーの太平天国への参加が挙げられる。彼らは一定の経済的基盤をもちながら、科挙に合格していないために官僚に就任するチャンスがない新興勢力で、人口増加に対応できない地方行政の隙間をぬうように政治的な影響力を拡大していった。

 当時銀納を原則としていた土地税の負担は、銀の海外流出に伴う銀貨の高騰によって、それまでの銀一両あたり銀一千文程度から倍以上に増えた。漕米と呼ばれる北方へ輸送する米の負担についても、様々な名目の付加税が取り立てられた。

 これらの地域リーダーは税負担に苦しむ人々の先頭に立って異議を申し立てたが、清朝のリーダーのなかには本人あるいは親族が天地会系の組織に加わっていた者もおり、太平天国が湖南に入ると東安県の蒋賓(正しくは王へん 引用者注)(元生員で、弟は天地会員)、瀏国虞(徴義堂と呼ばれる天地会系組織の首領)、岳州の晏仲武などが工作員の呼びかけに応じて蜂起した。なかには明朝復興のシンボルである「天徳王」の名前をかかげ、独自に蜂起して合流しようとする者もいた。彼らは清朝の統治に失望して太平天国に呼応したのであり、これらの人々の参加することによって太平天国は全国的な規模の反乱に拡大していくのである。菊池秀明『太平天国 ―― 皇帝なき中国の挫折』PP.52-54