少林寺の中華人民共和国国旗掲揚 など
嵩山少林寺で中華人民共和国の国旗が掲げられたというニュースが流れてきた。
日本でも、NHKなどでさっそく報道されている。
このような事態は少林寺の創建以来異例のことであり、世俗権力に擦り寄っているという批判もあるようだけれど、そもそも少林寺が有名になったのは、唐の建国を助けたのがきっかけだし、元代に少林寺が「中興」するのも、フビライが雪庭福裕を少林寺の住持に任命したことによっていたり、倭寇の時代には明の求めに応じて緊那羅に化装した僧兵が加勢したりで、少林寺と歴代王朝との関係は、必ずしも悪くなかったように感じられる。
清朝は異民族統治で、少林寺を弾圧したなどといわれることもあるけれど、清王朝も已然として少林寺を重視していたことは、嵩山少林寺の公式サイトにある「皇家寺院少林寺」という文章からもうかがえる。同じ趣旨の記述は、同じく公式サイト内の「历史上皇室对少林寺的保护」という文章にも見られる。
以下は、「皇家寺院少林寺」からの一部引用。
清王朝时期,虽然少林寺的地位大不如前,但从清初对少林寺的修建来看,仍然对少林寺十分重视。清初海宽禅师,也受到了清王朝的“钦命”,康熙皇帝为少林寺亲书匾额。雍正皇帝虽对少林寺不满,但也出巨资重修少林寺。乾隆皇帝巡游少林寺,写诗题匾,并敕令大修寺院。清代县府所设的主管全县僧人的僧会司,也是由少林寺僧人担任。
清王朝时期对嵩山圣地以及少林寺的保护和管理虽不及元代,但帝王的不断祭祀和修缮,可以证明这一时期对嵩山及少林寺的保护和管理也是很严格的。如顺治时期,依旧制给“海宽”以“钦命住持”之衔,并修复了因战争损坏的殿堂。乾隆皇帝也曾巡幸少林寺,在寺院吟诗书匾,并大修了几个殿堂。
これらの文章のように、まさに少林寺は「皇家寺院」だったと考えれば、少林寺が中華人民共和国の宗教政策に、模範生として忠実に従ってみせることも別に驚くにはあたらないのかもしれない。
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清朝が少林寺を弾圧したという説に関していえば、そもそも、少林寺は少数民族である鮮卑の北魏のときに建てられていることや、少林僧が建国を助けた唐の李氏も鮮卑系と言われていること、モンゴル民族の元のときに少林寺が「中興」したことも上に見たとおりで、これらの点からも、清王朝が満州族による異民族統治だったから少林寺を弾圧したという説はあまり説得力がないように思える。もし、清朝が少林寺の武術を制限したり、少林寺の活動を警戒していたのだとしたら、異民族支配とは別の理由があるように思われる。
その理由について、釈永信方丈は、『少林功夫』などで、少林寺が六度にわたって明の倭寇対策に協力した、(武術習練の伝統を踏まえた)明王朝との繋がりを示唆している。
他方、清代には匪賊が嵩山一帯に潜伏するケースもあったようで、たとえば鈴木中正『中国史における革命と宗教』によると、嘉慶十八年の天理教(八卦教)反乱の反徒中、「第二級の要人であった劉玉隴及び彼と関係のあった連中は金鐘罩の拳術を習い、河南の少林寺に出入りし、一方で私塩販売にもかかわっていた」という(注)。同書ではさらに別の箇所で、乾隆四年の河南巡撫雅尓図の奏文によりながら、「湖南・山東・河南などには常に邪教が流行するが、特に河南の民はこれに染まり易く、遊棍僧道が治病の呪符に名をかり医を行なうと称し、焼香・礼斗・拝懴・念経などを行なわせてその教えに帰依せしめるが、一方、黄河以南の山地には奸徒が潜伏し易く、山居の人民は護身の武器をもち、青少年は強悍で、少林寺の僧徒は拳棒を習うという名目で無頼を集めるが、邪教の人は専心これらの人びとを惑わして入夥させるというのである。これは治病・祈福・消災を求める宗教派が、少林寺の僧徒から拳棒を習う黄河以南の山地の武力派を組織の中に引き入れていたことを明示するものである。僧徒の中には拳棒に優れ、各地に転々として武術を伝え、中には護身術として広めるのでなく盗賊集団お抱えの拳棒教師となるようなものもあり、少林寺の僧はその最たるものであった」(P.205)とも記しており、少林寺や嵩山一帯は盗賊集団が潜伏する場所となっていて、清朝は単純に治安維持の観点から、こうした活動を取り締まろうとしただけのようにも見える。
いずれにしても、少林寺にはいろんな人びとが出入りしていたようで、「皇家寺院」という説明には納まりきらないようなので、このあたりについては、できればいろいろな一次史料(注2)によりながら、もう少しきちんと調べてみたい。
(注1)
鈴木中正『中国史における革命と宗教』P.211に『那文毅公奏議』によって以下のように記す。本文の引用箇所を少し長めに引用しておくと以下のとおり。
・・・例えば、反徒中の第二級の要人であった劉玉隴及び彼と関係のあった連中は金鐘罩の拳術を習い、河南の少林寺に出入りし、一方で私塩販売にもかかわっていたが、反面、彼は坐功運気によって元神を出し、過去・未来の事を知ると称し、彼に学ぶ者頗る多く、焼香叩頭する門徒に対し、「是道由心学、心向家伝、香焚玉爐」云々の口訣を授け、「真空家郷、無生父母、現在如来、我祖速至」という四句を念ぜしめ、各人に毎月小礼銭三十文、毎季に大礼銭五百文を納せしめ、その教は自称では如意門といったが、外部からは在裏(教)と呼ばれたという。
(注2)
清代の上奏文などは、一部が周偉良『中国武術史 参考資料選編』にでているほか、『那文毅公奏議』などは調べようと思ったらネット上でも原文を検索できるような環境が整いつつあるけれど、いかんせん集中して読み込む時間がない。
〇中国における仏教経典の意図的な語訳について