中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

張宝瑞編『北京武林軼事』

1989年から1990年にかけて、北京体育学院に留学中に、何となく買った本。
当時はこんな本を読む語学力などなかったものの、たまたま部屋に遊びに来てくれた担任の呂先生が「おっ、いい本読んでるじゃないか」といってくれたのがうれしくて、留学時代の思い出の書として、大切に「保存」していた。

最近、馬明達「民族大节 不容含糊 ――抗战胜利五十六周年纪念日感言」のなかでこの本に言及されていることを知り、購入からかなりの年月を経て、購入から実に27年目にして、今回はじめて読んでみた。

内容は、北京に多少ともゆかりのある武術家について、編者の張宝瑞(注)をはじめ、複数の執筆者が書いた短文をまとめたもので、紹介されている武術家の弟子など関係者による回想文から、短編の武侠小説と思われるものまで、玉石混交だった。このブログの観点から興味深いと思った内容について、いくつかメモ。

 

注:新華社北京支社の「総編集」などを歴任。武侠小説家として「京都武林長巻」などの作品があるらしい。

 

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1.李天驥(趙新華「武壇耕耘五十秋 記武術家李天驥」
 李天驥の項では、1961年に、訪中した日本太極拳協会会長・古井喜実が、李天驥の太極拳の動作を録画して持ち帰った(注1)とかいてあった。
 古井善実はその後も訪中のたびに指導を李天驥の指導を受けたのだという。
 国交回復前に、貿易交渉のために訪中した日本側の議員が、交渉のあとに太極拳の指導を受けるということをどう理解したらよいのかわからないけれど(これも周恩来一流の人心掌握術ということなんだろうか?)それはさておき、そういった映像資料が実在して、いまもどこかに眠っているのだとしたら、ぜひ公開してほしいものだと思う。

 

 なお、この本の文章では、上記のとおり、李天太極拳日本太極拳協会会長である古井善実に教えたのは、1961年とかかれているのだけれど、こちらのサイトにあるインタビューで、永富博道は、日本太極拳協会の設立は1963年、と答えている(注2)。
 気になって調べてみたら、『人民中国』の記事では、日本太極拳協会の設立は1968年、李自力老師による論文では、楊名時の著書によりつつ、1969年となっていた。

 そこで、永富博道が翻訳した黄耐之『古伝太極拳』を地元の図書館まで借りにいったら、そこによせた前書きでは永富は「昭和四十一年の春、元厚生労働大臣古井喜実氏を会長とする日本太極拳協会の設立に参加」(P.6)と書いており、さきのインタビューとずれている。この本の著者、黄耐之も「昭和四十一年の春、元厚生労働大臣・古井喜美先生のご要望により、永富博道さんといっしょに「日本太極拳協会」を設立しました」(P.1)と書いている。

なんだかもう、どうでもよくなってきた(笑)

永富博道訳・黄耐之著『古伝太極拳 

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注1

原文「1961年、日本太极拳协会理事长古井喜实先生一行再次来中国学习,并且把李天骥的武术示范动作拍成电影,带回日本。」P.342

 

注2

戦犯釈放後は東京に戻ってきました。収容所で私が太極拳を習っていたのを知っている古井喜美という前の厚生大臣から太極拳を教えてくれるように依頼がありました。お寺の敷地内で、何人かの人に教えるようになりました。それから日本太極拳協会を一九六三年に設立しました。私自身の活動期間は長くありませんでしたが、武道家や剣術家が興味をもって私のところへ来たものです。現在の日本太極拳協会の前身です。

永富博道さん | 日華事変と山西省 より

 

2.馬礼堂(執筆者の記載なし「馬礼堂与武術」))
 中国駐在当時に地元の図書館にあった建国前の国術関係の雑誌記事のなかに、国術の改革を訴える志然、馬歩周といった人の書いた文章がいくつかあり、面白いと思っていた。
 たとえば、志然名義のこのようなタイトルの文章。ここでは保守的な拳師をシラミに例えている。

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 今回、この本の馬礼堂の項目を読んで、馬歩周とは馬礼堂の本名であり、かつ志然は彼のペンネームであること(つまり、馬歩周、志然、馬礼堂は同一人物)、彼は中国共産党の地下活動に従事していたことを知って驚いた。

 日中戦争期に「出関殺敵救国団」を組織し抗日を呼びかけたことがきっかけで北京にいられなくなり(注)、山東国術館教務長の田鎮峰(かれもまた地下党員らしい)のところに身を寄せ、山東国術館の『求是月刊』などを舞台に引き続き活動を行ったようだ。

 1940年に、国民党の反共運動の高まりのなかで投獄されるが、旧政協会議での毛沢東の要求により1946年4月に恩赦を受ける。恩赦を受けてからも、鄭州では陳泮嶺の河南省国術館の権威に対抗して劉舜臣、張海峰、陸文南らと「中州国術研究社」を組織し、温敬銘らの支持も得ながらこれに対抗したり(温敬銘、趙振堯や陳照丕らがこれを支持したらしい)、南京に乗り込んで一貫道の幹部でもある八卦掌の孫錫堃に対抗したというエピソードが紹介されている。

 建国後は、中医の専門家として活躍していたようだけれど、毛沢東の政敵である彭 徳懐の治療に関わったことが原因で故郷の河間で蟄居を強いられ、社会復帰したころには80代の老人になっていた・・・という説明が悲しい。

 

 『求是月刊』を中心に繰り広げられたという国術改革運動の中身については、断片的な情報があるだけでまだよくわからないけれど、「流派」やそれに付随する「輩分」などの考え方を否定し、実用技術(技撃)としての国術は、あくまでも使えるか使えないかが肝要であり、実用技術の習得を制約するしきたりや迷信は排除すべき、ということに主眼が置かれていたように見える。このあたりの確認は今後の課題。

 1950年代の、有名な武術の性質に関する論争に関わったメンバーのなかにも馬歩周の名前が見えるので、中国共産党の武術競技のあり方に、彼の唱えた国術革命の内容も反映されているかもしれない。

・・・と思っていたら、台湾の「武学書館」のウェブサイトに馬歩周・竇奉三の『国術概論』復刻版があるのを見つけたので、とりあえず入手することを決意。

 

 

youtu.be

 

baike.baidu.com

 

(注)
このあたりの前後関係は弟子の王継宏・袁聖熙がまとめた「我们的老师马礼堂」(興味深い内容なのでこのメモの最後に全文をコピペ)の書きぶりと異同がある。
我们~」では、「出関殺敵救国団」を組織したのは 1937年、北京にいられなくなったのは、何梅協定(1935年)によって、蒋介石が日本に妥協したことと結び付けられている。
 
3.燕子李三(「逸人」の「燕子李三智救蒋有良」)

 初期の共産党幹部で武漢で捕らえられ投獄された蒋有良が、同じ獄中で出合った人物が、獄吏には気づかれていないが実は自分こそ燕子李三であると名乗り、蒋の逃亡を手助けした、ということがかかれていた。蒋はその後、再びつかまって処刑される(1927年以後のことらしい)ものの、処刑される前に同郷の蒋国栄にそのエピソードを語り、蒋国栄は同じく同郷の蒋姓の先生にこの話を伝え、それを「逸人」氏が記している。(「逸人」氏は蒋有良の息子の蒋宇健とクラスメートで、そのときの先生が「蒋」先生という間柄らしい。)つまりはかなり不確かな伝聞にすぎないのだけれど、このような逸話が盛り込まれているところが面白いと思った。

 

 ちょっと調べてみたら、いろいろな盗賊が便乗して燕子李三を名乗ったり、関係ない事件が李三と関係づけられたりもしているようだけれど、比較的確かな筋としては、李三は河北省涿州の人・李景華で、1936年1月9日、北平看守所で拘束されているさなかに、長期にわたる阿片の吸引による結核が原因で亡くなっている。

 その燕子李三・李景華に関連して、滄州市の非物質文化遺産の第5次リスト(2015年1月)に「献県軽功」として登録されており、継承者の李二輝という人が《盗侠燕子李三及其轻功揭秘》という本を出しているらしい。

  李景華の弟子として、国民軍に段雲鵬という人がいたらしいけれど、1954年に大陸に潜入して捉えられ、1967年に処刑されているらしい。

 

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関連するテレビ番組

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4.呉斌楼(張大為・鐘海明の「花鞭呉斌楼伝奇」)
 この本の巻頭の写真の中に、1939年に来日した武術家たちがフェリーのなかで撮影したものがある。
 馬明達が言及しているのはこの写真と、それに関連して、呉斌楼の記事。
 まえにもメモしたけれど、呉斌楼らは東亜武道大会にあわせて来日したという劉正の説明が正しければ来日は1940年のはずで、1年のずれがある。
 呉斌楼の記事の執筆者は張大為なので、書きぶりは『武林掌故』と大きな違いはない。(ただし、『武林掌故』の方では、来日時期については断定的な書き方を避けている。なお、張大為も名を連ねている『呉斌楼 脚翻子全書』の「呉斌楼生平」には、来日に関する記事そのものが載っていない。)

なお、その後の調べで、この一行とほぼ同じ時期に、東亜競技大会関西大会参加者として許笑羽を団長とする一行が来日しているらしいことは以前にメモした。

近隣図書館でデジタル資料として閲覧できたのは関西大会の番組表までだったけれど、国会図書館には、東京大会の番組表が閲覧できるらしいので、機会があれば確認してみたい。

 

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5.その他
ちなみに、ほとんど小説のようだと思った内容のなかには、

 雍正帝がお忍びで天台山に来たとき、茶屋の娘が気になって声をかけたが、護衛の二人(ラマ拳の使い手)ともども、軽くあしらわれてしまった。なんとその茶屋の娘は呉英で、北京を追われて身を隠していたのでした・・・
とか、(張宝瑞「雍正帝饱尝“拳羹”」)

 

北京の宣武門天主堂の地下には西洋人の神父が民間の女性を囲っている(張宝瑞「“翠花劉”魔窟奪宝記」)

 

とか、

 

清朝の保守派は康有為の暗殺を企てたが、康有為の屋敷に来た二人は大刀王五とその部下に撃退された。

康有為の屋敷に来た二人は、六合蟷螂拳使いの戴小侠と、劈掛拳使いの崔保善で、康有為の屋敷で死闘が繰り広げられ・・・(張宝瑞「松筠庵康有为脱险」)

 

とか、


雍正帝は、実は武術の使い手で、父親である康熙帝の後継者が決めた後継者(十四王子允禵)をごまかして皇帝の座につき、事実を知る関係者を次々と抹殺した。必殺の武器は血滴子・・・(陳鉄生「呂四娘復仇記」)


などといったもの。ラマ拳の話は複数の箇所で出てきて、義和団に合流して壮絶な死を遂げたラマ拳師がいたという「秘史」を紹介した回(張宝瑞「雍和宮喇嘛血染八里橋」)では、ラマ拳の由来が語られる。清朝の王族のひとたちは、かならず雍和宮でラマ拳を学んだというのだけれど、詳細はよくわからない。
ラマ拳法や「血滴子」といった武器は、70年代のショーブラザース作品ではたくさんとりあげられている模様。

 

 ショーブラザース作品じゃないけど、『血滴子秘史』

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最近では、ピーター・チャン監督も。未見だけと、ちょっと見たくなった。

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 我们的老师马礼堂

南京·王继宏 合肥·袁圣熙
养气功导师、著名中医马礼堂老人,已为气功、武术爱好者所熟悉和敬仰,殊不知早在三十年代马老师就是一位身手不凡、拳理精通、武德高尚的武术家,更是一名力图武术救国,追随共产党多年的老革命。
南北奔走 救国寻真理
马礼堂老师亦名马步周,自幼爱武术,少年时喜好花拳、长拳,稍长从张占魁先生学形意、八卦,又拜形意名家郭云深之高足刘伟祥为师,专攻形意拳,更加刻苦钻研,尤其在技击,散打方面,深得形意拳之真谛。
东北沦陷后,马老师不甘日寇凌辱,隧提倡强种救国之国术革命,在北京西城旧礼王府祠堂,组织华北国术研究会,延聘孙禄堂、尚云祥、刘采臣、王占恒、邓云峰,恒寿山等著名拳师为导师,吸收名大学爱国青年,共同学习,研究强种救国之武术,因此获得中央国术馆长张之江之之支持,书赠“强种救国”四个大字。
何梅协定,蒋介石向日本人妥协,华北变色,马老师在北京不能容身,于是逃往济南,化名志然,住山东省国术馆田镇峰(共产党员)家,助编《求是月刊》,并在山东省立高中教课,青年会教剑术,与田镇峰一起揭起国术革命大旗,曾发表“告北平同伴书”, 当时响应者有杜心武、姜容樵、王子章、贾蕴高、孙伯英、宋铁林、郝家俊、李剑秋、李剑华、徐震、唐豪、于世德等数百人,老师在济南组织了健康实验学社、技击实验学社,以练武强势、散手较技为目的,主张揭穿一切神秘传说,排除师承门派之见,共同研究武术技击之精华,以强健身心,抵御外辱,此举受到一些进步武术家之拥护,如山东省国术馆长窦峰山大力支持,每天接待五湖四海之侠客;现在体委武术处之李天骥由东北回来也积极参加,然而也遭到许多老拳师的反对,于是展开了国术论战,马老师以真挚、热肠、大无畏的侠义精神,号召黄魂重铸,反对国民党不抗日,以黄帝为纪元,与田镇峰在济南四里山下结庐,榜其闾为“铸魂里”,门楣上写“黄魂重铸”门口用洋灰铸字“投机分子滚出去,革命男儿请进来”。马老师在省国术馆组织各县国术馆长训练班、公安局长训练班,创办刊物等,大力宣传爱国主义,抨击蒋介石不抗战,引起国民党中统和军阀山东省主席韩复榘之注意,《求是》、《侠魂》两刊物被封闭。1937年夏,马老师组织出关杀敌救国团,由曹尊贤、刘俊生等率领在龙口登船时被韩复榘特务队扣押,马老师逃出济南。杀敌救国团两次出关失败,所以解放后回京,徐特立老人书浪淘沙相赠:“昔年文武,曾小齐鲁,踏遍关山难伏虎,哀怨至今莫吐!……”当年徐老的亲书一直挂在老师的客厅里的,惜乎十年浩劫中遗失。
卢沟桥炮响,“七七”事变爆发,马老师星夜赶到南京,晋谒周总理,被派往豫北作战地服务工作。抗战八年,马老师奔走于敌后。日寇投降,老师在开封被国民党军统逮捕。旧政协会议上,毛主席提出释放政治犯,老师才由西安特种监狱释放出来,回开封仍被监视,在北士街开诊所维持生活。当时温敬铭、赵振尧等在河南省伪国术馆任职,马老师又发起组织中州国术研究社,还聘请温敬铭、赵振尧、陈照丕等为导师,国术革命的大旗又举起来。
1947年秋,老师与中共豫皖苏区发生联系,1948年由吴之圃主席派往南京与许天民(现在广东省委工作)同做地下工作,我们才得相识。我们几个人爱好武术,学过谭腿、铁砂掌、太极拳,每天清晨到体育场练拳,马老师也在那里活动,他见我们勤学好练,生性淳朴,便以技击实验压服了我们的傲气,并收我等六人为徒,为了早晚学拳方便,让我们搬到校门口36号(原苏联大使馆)他家中居住。
倡导技击 反门派师承
老师一向认为,阻碍武术进步的障碍物是同门中之班辈问题,与吹捧师爷之神秘化。他和我们谈:“形意门中有家谱系统是由刘伟祥、刘德宽、程建华、耿继善几位老前辈,订了金兰谱,将形意、太极、八卦统一起来合为一家,按华、帮、威、武、宪排了班辈,他们四人成立了四民武术社,在地安门路西水神庙由邓云峰负责(邓是耿继善先生之弟子)。老师说他到北京上大学时,首先到四民学社拜邓云峰师兄,有他引荐孙禄堂、尚云祥几位同门老前辈,在四民武术社行了大礼,还要表演一套太极、太极、八卦合一的拳套。解放后四民武术社搬到什刹海旁,由吴子珍继邓来主持,门惠丰就是四民武术社的学生,老师说:由吴子珍教拳,看他却没有门派之见,他不但教形意、太极、八卦,还教六合拳和其他多种拳套,因之门惠丰学了不少拳种,当时老师住在厂桥,公余之暇就到四民武术社和吴子珍研究推手,有时遇到吴图南、扬禹廷、刘文海一些老拳师,老师也会亲热地和他们推手研究并没有彼此胜负、高下之分,更无门派之见。吴子珍让门惠丰称老师为师祖,老师立刻拒绝,还批评吴子珍老封建,老师常说:功夫是练出来的,不是辈大功夫就高,往往有些拳师因为自己辈高自尊心很强,不敢和晚辈在一起练拳推手,更不敢打散手,功夫就丢了。这不是班辈害了他们吗?这话是在南京老师寓所和姜容樵师伯谈的。老师还和姜师伯笑着说:你不教这几个晚辈八卦,不给他们点真东西,他们就不称你为师伯了,姜师伯哈哈大笑。我们的八卦和青萍剑是得之于姜师伯。
《武林》登载了邱万春一篇文章,称老师为形意拳第七代仅有的人物。我们认为他不认识老师,只是道听途说,老师恰恰是反对门派的。
老师一向主张技击实验,我们常听到他和姜容樵师伯谈:武林最坏的风气是互相吹捧,吹师傅如何艺高,师爷能打牛打虎,将国术吹的如封神榜、西游记上的人物一样,这样一来,使后学者望洋兴叹,自暴自弃,危害甚大,就我这个坦克车,走南闯北,揭穿了许多神秘的画皮、你吹老师如何,他死了我见不到,无法领教,你学会了什么,我们可以接手试验,拳打脚踢你随便进着,结果也不过尔尔。许多有名的拳师有损他的威信、有害他的教学,我们不便列举。《求是月刊》上田镇峰写的《雪战归来》就是一个明显的例子。炼成神仙是小说中的虚构,电影、戏剧中可塑造典型,但不能作为事实。老师不但和姜师伯谈,对我们也常如此教育,他说:练武不要怕挨打,不要被吹牛的师傅吓倒,要有实验的精神,挨一次打学会一着,如果遇到高手,让他连发三次手,你就学会了,以你们的桩步和身上的功夫,不发冷手决打不坏你们,要大胆实践才能学出真本领,可是不要打人,要让人服,不要让人怕。
较技让人 武德称典范
我们在南京住在老师家中,姜容樵师伯是常客。每天晚饭后,老师就和姜师伯研究技击之术,接手后此进彼退,此退彼进,粘连粘随,引进落空,上下翻腾,左右旋转、转化如龙,猛扑如虎,式将倒而复起,极尽单鞭下势之能,进退自如、危而复安,白鹤掠翅、进步栽锤、白蛇吐信。姜师引退,老师不脱手而紧追,舍己从人,没有一丝一毫顶撞之处,我们在旁边观阵惊心动魄,姜师以摆莲之式转到老师身后,不期然而然的老师一个大蟒翻身,又绕到姜师伯身后,鏖战半个小时,两人汗如雨滴,气不大喘,姜师伯笑着说:“师弟饶了我吧!真是坦克车,我半生没出过这么大力气,”老师扶着姜师伯在大客厅散步,这是我们重来没见过的技击场面。等姜师伯坐在沙发上吸烟,老师对我们说:研究推手、技击不是打架,要在“随”字上下功夫,不要轻易发劲。要教人服,不要叫人怕,过去刘老师出手则伤人,人称他刘二骠子,所以在形意门中许多人不喜欢他,都知道他是郭云深老先生最得意之弟子,敬而远之,有不少形意拳谱问世,不列上刘伟祥的名字。你们姜师伯比我功夫高的多,他不打我给我引手,教我柔化,他比我大二十多岁,能战这么长时间太不简单了,过去我们常在一起研究,通过实践使你技击本领不能保留,逼得你不能不全力以赴,敌不动我不动,敌微动我先动,气感稍迟一点就失败,这就是我在国术革命中主张的技击实验,所谓差之毫厘,谬之千里,不通过技击实验不能长真功夫,自己亲兄弟在一起总要真拼,不要只在对打拳上下功夫,遇到外人他要拳打脚踢随便进,那你就无法应付了。练拳架子、站桩养内气,大气充满全身就不怕打了,通过松静站立就能获得轻灵,轻灵就能听劲,能听劲就则可以敌不动我不动,敌微动我先动,可以四两拨千斤,可以发出至大至刚不可思议的爆炸力,意到气到,气到力就到,舍己从人,应付自如,对方就服了,用不着吃偏发劲打人,你们姜师伯把我打不出去,因为他年老力衰,这样应付就是功夫,这比伸手将人打倒高出若干倍。我在193年拜杜心武老师,不是被他打倒才拜师,是他吸着我脱不出去我才心悦诚服的拜了老师,你们不要只练刚劲,要多练柔劲,不要学我的发手打人,要学姜师伯的柔化,这才能提高。通过老师的教导,我们更进一步认识了老师的武德玄上。

http://blog.sina.com.cn/s/blog_4c04eb7d0100bz24.html~type=v5_one&lab

 

老师在南京时,因和许天民同志在蒋管区做地工,终日为革命奔走,从各方面找关系,曾到五台山国民党军官训练团,那里有一位武术教官于洪良,年轻力壮,精通内外家拳术,喜欢与人较技,手疾眼快,在轻功上有一些基础,每天练形意、八卦、太极,桩步也不错,初次我们见面演游龙八卦掌,走起趟子来真是行若游龙,落如翻鹰,式子走的很低,使人很难相信是人走,出手疾,发劲猛,他自说:练过铁砂掌,也打伤过一些人,第一次和老师交手,谈吐中很自负,说了许多胜局都是过五关斩六将,因为在军官团较技,耳目众多,都是于的学生,老师不愿使他失掉威信,所以点到示意,未予发手,回来和我们说,于的功夫确实不错,和他接手要精神集中,否则必失败受伤,不几天于又来家拜望,要求再与老师散打,老师欣然应命,接手后,于屡次进着,老师精心应付,鏖战三、四十分钟不分胜负,于走后,老师对我们说:“于君太自负了,没有自知之明,再来时我要指点他一下!”这天是星期天,早八点于君又来,携带礼品,看来是向老师学艺,并不是恶意,我们就放心了,也愿意看老师有什么绝招,为什么两次动手不使出来、这次老师是有意发手了,于君请求到院子里再和老师较量,一再请求老师不要客气,要发坦克车的硬劲,试试他能不能应付,老师说:不要到院子里,天寒地冻怕捙伤了,客厅里周围是沙发,捙不坏。说完伸出右手,于接手后转了两个圈,老师让于进着,于君抬脚向前冲出,两手扑到老师胸前,用的是形意拳虎扑,老师身子一晃,右腿后撤,于君扑空,老师顺手牵羊,看形势于君已触地,他后脚跟以抬起,老师右腿疾出反虎扑,“哼”的一声,于君腾空而起,坐在客厅北端长沙发上捂着肚子说:“我真服了,老师真高!”老师进前在于君胸前抚摸了一会儿,于站起来说不碍事,气顺下去了,老师留于午餐。从此,于君常来研究推手打手,和我们交成了好朋友。
雄文中学蒋校长,喜爱武术,幼年学少林,后学太极,在中央国术馆从黄柏年学过形意,也从孙锡坤学过八卦掌,幕老师之名登门拜访。老师让我们出场,师弟张以民太鲁莽,,定步推手,转了四五圈变成散手,乘蒋校长两臂失圆之时,把蒋校长按倒在地上,老师急忙走过去将蒋校长拉起来,斥责张以民不懂事,要学蒋先生之柔化,引进落空,不许发劲,横冲直撞不是太极推手,以后要注意!又让我们和蒋校长推,老师已明令不许发手,我只得随蒋校长之动作,前进后退,左顾右盼,随高就低,不丢不顶,使蒋校长不感受一点威胁而达到舒筋活血之目的。从此蒋校长引我们为忘年之交,常在一起练太极拳,研究推手。他常称赞老师武德堪称,功夫超群。
1948年在南京白鹭洲练太极拳推手有名的是潘斌,年轻力壮好发手,我们几个人星期天常到那里玩,有时连五行拳,有时也推手,潘斌见我们粘连粘随,谁也发不出谁去,背地和别人议论我们,说不会发劲,瞧不起我们,我们来请示老师,准备和潘斌试一试。老师说你们可以和潘某较技,推手可以,不准发劲,发劲将人打到容易结仇,柔化胜人能交朋友,尽让他们打,他把你打不出去自然就佩服了,我们领会老师的教导,在白鹭洲与潘斌推手,他怎样来我们怎样应付,只有张以民被他扔出去一次,对付我们俩他始终没有办法他说王继宏像泥鳅,无法下手,两臂沉,压力很大,战不到十分钟他就要求休息一会儿,从此我们交成好朋友。他对在场的一些观众说:这就是太极拳的真本领,以柔克刚,像泥鳅一样让你有劲不能发。
老师嫉恶如仇,典型的一例是曾打垮一贯道头子八卦掌名手孙锡坤。孙锡坤在华北各地传道,与日本特务勾结、宣传迷信,说到世界末日,信他们道的人可以不死,盲从者甚多,捐款盖了一所小楼,勾引资本家的妇女、国民党高干的姨太太,白昼宣淫,臭名昭著。老师曾和许老谈:挂上他的桩,南京解放先逮捕他,恰巧雷仲山和汤化府两先生来寓所,邀老师去“拜访”孙锡坤,老师欣然前去,不到正午返回,据汤教授谈,孙锡坤确实功底甚厚,因为乱搞女人底气没有了,所以这次被老师打倒,三年前孙锡坤在开封传一贯道的时候,徐文炳、刘舜臣都曾败在他的手下,所以河南武术界的人对孙估价的很高,这次我想也会与你周旋半个小时,想不到如此之惨,你这一来伤了他的元气,吃药也得养几天。老师又向我们谈,练武不可骄傲,对同道要互相尊重,要养正气,不要搞邪门歪道,否则必败。
诲人不倦 甘为孺子牛
为了筹备我大军渡江前线情报站,马老师与许天民同志在南京废寝忘食地作秘密工作。当时的保护色是筹备医院,常来往者有冯玉祥将军的老参谋长丘山宁、国民政府安若定、殷震夏,中央国术馆长张之江,武术界朱国祯、姜容樵等,白天人来人往络绎不绝,我们尽管开门、倒茶,抽空站桩、单操手。电灯一来,就成了我们的世界,老师当桩,引手、喂手,我们几个人互相打,有时老师也给我们几掌,无不应声而倒,跌出丈外,我们安排的技击实验场捙不坏,碰不伤。老师让我们自己练,告诉我们一个原则,不管任何动作,都要将气领顺,自脚而腿,而腰上至两臂。用手则气贯手指,用头则怒发冲冠,气到力到方为懂劲,不要用猛力,用猛力则僵化,局部的力量究竟有限,必须上下完整一气,力由气发谓之劲,力由局部肌肉发谓之笨力气,告诉我们推手的原则要舍己从人,不是吃偏发劲,能打人者为下乘,能挨打者为上乘,肌肉隆起而硬者为下乘,肉软如棉者为上乘,练武的主要目的是强健身心,做好本职工作,能治病救人,济贫扶危,不要哗众取宠,卖艺求荣。
老师还给我们讲拳经,讲功理功法,熔儒、释、道于一炉,时常到天亮才结束,这种诲人不倦的精神鞭策着我们刻苦练功,努力工作。
老师写了一篇“一月观光话共区”登在李乡朴主办的《老百姓》杂志上,许老又写一篇“中原见闻录”引起了我们几个人参加革命之理想,我们每天送信、找人、接待来宾,许老回来就给我们讲马列主义、共产党政策等,南京解放又介绍我们参加了刘伯承元帅在南京办的军政大学,毕业后我们随军南下;援朝援越我们奔赴前线,想到老师的教导,我们以大无畏的精神痛击侵略者。
1959年我俩分别担任空军部队、成都部队武术代表队队长,参加了在南京召开的全军武术运动会,荣获空军第二名、全军第三名,这与老师的辛勤教导是分不开的。
我们在北京见到老师已经八十多岁的高龄了,精神依然如故,耳不聋,眼不花,牙齿没有掉,说话声如洪钟,步履依然轻捷,他担任了北京大学武协名誉会长,北京市武协顾问,八卦、形意、太极、通臂、戳脚翻子、炮锤协会等顾问,聘书挂满房间,气功方面更是锦旗辉映,文化部、外交部、劳动部、冶金部、水电部、科学院、清华、北大、人大、师大以及黑龙江、武汉、西安、河南、山东、新疆等大大小小有五十多面,由这些表扬材料中,可以看到老师为人民健康又做出了新的贡献。
这就是我们的老师,是我们学习的榜样。
南京·王继宏
合肥·袁盛熙
一九八四年

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