中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

自貢の塩、杜心五、藤黒子など

清代から盛んになる四川省における塩田開発のことを以前にメモしたけれど、杜心五の伝記(賀懋華『大侠杜心五伝奇』)を読んでいたら、彼が最初に保鏢を務めるのは、九溪の富商・郝剣鳴が四川省に私塩の買い付けにゆく際に依頼を受けてのことだと書かれていた。同書によると、杜心五は、湘西では塩がとれず、ひとびとは便所で便器にたまる「尿碱」を削って煮詰めて硝塩を作って代用しているのをしのびなく思っており、母親の反対を押し切ってこの同行を引き受けたのだという(注)。

依頼者の郝剣鳴は幇会のメンバーでもあり、杜心五はこの旅の途中で郝を紹介者として洪門の一員になっている。買い付けの目的地は、「自貢市」で、途中、奇しくも「自貢」の塩商「王七老爺」の息子の王锦棠とその妹が賊に絡まれているところを救い、自貢に到着後は二人の紹介もあり、スムーズに塩の入手に成功、帰路も王氏の「王積善堂」の旗印を掲げて、四川省内の移動をスムーズに進める。(湖南省にはいったところで、ひと騒動があり、賊の首をはね、賊の砦を焼き払っている。)

自貢の洪門のボス・劉舵把主が実は杜心五の父親・杜佳珍(清軍の督司、1859年に大沾口で英仏の連合軍との闘いに参加していたという)のかつての部下で清軍で千総を務めた人物であったなどとされる。

 このあたり、すべて事実であるならとても興味深いのだけれど、全般的に小説的な誇張も多いような気がして、どこまで信頼してよいのかはよくわからない。この四川省への旅と幇会への入会は同書によれば1883年(光緒九年)から1884年にかけてのことだけれど、そもそも自貢市というのは、自流井と貢井という2つの古い町が1939年に合併して、頭文字をとって「自貢」という名になったはずなので、このときにはまだ「自貢」という地名はないはず。それはよいとしても、この四川行きの当時、杜心五はまだ14歳から15歳のはずで、実際に本にもそのとおり書かれているのだけれど、14,5歳の少年が、その腕前を見込まれて密輸商人の買い付けの護送をつとめて、賊の首をはねてその賊の砦を焼き払うなんてことが、本当にありえるんだろうか。(この一回の旅だけで、ほかにも賊や官兵との遭遇が何度もある。)

まだ1割ぐらいしか読み終わっていないけれど、ちょっといやな予感がしてきた。(途中で読むのをやめてしまった李堯臣の伝記と同じ感じがする。)

 

気をとりなおして、改めて『少林拳術秘訣』を見てみると、第十章で紹介される3人の「道咸以来南方の」技撃家3名のうち、三原の高氏と知り合う李鏡源は湖北省夏口の人で父が材木商を営む人物で、沔陽を訪れた際に、技撃家でありながら沔では煙商として知られていた高氏の教えを受けたあと、高氏の紹介によって三原の某寺でさらに研鑽を重ねる。

二人目の藤黒子は湘(湖南)・麻陽の人で、操舟業を営んでいる。腕のたつ任侠はだの人らしく材木の輸送をめぐる湖南人と四川人の対立を仲介するエピソードが紹介されている。

三人目の胡氏は黔(貴州)・黎平の人で、胡氏は商業を営む裕福な家庭の出身とされている。

いずれも華中から内陸部への商業の担い手であることがわかって興味深い。同書に出てくるほかの例では、安徽・浙江派の張松溪が出会う江西派の名人である熊氏は、青年時、商いに従事して四川・陝西間を歩き、漢中で一人の道士と出会い弟子になったともいう。

胡氏にまつわるエピソードの中には、四川の塩商が入門を希望してきたのに対し、人格に問題ありとみた胡氏が入門を拒否したというものもあることにも気づく。

 杜心五の伝記をこれから気長に読み進めながら、この時代のこの地域の出来事を、もう少し深掘りしてみたい。

 

(注)

便所でバクテリアアンモニアを分解すると硝酸ができる働きは、火薬の原料としての硝石の国産化でも利用されていたらしい。以下のようなサイトが参考になる。これはこれで面白いテーマになりそう。

火薬と鉄砲の日本史

 

〇『大侠杜心五伝奇』の書評 キンドル版をアマゾンで購入できる

www.hnread.com

 

〇酒井忠夫『中国民衆と秘密結社』より、清末期の四川省および周辺地域の地図

 左側のページに(右から)自流井、貢井とあるのが現在の自貢市。

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