中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

蔡李仏拳博物館など

3月のはじめに広東省江門市の政治協商会議の一行が市内の蔡李仏拳博物館を視察したという記事を見かけて、そんな博物館があったのかと思って調べてみた。

 市政协专题视察蔡李佛拳博物馆 传承弘扬侨乡武术文化精髓-政务要闻-江门市人民政府门

 

2001年の秋に蔡李佛拳の創始者・陳亨の陳公祠(始祖館)を蔡李佛武術博物館にとしたという記事があり、どうやらその場所のことをさしているらしい。機会があればいつか覗いてみたい。

 

上世纪,“开放改革”中华大地掀起武术热潮。1986年洪圣始祖馆得到政府支持及海内外同胞资助,重新开馆,京梅村青年纷纷习武学艺。1999年外出会城等地之蔡李佛弟子枵腹筹办“新会市蔡李佛始祖纪念会”,力图发扬光大蔡李佛.2001年10月,京梅村民委员会及众多乡亲父老,敬仰先辈,着眼未来,将缘福陈公祠定为蔡李佛武术博物馆。以便子孙后代继承优良传统文化,提高综合素质,为国效力。

 

〇蔡李佛始祖館についての観光紹介記事

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画像は上の記事から。

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注意してみると、youtubeの動画にも、ここで撮影されたものが多数あることに気づく。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

ついでに蔡李佛拳そのものについて基本的なところを確認してみた。蔡李佛拳は、広東は新会崖西鎮京梅村の人・陳亨が族叔の陳遠護から学んだ仏教系の武術(仏家拳)、李友山の武術(李家拳)、蔡福の武術(蔡家拳)をもとに1836年に創設したとされる。陳亨の生年は 『中国武術人名辞典』、『中国武術百科全書』では1805/1814と二説あることが示されているのに対して、郭裔『晚清民国时期的广东武术』では1806年となっている。

もう慣れっこになったので、このくらいの年代のブレでは驚かないけれど、もっとも早い1805年説をとったとしても31歳ごろには新しい流派を形成していることがわかる。

 

1836年に何があったかというと、百度百科の「蔡李佛始祖拳会」の紹介には、新会県衙が郷村を匪賊から守るための自衛組織の設立を奨励するなかで、陳亨が京梅村の父老の要請に応じて弟子をとりはじめたのだといい、これをもって流派の成立と呼んでいるようだ。

 

1836年间,适逢新会县衙推行乡村防匪自保的“攻匪保良策”,允许各乡村自行设立治保组织。陈享应乡中父老之邀,回京梅村收徒传艺,标志蔡李佛拳正式面世。

蔡李佛始祖拳会_百度百科

 

陳忠傑「蔡李佛源流簡譜」では、この1936年の時点で、陳亨が縁福陳公祠に「洪聖」武館を開設したと記しているけれど、『人名辞典』、『百科全書』とも、蔡李佛拳館の設立を1849年としている。さらに百度百科の陳亨の紹介では、京梅に洪聖総館と祖師堂が設けられたのは1845年となっていて(「1845年在京梅设“洪圣总馆”和“祖师堂”」)、このあたりは何が正しいのか、いまひとつよくわからない。

 

百度百科の陳亨の紹介では、陳亨は修行を終えて新会村に帰る途中、32の村の匪賊討伐に貢献し、朝廷から表彰されるも、幼い頃から「反清復明」思想の薫陶を受けていたことや、恩師の一人である蔡福の教えもあり、仕官の求めに応じず故郷に戻り永勝堂という名の薬屋を営みながら、父老の求めに応じて自警団に武術を教えたとされる。ただし、その一方で、1839年から1840年にかけては林則徐の要請に応じて義勇兵の水師の訓練を行っているようであり(この記述は人名辞典や百科全書には見えない)、幼い頃から反清復明云々の説にはやや疑問も残る。陳亨が後年、 太平天国運動にかかわって、清朝の追及を逃れるために大陸を一時離れたりしたことに基づく後付けの説明のような気もする。

 

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この前後の時代の様子を描いた陳舜臣の小説『阿片戦争』にはイギリスとの戦争に備えて組織された自警団やそれを指導する武術家も登場したけれど、自警団が組織されるのはイギリスとの対抗というよりも、急激な人口増加と流動人口の増加による治安の悪化に対処するため、という観点が示されていた。と同時に、彼らの不満が朝廷側に示されることに対する懸念も綴られており、これが続編『太平天国』では現実のものとなる。陳亨その人はこれらの小説には出てこないけれど、その生涯は陳舜臣が描いた自警団とその指導者に重ねられる部分が多いように思えた。

 

 民衆は組織されつつあった。

 それは従来の保甲制度から、さらに一歩前進した形態をとっている。

 外国との関係が緊張してきたからではない。

 理由はもっと深いところにあったのだ。

 異常な人口の増加。---農村の養いきれない人口は、危険な流民となって、諸方に溢れ出、最も悪質な者は匪賊化していた。それにたいして、農村は自衛せざるをえない。自衛のためには組織をもたねばならず、各地に組織指導者があらわれる。

 群小の組織は毛細管のように相互の連絡をとりつつ、巨大な組織に成長するかもしれなかった。

 農村の自衛組織は、いずれも『社学』を核として、発達しているようだ。社学は地方有力者の寄付によってつくられた教育機関で、この地方の師弟の塾であるが、同時に民衆の集会所となり、匪賊対策のための壮丁の訓練場ともなっていた。

 林則徐は囲碁の読みのように、社学の将来を、一手ずつ追うてみた。---いまのところ、流賊にたいして、自衛の必要を最も痛感しているのは、守るべきものを多くもつ資産家たちである。社学も彼らの財政的支援でつくられた。だが、訓練を受けている壮丁の大部分は、極貧農家の子弟である。彼らは守るべきものをあまりもっていない。もし一切を失ったとすれば、彼らは習得した武術と与えられた組織で、なにかを得ようとするだろう。・・・そんなとき、王挙志のような人物が、彼らのために旗を振るならば?

阿片戦争』新装版 第2巻 P364-365 王挙志は自警団の指導者

武術史はこういった視点からの研究がもっと必要な気がする。 

 

以下、いくつか関連情報のリンク。   

表面的なところをなぞっただけだけれど、これまであまり調べたことがなかったので勉強になった。

 

蔡李佛源流简谱

蔡李佛源流简谱 第2页

 

baike.baidu.com

 


張偉雄「文化財としての「新会蔡李佛拳」と現代社会」

https://sapporo-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=7061&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1