「東北三省武術会」、「奉天武道振興会」など
1.海朝英
張作霖・張学良について調べていたら、海朝英という、孟村出身の武術家にたどりついた。
弾腿の名人で、なおかつ回教のアホンであったらしい。
弾腿のほかに鐵(黨)、鐵鞭、虎頭雙鉤が得意であったともいわれる。
百度百科の紹介では、1931年の「東北三省武術会」に参加し、その演武を見た張学良が彼に「名誉第一名」を授け、後に自ら清真寺まで銀盾を持っていったという。
海朝英の技は、張貴森を経て、陳建任に伝えられている模様。同氏のプロフィールから。
1980 跟随著名武术击技大家海朝英传人张贵森老师练八极拳、查拳、弹腿、劈挂拳、散打。
張貴森の名前は、孟村で八極拳を学んだ張新倫のページにもでてくる。
遼寧の海徳庫氏は、叔父の海朝英から、「十路回回弾腿」を学んだとある。
天津の海徳真は、海朝英の息子らしい。武術は伝えているのだろうか。
2.東北三省の省考
海朝英が「名誉第一名」を授けられたという1931年の「東北三省武術会」が気になって調べてみた。東北地方で最初の国考(省考)が1931年に瀋陽(奉天)で満州事変の「前十多天」に行われているらしく、このことを指しているのではないかと思われる。
このときの優勝者は尚派形意拳の辛健侯で、長子の辛延海へのインタビュー記事がある。もともとは華北運動会の代表選抜を兼ねていたようだけれど、日本の占領により、その後は計画通り本戦参加とはゆかなかった模様。
〇辛延海へのインタビュー記事。辛延海自身も1947年の擂台賽に参加しており、その記述も興味深い。なお、この記事では、冒頭の海朝英についての言及はない。
〇尚雲祥と辛健侯の写真
1931年の擂台賽での優勝を報告に北京まで行ったときに撮影されたものという。
そのほか、百度百科などで査拳の劉宝瑞をする紹介記事では、やはり張学良が、南京で行われる全国武術擂台賽の選手選抜のために1931年に打擂比賽を行い、劉宝瑞が他を圧倒して優勝した(占鰵頭)ものの、満州事変により南京の擂台は中止になった、と紹介されている。細部は別として話の構成が辛健侯の話とよく似ている。擂台賽が二度行われたとは考えにくいので、どこかで混じってしまっているように思われる。
劉宝瑞は回族で、査拳のほか、双鈎が得意というのは、冒頭の海朝英と重なるところがある。
1931年,南京要举办全国武术擂台赛,为选拔武术高手,张学良在小河沿举办打擂比赛,刘宝瑞和徒弟张贵元也参加了打擂。这次打擂,刘宝瑞力压群雄,独占鳌头。不久“九·一八”事变发生,南京擂台取消。
3.「奉天武道振興会」
奉天を日本が占領すると、もともとあった遼寧国術館などは閉館になり(注1)、日本人を会長とする「奉天武道振興会」が成立、瀋陽では29の武術団体(武館、拳坊)が同会の認可を受けて活動していたらしい。
たとえば
・北市場「四海昇平」茶楼の隣の辛健侯の拳坊は第一分会
・北市場関帝廟の張鶴久の拳坊は第四分会
※以上は、上記の辛延海の取材記事から
・地功拳の周躍武の武館は「武道振興会十二支会」
〇武道振兴会十二支会 奉天大南门武馆
一九四二年师徒合影
左起:顾中海 楊德元 楊殿元 朱君海 张继先 赵立中 王喜禄 隋鹏程 马松林 赵玉普
中:周耀武
・大連出身の蟷螂拳家・王慶斎の皇姑区の拳房は「奉天武道振興会第26伝習所」
・ 武式太極拳の顧胤柯も1938年から奉天武道振興会の教師を務めたということなので、29の組織のうちの一つなのだろう。
・その他、顧胤柯を紹介する王善徳の文章の中に、「東北三老」の翻子門、回回営の白岐山(この人も三老の一人胡鳳山の弟子だが回族のためか別扱いに)、義兄弟の契りを結んだ10人の武師からなる「奉天十義」なるグループもこの時期活動してたことが記されている。
・梅花蟷螂拳の郝恒禄の大弟子・賀先隆に学んだ桑永茂(注)は「奉天省武道振興会蓋平分会」の許可証(執照)を得ていたという。
ただし、蓋平は瀋陽市ではなく営口市に属すると思われ、「奉天「省」武道振興会」という記述とあわせて、若干確認を要すると思われる。
なお、桑永茂の弟子の中には、満映の「武打設計」兼俳優の李希義、李玉祥などがいるという。具体的な作品名は挙げられていないけれど、白馬剣客、黒臉賊、燕青などを演じていたといい、この辺りも興味深いところ。映像が残っていないのかなあ。
东北梅花螳螂拳名师 盖州武术志稿·人物篇-laiyangyiren
2016年11月には、蓋州市の武術研究会が桑師の生誕120周年を祝う活動を行っている。
市武术研究会举行纪念桑永茂拳师 诞辰120周年暨成立21周年活动-百姓关注-盖州市人民政府
・その他、段徳貴を紹介する以下の文章の中には、「満州」武道振興会第32伝習所(武占元)、第6伝習所(劉茹山)が出てくる。
段德贵,1930年8月2日生于沈阳市沈河区,当时正是日军侵华时期。为了防身自卫,抵抗日寇和汉奸们的欺压,10岁时便到了周耀武武馆学艺,后因家境困难自行出外做了童工。1942年在邻居王守仁、王守智、李岩成等兄弟们的撮合下,去了魁星楼后的满洲武道振兴会弟32传习所武馆,与武占元老师学艺。不久,武占元老师因搬家远去,便又到了满洲武道振兴会弟6传习所,跟刘茹山老师学习武术。当时所学武术套路有“捋手(四趟)、二路关西拳、少林拳、夜战刀、玄武剑、五路花枪、双刀、双斧、双拐、双钩、双戟、拦马撅、大刀、手梢子、春秋十八大刀、七节鞭、方便铲、齐眉棍”等。段德贵最喜欢练的叫“五路花枪和八翻掌”。
29団体の許認可台帳のようなものがどこかに残っていたらとても貴重な資料だと思う。
なお、1.で記した劉宝瑞などは奉天武道振興会への入会を拒否したものの、「推薦」という形で北市中心区区長の官職が与えられたという。
結果的に官職を得たためなのか、文化大革命時代には「歴史問題」で数年間投獄されたというのはなんとも気の毒としかいいようがない。
日本人占领沈阳后,成立了所谓“武道振兴会“,刘宝瑞拒绝入会,日伪当局以“公选”手段给他封了个“北市中心区区长”的“官衔”。
新中国成立后,刘宝瑞因“历史问题”不清,度过了几年的狱中生涯。后来在天津和平区团结路卫生院当了一名骨科大夫,直到1969年病逝。
劉宝瑞は満州国には反対ではなかったようで、満州皇帝溥儀のために通臂門の鄧立根、翻子門の楊福興、少林門の鄭天翔らとともに武術を披露したという記事がある。なお、ここに出てくる鄧立根以下の人物については確認できておらず、この記事自体も事実なのかいまのところ不明。
一九三三年(伪大同二年),爱新觉罗、溥仪,因他喜爱武术,把东北的武林高手召到新京(今长春),在宫中为他演武献艺,被召的除查拳门的刘宝瑞,还有通臂门的邓立根,翻子门的杨福兴,少林门的郑天翔等著名拳师,每位拳师在会上各献绝技,展示自己的武功。
刘宝瑞上场演练的是查拳中“埋伏拳”,只见他搂、打、腾、封、挑、踢、弹、扫、挂、撑、蹚、连、撩、跺、踩、腕、胯、肘、膝、肩,一招一式,快而不乱,慢而不散,真是拳似流星眼似电,身如蛇行脚似粘,手眼相随,神形合一,他练罢收式,掌声四起,这时,溥仪问:“听说你们教门除查拳外,尚有钩、镗、带、镢四绝功夫,能否给朕练趟双钩看看,”刘宝瑞不敢推辞,连声答应,他演练了一趟“殿章双钩”,此钩是明朝大将武殿章所创,赵熙川所传,只见他舞动双钩,前八趟看钺,后八趟看钩,摘钩入扣,推钩献钺,钩搂歪甩,搂钩锁带,眼见钩光闪闪,耳听虎虎生风,大家连连喝采,溥仪点头称赞“好功夫,好功夫”,真是美钩王,从此刘宝瑞美钩王的绰号,从此在武林中流传起来。
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そもそもこの奉天武道振興会とは何なのか。志々田文明『満州国・建国大学における武道教育』には、満州帝国武道会について紹介されているけれど、奉天武道振興会についての記載はみあたらない。詳細は今後の課題に。
関係するいくつかの動画を貼り付け。
〇王慶斎の蟷螂拳と青萍剣
〇王善徳の太極拳(顧胤柯伝)
(注1)
遼寧国術館がもともとあったといっても、『遼寧体育文史資料第4輯・武術専輯』の記載が正しければ、館長を許笑羽、副館長を張策と紀綬卿として遼寧国術館が設立されたのは設立は1931年の春なので、活動はわずか数カ月ということになる。同じく『遼寧体育文史資料』には、この国術館の場所は西華門の故宮西院で、設立後の最初の大仕事が1931年の省考であったと書かれているけれど、辛延海によると、辛健侯が北市場の中央大劇院のとなりで「遼寧国術館」をはじめたのは1930年前後で、この二つの国術館は別のものらしい。また、辛延海によると瀋陽の人で許笑羽が瀋陽に来たことがあると認識している人はいないという。ただの名義上の館長であったのか、あるいはなにか間違った情報に基づくものなのかは未確認。
以下の記事は、遼寧国術館の設立の事情について詳しく紹介されていて参考になるものの、1931年に設立された国術館が1929年の省考を実施したと書いていて、前後に明らかな矛盾があり、どこまで信用してよいのかわからない。
为推动各地武术发展,1929年中央国术馆下令各省筹建分馆。同年2月,中央国术馆向辽宁省政府函寄 《省、县、国术馆组织大纲》、《国术馆考试条例》及学员招收《简章》,并敦促辽宁组建国术馆。其中不仅规定了办馆宗旨、机构设置、职能、管理范围、办学内容等。还对国术馆学员招收考试做出详细的说明与建议,即参赛者逐级推荐逐级考试的方式参加预试与正试,考试科目分为国术和国学两部分,国术包括着拳脚、摔跤、器械(指定枪棍刀剑),国学包括国术学、生理大要、卫生要义等。考试以比试拳脚为主(穿手、溜腿、少林十二式等),对各级考试优胜者赋予不同的称号,国考甲等前三名分别授予“捍卫”、“辅卫”、“翊卫”,乙等授以“校卫”,丙等授以“勇士”:省级为“武士”、县(市)级为“壮士”。
时任东北政务委员会主席张学良一贯重视体育,主张“强身强国”,提倡“强国强种”。加之请立辽宁省国术馆的呼声越来越高,1931年4月18日,由张学良捐助的辽宁中小学教育基金董事王树翰、辽宁省教育会会长王化一等49人发起,联名上书请求建辽宁省国术馆。 5月21曰,辽宁省国术馆召开第一次董事会议,选举辽宁省国术馆董事会董事9人,推举辽宁省政府主席臧式毅为馆长,辽宁省教育厅厅长金毓绂为副馆长,馆内设教务、事务两课,馆址设在辽宁省政府教育会院内 (今沈阳市沈河区怀远门里沈阳故宫西侧),辽宁省国术馆正式成立。
(注2)
記事は、桑永茂はほかにも、徳州の楊俊峰から八卦掌を学んだほか、多くの師に学んでいるという。
4. 回教改革派と日本の対中国イスラム工作
海朝英をきっかけに調べていたら、全然違うところにたどり着いてしまったけれど、こういう展開もまた面白い。
改めて海朝英に話を戻すと、海朝英は同時代の回教徒の中では保守派だったのだろうか。
父親の海宏鋆とともに、天津の一部のイスラム教徒を率いて同時代の改革派で四大アホンの一人といわれる王静斎らに反対する運動を起こし、2カ月の実刑判決を受けたらしい。それらの点を含めて、詳しい情報がないのは残念。
王静斎の経歴の中では、コーランの翻訳について要請を受けた人物として、1914年に済南鎮守史の馬良の名前が出てくることを一応メモしておく。
回教徒の改革派は、関東軍の謀略に利用されたりしており(以前にメモした『支那風俗春秋』の佐久間貞次郎などはそうした動きを扇動していた人のようでもある)、それはそれで深い世界が人がっているような気がする。このあたり、あまり深く立ち入りたくはないものの、避けては通れないような気もして悩ましいところ。
王静斋年谱より
1934年,55岁。
任北京宣外教子胡同清真寺教长,萧德珍阿訇接任其三义庄清真寺教长职。秋季,海宏鋆、海朝英(1902-1981)父子率部分教众发动“天津市驱逐新行运动”,称王、萧等人为“猴都斯”(新行),发表了《天津市驱逐新行运动第一次报告书》,用武力占据了三义庄清真寺,将萧阿訇等遵经革俗者逐出寺外。王静斋闻讯后义愤填膺,接连发表了《海氏父子听着》、《新旧与是非辨》等文;萧德珍也相继发表了第一、二、三号《天津三义庄清真寺教长萧德珍宣言》。王静斋力主具呈天津检察处,控海氏父子“纠众作乱,侵占寺权罪”。结果,海氏被判处两个月徒刑。
2018.2.15
武道振兴会十二支会 の写真、段徳貴に関する引用と記述を追加