中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

邱海洋「电影《师父》:徐浩峰对师徒制的批判」など

全日本剣道連盟居合道部の昇段審査の金銭授受問題に関して、スポーツ人類学の田辺元氏の書いた文章が興味深かった。

 

synodos.jp

 

この文章をヒントに中国武術のことを考えてみたときに、

中国武術において「入門」とは、ある学習者が、身内のもの、すなわち門人と認められる段階にすぎず、本格的な技術の習得はそこからはじまるものだと思うけれど、だとしたら、日本の武道におけるような「相伝権」のようなものは、どの段階で議論になるのか…という疑問が沸いてきた。

その疑問を抱いていたら、『中国武学』(未見)の著者・邱海洋が、徐浩峰の映画『師父』によせて書いた「电影《师父》:徐浩峰对师徒制的批判 」が目にとまった。その文章では以下のように書かれていた。以下の日本語部分は、検討のための超意訳。

 

…武林の規則によれば、徒弟は門人、弟子、入室弟子、伝承者に分類される。師匠は武術を表面と中身にわけるが、表面とは套路、中身とは使い方(技撃精華)のことをいう。「学生」には套路だけを教え、門人でなければ使い方は教えない。拝師の礼をしたあとは、門人と認められるが、技が相当上達したあとでなければ入室弟子とは認められない。入室弟子になると、技が上達しているだけでなく、師匠に対して、より大きな分担を伴う。それはたとえば、師弟の練功を指導したり、道場の運営に協力したり、師匠にかわりに公の場に出たり、師匠の生活の面倒を見たりすることである。伝承者と認められるのは普通は一人か二人で、流派の武術を広く伝える責任を負う。

 

…按照武林規矩,徒弟有類別區分,分為:門內人、登堂弟子、入室弟子和衣缽傳人。師父會將武術分為皮子和瓤子,皮子即套路表演,瓤子即技擊精華。只將皮子教學生,瓤子非門裡徒弟不傳。拜師後只能算是門內人,武技有相當的進步之後,才能成為登堂弟子。至於入室弟子,不僅功夫精進,還需擔當大任,要對師門有更大的承擔與付出,如指導師弟練功,協助打理武館事務,代師父出場,照顧師父起居飲食等。最後,能稱得上衣缽傳人的,一般只有一兩個,擔負著傳承本門武功,發揚光大的重擔。

http://blog.sina.com.cn/s/blog_158ab00ec0102wv9j.html

この段階では、まだ「相伝権」についての言及はないけれど、学生と門人の区別、門人の中での段階・序列が紹介されていて興味深い。「相伝権」については以下のような記述が興味深い。 

 

…徒弟が師匠にだまって弟子をとるのを制限するには暗黙のルールがある。たとえば、「拝師帖」は師匠が自分の手元に保存しており、師匠が存命の間は、師匠の了解を得なければ徒弟は勝手に弟子をとることができない。師匠が「拝師帖」を本人に返すのは、破門されたときか、功がなって自分で門戸をたててよいと認めらたときで、後者の場合には師匠は「拝師帖」に、その旨を証する文言を書き加える。師匠が「拝師帖」を返してくれなければ、徒弟はいつまでも弟子をとることができない。

 

…限制徒弟收徒還有一些潛規則,比如,徒弟拜師帖子由師父保存,師父在世,徒弟若不經師父允許便不能收徒。在兩種情況下,師父會將帖子還給弟子:一是解除師徒關係;二是徒弟的功夫已經練成了,可以自立門戶,師父會在帖子上寫一些認證的話。師父若總也不將帖子還給徒弟,徒弟便總也不能自行收徒。

http://blog.sina.com.cn/s/blog_158ab00ec0102wv9j.html

 

『師父』のみならず、徐浩峰の映画や小説では、武術家の師弟関係はかなりドライに、批判的に描かれていて、師匠役は人格者ではなく、より才能がある若者を見つけたら、簡単に昔の弟子を捨てるような冷酷な人物として描かれることが多い。捨てられた弟子の方も、容赦なく自分を捨てた師匠に復讐しようとする。

 

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邱海洋の文章では、続けて、そのような師弟関係の在り方を、 王薌齋、ブルース・リーが痛烈に批判したことが記される。邱海洋が記す王薌齋の批判のポイントは以下のとおり。

王薌齋が批判したのは以下のような状況である。すなわち;

一、拝師する前は、「拝師しなければ本当のことが学べない」という不安があるが、拝師しても結局本当のものが学べない;

二、師匠が保守的で「学生」には本当のことを教えなかったり、学生によって教え方を変える;

三、そもそも師匠がたいした技を身につけておらず、いわゆる「秘技」、「絶技」はハッタリで、大した価値がない;

四、拝師すると尊卑の序列ができて、対等に議論することができなくなる。ましてや師匠に反論することなど許されない。師弟関係は学問から離れて人間関係、物質的利益に流される;

五、師伝から門派がうまれ、門派から派閥が生じる。派閥の違いからさまざまな理論がうまれてしまい、そのような状況ではいつまでたっても拳道の真の意味が明らかにならず、害が大きい;

六、本来、師匠は身につけた学術の偉大さによって尊厳を得るはずで、ただ跪き頭を垂れることが求められるだけで、何も得るところがないのであれば、どうして師と呼べようか;

 

王薌齋抨擊了這樣幾種情況:其一,不拜師,擔心學不到真東西,「難得其秘」;拜了師,結果也沒學到真東西;其二,老師甚密其技,於「門牆之內」搞封鎖,不教學生真東西,或者對學生區別對待,遮遮掩掩;其三,老師本來就沒多少真東西,所謂的密技、絕技,不過是故弄玄虛而已,並無多大價值;其四,一旦拜師,尊卑有別,無法平等討論,更不能辯駁師父,師徒關係脫離了學問,流於人情俗套,物質利益;其五,由師承而成門戶,由門戶而成派別,由派別之分岐而至學理之龐雜,如此則拳道真義將永無昌明之日,危害巨大。其六,因為學術偉大,才有對老師的尊重,如果只是向師父磕頭下跪,即使「叩頭三千,呼師八百」,於學術無所得,老師又怎能成其為師呢?究不知其師之所在也。

 

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このような師弟関係や流派の閉鎖性については、王薌齋やブルース・リーのみならず一時は広く認識されていたはずで、だからこそ師弟関係や流派そのものが不要であるといった議論もなされていたようにも思われる。蔡龍雲も指摘しているけれど、中華人民共和国の建国初期の「発掘調査」を通して賀龍が目指していたのも、民間の武術からエッセンスを抽出して、特定の流派によらない武術を作ることであって、文革後の「発掘調査」のような民間流派の生存状況の確認と保護ではなかった。

 建国初期、「拝師帖」を送るなど、正式な手続きを経て弟子になりたいという教え子たちの要望に対して、呉斌楼が「もうそういう時代じゃない。私が弟子といえば弟子なんだよ。努力していれば何でも教えてやるよ」(かなり意訳)と応じたというお話が『北京武林軼事』に書いてあったのも(注)、そのような議論を踏まえてのことかもしれないと思うし、建国初期の武術行政を担った人々の中には、同じように徒弟制の問題を認識していた人がいたのではないかと思う。そして、そのことによって継承者が誰なのかわからなくなってしまったものがあるのではないかという気がする。

 

blog.sina.com.cn

 

 この文章を読んで、邱海洋の『中国武学』にちょっと興味がでてきたけれど、結構いいお値段なのでいまのところ購入の予定は無し。

 

news.china.com.cn

 

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なお、このメモでは、かつての徒弟制のあり方の問題点にばかり焦点があたってしまったけれど、おそらく師弟関係のあり方は地域や流派、世代によっても違っていただろうし、特定の流派の中にいない人間としてはよくわからないことの方が多いので、伝統的な師弟関係のよい点も含めて検討してゆきたい。

 

(注)正確には以下のとおり。

五十年代末期,吴斌搂陆续收了十来名初中生为徒弟。

旧武林学武投师要叩头递帖,大摆筵席,举行拜师礼。可是
这十来名弟子却只一鞠躬了事。徒弟们不解地问他:“是不
是我们不算您的徒弟?”吴斌楼严肃地说,自打一解放,我
收徒就不搞叩头请客那ー套。你尊我为师,我认你作徒,只
要你用功练,什么我都救。”

徒弟却总想多孝敬老师一点,以表寸心。吴斌楼执意不
允。他长期孤身生活,没有其他经济来源,但每月只收徒弟
2元学费。对出成绩可造就的徒弟,他还免费教授,以资鼓
励。1961年,学艺的9名弟子中,他就对5名实行了免费。

『北京武林軼事』所収 張大為、鐘海明「花鞭呉斌楼伝奇」P.250

 

 

 

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