中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

長沙の修剣痴とその門人(韓鵬堯、王之和)

二つ前のメモの冒頭に貼り付けた写真で、王潤生の隣に修剣痴が写っていたので、

修剣痴と長沙の関係について調べてみると、1920年前後から大連で通背拳の指導を行なっていた修剣痴は、早期の弟子の韓鵬(後述)の推挙で湖南省第2回国術考試(1932年10月)の審判(裁判)として長沙にゆき、そのまま長沙に留まって何鍵の部隊の63師で武術教官に任じたとされる。
 
〇前々回のメモと同じ写真 向かって一番右が修剣痴

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1940年には大連に戻っているけれど、この間、韓鵬と同じく大連で教えを受けて、長沙県国術館館長に任じていた門人の王之和が左右につき従い、王之和の盟友といえる沙国政も長沙講武堂で教えを受けたとされる(後述の武林網の記事)。
沙国政武術館の記事では、沙国政が修剣痴に拝師したのは1940年。場所は書かれていないけれど、おそらくこれも長沙でのことで、ただし正式な門人になってまもなく修剣痴は大連に戻ってしまったということになるんだろうか。
修剣痴が大連に戻った経緯はよくわからないけれど、武術の指導以外に任されていた軍馬の買い付けに失敗し、買い付け先から大連に戻ってしまったと説明しているサイト(注)があって、なかなか面白い。
 
(注)
ただし、このエピソードには複数のバージョンがあること、『大連武術簡史』の記事がこのエピソードに言及していないことなどから、噂話のレベルにすぎないのかもしれない。
たとえば、『武術万維網』の李国澄「通背拳一代宗師-燕北大侠修剣痴」と題する記事では、1回目の買い付けは無事にこなしたものの、2回目の買い付けで4匹を手に入れた帰路、疫病で2匹が死んでしまったことに加えてあちこちで戦闘がはじまったので、湖南に戻らず大連に帰ったとしているのに対して、『武林網』の「修剑痴——五行通背拳创始人」と題する文章では、1回目の買い付けに成功して2回目の買い付けに出かけたところまでは同じだけれど、2回目の買い付けの際に悪天候と戦況の変化によって張家口で足止めをされているうちに当地の武林の仲間との付き合いでお金を使い込んでしまい、残りのお金を旅費にして大連に帰ることにした、としている。
 
『武術万維網』の記事
〇武林網の記事
 
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彼を長沙に招いた韓鵬堯は、修剣痴の大連における最初期の弟子らしい。
『大連武術簡史』では1904年大連西崗市場街の武術世家に生まれた、としているのに対して、趙宝安の文章「一代通背拳宗師-----韓鵬」 では1900年生まれで幼い頃に父に従い大連に来たと読めるなど、資料によって細部に違いがあるけれど、大連で呉振東(修剣痴と同じ河北固安の人、修より先に大連に来ている)に学んだあと、修剣痴に学んでいる。
 
芸が成ったあとは大連を出て(日本の浪人を殺めてしまったため、大連にいられなくなったという説も)、山東を経て、1929年(資料によっては1925年)ごろから長沙の何鍵の部隊で武術を教えている。
湖南で武術を教えたあとは、祖籍のある山東にもどっているけれど、大連の姉の家はたびたび訪れており、大連の通背拳の発展の状況を疑問視する態度をとったため(注)、次第に異端視されるようになってしまったようだ。
それでも1960年からは大連で自ら弟子をとりはじめ、69年までの10年間、毎年大連に来る度に3,4ヶ月の間指導を行ない、20名ほどのものが彼に学んでいるらしい。
 
このあたり、技術的なことは門外漢にはわからないのでなんともいえないけれど、『大連武術簡史』の紹介によると、修剣痴が審判を務めた湖南の国術考試には全国から400名ほどの武術家が参加し、そのなかには10年、20年にわたる修行を重ねたものが少なくなかったものの、「優勝」30名のうち29名は国術訓練所と技術大隊でわずか1年足らずの訓練をした選手が占め、なかでも上位3名は国術訓練所の学生であったという事実(注2)が、修剣痴が通背拳の体系を見直すに至る直接にして最大のきっかけであったとしていることを考えると、1940年以降に修剣痴が大連に伝えたものと、1920年前後に韓鵬堯が学んだものが違ったとしても驚くにはあたらないかもしれない。
その意味では、韓鵬堯だけが古い教えをかたくなに守っていたのかもしれないけれど、文化大革命のさなかに、国民党時代の武術教官というネガティブなレッテルを貼られて不遇のうちに亡くなったようだ。
 

 

(注1)趙宝安の文章によると、大連の通背拳をみた彼は、非常に驚くともに不満を感じ、「大連の通背は自由化して、下り坂に向かっている(このままではダメになる)。あと数年したらもう自分には見分けがつかなくなるだろう」というようなコメントを公然と行い、弟子を取り始めてからも、弟子たちには基礎から学び直すことを求めたという。原文は以下のとおり。
 
新中国成立后,韩鹏尧多次回大连住在其姐家,主要是治病(哮喘)。期间看到大连通背发展状况后,非常吃惊和不满,并在武林界公开讲:大连通背自由化,走下坡路了,再过几年我都不认识了。这在当时对大连通背界震动极大,同时更遭到了通背界传统保守派老人的非议,甚至排挤,这些人表面奈何不了韩,都知道韩鹏尧的厉害,便多次采取变相的方法赶韩出大连,韩鹏尧始终顶着压力,尽全力传播着新的通背风格。1960年,韩鹏尧正式收徒

 

教拳,但学员必须做到换汤换药,从头学习。
 
(注2)この結果は、1929年の杭州国術遊芸大会で中央国術館の若手選手がベテラン武術家を打ち負かしてしまったのと似ている。

 

 

tieba.baidu.com

 
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長沙県国術館長に任じ、長沙における修剣痴に付き従ったという王之和については、雲南の『玉渓武術網』に詳しい紹介がある。それによると、彼も韓鵬堯と同じく山東の人で、幼い頃から弾腿、査拳や少林諸技を学び、1914年(12歳前後)天津に出て伝統刺繍の技術を学ぶ傍ら形意拳を学び、その後1920年ごろに大連を訪れ修剣痴に師事。さらに河北を訪れて修剣痴の兄弟子の劉智に学び、再び戻った天津で(この頃、沙国政とであう)張策にも学んでいるらしい。
 
李麗久の招きに応じて長沙国術館館長に任じたのは1930年、その後、杭州警察局の武術教官にも任じているようだけれど(1934)、これは短期間だったのだろうか。貴陽で開催された擂台賽には審判として招かれ、そのまま晩年を貴陽ですごしている。中華人民共和国成立後は貴州省武術協会の初代主席に任じている。
 
大連で修剣痴に学んだあと、とある博覧会に伝統刺繍の職人として参加するために来日し、1年ほど日本に滞在しているようで、玉渓武術網の記事には時期について書かれていないものの、王が二十歳の頃(ということは1922前後?)、と書いている記事もある(武林網「修剑痴——五行通背拳创始人」。記事の来源はネット(互聨網)としており、内容の信憑性については疑問も)。このブログとしては、そのあたりの日本との関係も気になるところなので、備忘として残しておいて、いつか機会があれば調べてみたい。
 
上記のとおり、修剣痴や劉智、張策の各師に学んだ彼が晩年集大成したものが「縦横通背」と呼ばれている。
 
〇王之和の伝承者、周錦龍の動画 

 
なお、『玉渓武術網』の記事では、この擂台賽が開催されたのは1939年で、その後日本との戦況の悪化に伴って貴州に留まったと説明しているけれど、林伯原先生の『近代中国における武術の発展』貴州省文史研究館編『黔故談薈』所収の鄭秩威「貴州の第一回比武擂台賽」をもとに、王之和も審判として参加した貴州の最初の比武擂台賽は1947年8月と出ていて、大きな違いがある。
 

〇玉渓武術網から艾山「纵横通臂拳创始人 王之和」。息子の王亜夫の写真も見える。細かく確認していないけれど、同じと思われる文章が「沙国政武術館」のサイトにも「重要先輩」の項に転載されている。

玉溪武术网 王之和

 

〇その他参考情報

www.xzbu.com

〇 王之和   出典:『雲南武術』の「著名武术家王之和」

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  王之和の書“練拳之九歌”  出典:『雲南武術』の「著名武术家王之和」

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王之和の書“练練芸之八法歌訣” 出典:雲南武術』の「著名武术家王之和」

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今回、修剣痴とその門人について、湖南で活動した韓鵬堯と王之和を中心に調べてみてたけれど、これら早期の弟子については、『中国武術人名事典』や『中国武術百科全書』ではきちんと言及されていない。

武術界でよく指摘される、いわゆる「人云亦云」(人の話の受け売り)の典型なのか、両書とも、「王之和」と書くべきところを「王子和」と書いているし(太極拳家の王子和と混同したのか?)、韓鵬堯については名前もでてこない。

その理由は、韓鵬堯が国民党時代の武術教官として不遇のまま亡くなったことに象徴さされるように、彼らが活躍したのが軍閥混戦から国民党の統治、中華人民共和国の建国にまたがる時期にあたり、よくもわるくも国民党や当時の国術館系統と関係を持たざるを得なかったためかもしれない。王之和も、文化大革命の頃は下放され、毛沢東語録にならって武術を再構成することで文革派の批判を躱すといった策略を講じている。

インターネットでさまざまな情報が得られるようになって、こうした人びとの足取りも比較的簡単に情報が得られるようになった。個人の発信する情報は、事実関係の誤認や思い込み、場合によっては意図的な事実変更も含まれているかもしれず、扱いには注意が必要だけれど、そういう資料を通して見えてくる世界もあるのだなあということを、今回の作業を通じて強く感じた。

 

〇『中国武術人名辞典』の修剣痴の項 

 『中国武術百科全書』の説明も大同小異

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また、何鍵時代の湖南省には、修剣痴一門のほかにも、各地から武術家が招かれているので、このあたりも改めて確認してみたら面白そうだけれど、そこは今後の課題に。