中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

翟樹珍、四大張、李少春など

このブログで、以前にメモした王之和、沙国政が天津時代に師事した翟樹珍についての紹介記事を見つけたのでメモ。

 

双面大侠——“神枪”翟树珍

 

記事によれば、翟樹珍は光绪三年(1877年)生まれで、1949年に73歳でなくなっている。

船頭や畑仕事をしながら覇州の辛章村(静海、文安に近接)で少林僧の王九から武術を学び、「小車会」のリーダーとして、村の祝い事などで武術を披露していた模様。最大のイベントは、旧正月の二日から九日にかけて火神真君を祀る庙会であった由。(小車会と並んで、「藤牌会」というのもあったらしい。)

地元では名が知られていたものの、覇州、静海、勝芳で行われた擂台では、八位にとどまり、そのことを恥しく思っており、のちに天津で、天津武術研究会(天津第八国術館)を設立するのも、そのことに由来するという。

天津では、張占魁に形意拳八卦掌太極拳を学ぶとともに張鴻玉、張連生、張魁元から摔跤を学び、さらに誰からどう学んだのか不明ながら、ボクシングも研究したらしい。

第八国術館のボクシングの稽古は有名だったのか、長沙の擂台賽を訪れた際には、審判長を務めていた修剣痴は歓迎宴会で自分たちのボクシングのデモを見せたあと、噂に聞く第八国術館の技を披露してほしいといい、八日後に、修剣痴の教え子たちと翟樹珍はグローブをはめて対戦したとのこと。

記事は、この出来事を1937年のこととしているけれど、1937年に湖南省で全国規模の擂台賽があったというのはあまり聞いたことがない。他方、大連武術博物館の紹介によると、修剣痴は少なくとも湖南省で1931年に続いて開催された1932年の国術比賽において、公平を期するために全国から招かれた10人の審判のうちの一人。この大会で、上位に入賞したのはいずれも国術訓練所と軍の技術大隊の訓練をはじめて1年にも満たない選手たちで、そのことが通背拳の指導方法に影響を与えたと考えられていることは以前にメモした。ちなみに、唐豪の日本武術視察団の一員で、ボクシングの経験もある朱国禎はこの年には長沙第四陸軍軍事訓練組技術研究室高級班副班長兼国術教官に就任しているはずなので、修剣痴が見せたというボクシングのデモは、実際には朱国禎が指導した学生たちのことをいっているのかもしれない。

朱国禎より遅れて、兄の朱国福の湖南省国術館教務長兼総教官着任は1935年と思われる。いずれにしても、1937年の擂台賽というのはちょっとよくわからない。

 

〇前にも貼った動画 途中に、四路軍技術研究班のデモがある。

www.youtube.com

 

大連武術文化博物館のサイトから

1932年,湖南省主席何键在主持湘政期间,大力提倡中国武术,曾先后两次在省内举办国术考试,为了公平起见,从全国邀请了十位著名武术家当裁判,修剑痴应邀成为十位裁判之一。这次擂台赛当时在全国武术界产生了很大影响,湖南等地的多家报纸作了报道。由于修剑痴高超的武功,及深厚的武术理论基础,圆满地完成了裁判工作,因此得到湖南武术界的认可,在裁判工作结束后,修先生被聘为荣誉少将军衔武术教官。在湖南工作期间,他广泛地接触了两湖、云贵、四川等地的武林人士,对南方的各拳种流派有了深入了解,为五行通背拳的发展提供了养分。修剑痴开始对少祁派五行通背拳进行改造。

通背拳史(三) - 大连武术文化博物馆_大连武术文化博物馆官方网站

 

年代ということでいうと、記事の中で紹介されている、1928年に天津で、李景林を歓迎する演武会が開かれたという点も、李景林の経歴からするとどうしても信じがたく、その時期はもう数年前でないとおかしい気がする。
この問題は、記事の中で、この演武会が報道されたとしている「庸報」の記事が出てくれば明らかになるはずだけれど・・・。

 

・・・などなど、若干留保したい点はあるものの、全般的にとても興味深い記事だと思った。とりわけ、天津に残る翟樹珍の門人の档案資料を調べて、それに基づいて、日中戦争時代に日本に協力していたらしいことを「偽」の文字を使いながら記述している点はとても注目される。彼自身は、日本の協力要請に応じなかったと書かれているけれど、翟樹珍とその門人の活動がなかなか評価されていないのは、こういった経緯もあっての事と思われる。

 

 

〇記事で紹介されている、翟樹珍にも学んだ京劇の李少春

www.youtube.com

李少春

出典:李少春相册-表演艺术家李少春剧照集,怀恩网

 

 

 

〇天津の摔跤界の「 四大張」の一人、張連生の教え子で50年代に活躍した高富桐の動画

 

v.qq.com

 

同じく、四大張のひとり、 張鴻生について、百度百科の紹介では、牛島辰熊と交流し、北京、天津のほかの人たちがことごとく敗れるなか、この人だけが三対二で優勢であったと記している。 

张鸿玉( 1912 — ? )河北省青县人。天津跤坛“四大张”之一。 12 岁随父来津,拜李洪彬为师学习武术,长于“六合功”法。 17 岁师从王昆仑学习摔跤。经过数年的苦练,技能超凡。 1940 年初,日本柔道强手牛岛胜雄(八段)在北平 ( 今北京 ) 摆擂挑战,连胜平、津数人,唯张鸿玉以 3 ∶ 2 取胜,从此名声大震。天津解放后曾任天津市中国式摔跤队教练、天津市摔跤协会副主席。年逾古稀后仍担任武术、摔跤训练中心顾问。

https://baike.baidu.com/item/%E5%BC%A0%E9%B8%BF%E7%8E%89?fbclid=IwAR3Es_qZ8Rae2Ou3zZyovPZxQNZRdOQR_d0rxjunLK5kOvY5EoAxDMFlNWs

baike.baidu.com

 

四大張の由来について解説された音声ファイル

方言がきつすぎて部分的にしかわからない。誰か文字起こししてくれないかなあ。

www.ximalaya.com

 

〇天津の『庸報』は、のちに輿論工作の中で土肥原賢二によって買収されたらしい

  孫暁萌「天津『庸報』(1926-1944)の変遷と編集方針についての考察」

library.ryukoku.ac.jp

 

 「庸報」の1936年3月から1940年10月まで(ヌケあり)のマイクロフィルムが、国会図書館にある模様。

ndlonline.ndl.go.jp

関連の過去メモ

 

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