中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

青島紡績会社の罷業事件 海軍陸戦隊の上陸と国術館閉鎖要求(1936.12)

1936年11月、上海で起きたストライキが青島の日系紡績工場に波及し、背後でデモ隊を使嗾している者(上海からの運動員の潜入も)がいると日本側が疑いをかけるなか、市政府側の対応の遅さに業を煮やした日本軍が「邦人保護」を理由に海軍陸戦隊を上陸させ、「罷業ノ黒幕」と疑った「市党部鉄道党部、図書館。新聞社平民報とあわせて、国術館及び市政府財政局第三課長「向宋鼎」私宅に手入れを行って、「党部関係者二名、国術館関係者三名、平民報社長、向宋鼎他二、「ボーイ」二名、計九名」(青島紡績会社の罷業と海軍陸戦隊の揚陸 軍令部)の関係者を拘束するという事態が生じた。

 

〇事件を伝える12月4日の華北日報の記事。

Hua bei ri bao (華北日報) 1936.12.04 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

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 〇陸戦隊上陸に関するアジア歴史資料センターの資料

www.jacar.archives.go.jp

〇向宗(宋)鼎の自宅に手入れが行われたことのわかるページ

 写真の説明はありません。

 

〇青島市長との協議の結果、国術館の処置について合意した部分

「市政府ハ将来国術館員ガ国術本来ノ使命ヲ守リ決シテ排日其ノ他軌道外ノ行動二出デザル様厳重取締ルコト」

画像に含まれている可能性があるもの:テキスト

 

 

その他、上海におけるストライキを含め、前後関係のわかる公文書をまとめた日本側公文書


日本の公文書には国術館関係の拘束者は「三人」とあるだけで名前はでていないけれど、王開文『青島武術研究』には、拘束された関係者として、楊明斎、向宗鼎(九禹)、韓冠洲、李(秘)道生の四人の名前がでており(P.140)、向宗鼎(九禹)(日本側公文書では「向宋鼎」)を含めて4名というのは、日本側公文書の記述と一致する。

 

このうち、「図書館ハ豫テ(共産:引用者補)党部員ノ集会所トセラレ各種策謀ノ根拠地ト認メラレ居リ」とのことだけれど、平民報社社長および向宗鼎科長については、「排日的色彩極メテ濃厚ナルヲ以テ工人ヲ扇動セリトノ理由ニテ此ノ際痛メ付ケ置ク趣旨ナリ」と公文書に出ている。

 

陸戦隊の上陸開始は3日6時。手入れのあと、上記9名は11時頃、直接公安局に引き渡された。(12月3日発第277号)

 

当然、青島市側は主権侵害を主張し、事態収拾に向けての協議がはじまる。

当初、日本側の要求事項には「国術館の閉鎖」が含まれているけれど、これは現場判断の過剰な要求であったのか、外務本省からは事態収拾のための条件は、「解決二必要ナル最小限度ノ範囲二止メ直接事件二関係ナキ事項ハ之ヲ見合スコトトセラレ度シ」との訓電が出ていて(12月7日第156)、「国術館の閉鎖」要求についても「同様ノ疑問」(事件との関係性を欠く、過剰な要求ではないか、との意。引用者注)があることにより、「排日団体タルノ点二付確証ヲ挙ゲ置カレ度」と指示されている。

 

沈鴻烈市長(立場上、国術館館長でもある)との協議の結果、沈市長は

「国術館二付テハ今後館員カ不軌ノ行動二出テサル様取締ルヘク又四方、滄口ノ国術練習所(総計二十数ヶ所ナルカ従来兎角日本人ト問題ヲ起͡コシタルノミナラス今次罷業ノ際各種協議ノ為ノ会合所トナリ又多数ノ罷業者乃至扇動者ヲ出セリ)ハ之ヲ整理シ工場附近ノ練習所ヲ減少方考慮中ト述ヘタリ」

とのことで、日本側は「我方ハ全部閉鎖の主張」としながらも、「右様ノ次第ニテ我方要求各項ハ相当程度容レラルル見込トナレルカ貴電第一五六号御訓令ノ次第モアリ最短期間内二交渉妥協方取計フ筈」と本省に報告している(12月8日 青島発第287号)ので、なんとか閉鎖は逃れていることがわかる。向宗鼎の処置については史料には出てこず、いまのところよくわからない。

 

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この事件に関し、王開文前掲書で本事件について取り上げた個所では、ある日、なんの前触れもなく突然日本の陸戦隊が上陸して、国術館関係者を拘束したとしか読めない記述になっており、このような日本の横暴な態度を理由に、日中戦争勃発後に中国側が青島市を撤退するにあたり、大刀隊が日本人居留民を殺し、紡績工場を爆破したことを正当化するかのような記述になっているのは、陸戦隊上陸に至る過程や、市当局との交渉の過程を考えるとやや公平さを欠く気がする。

少なくとも、当時の国術館は、下部組織の「練習所」の数が急激に拡大していて、会員層も学生から労働者まで多様化しており、会員が徒党を組んで問題を起こす例なども生じていて、国術館がしきりに「武徳」の重要性を訴えていたり、万一事件を起こした場合には、当該練習所所長も責任を逃れないと、注意喚起していたような状況であることは、同書の前半でも紹介されているとおり。

とはいえ、日本側対応も、現場レベルと東京の考え方の違いも、公電から浮き彫りになっている。現場の主張も、行動や要求を正当化するために、最初のうち、労働者の集会に使われていたのは図書館と報告していたのが、いつのまにか国術館になって、国術館の閉鎖要求にすり替わっているようにも読める。

 

このブログとしては、どちらの主張が正しいとか間違っているとか言うつもりはないけれど、中国武術愛好者の日本人としては無視できない事件だと思うので、こういう事件があったということを備忘のため記録しておく。

 

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2020.6.28追記

なお、沈鴻烈は日中戦争後、1946年には浙江省国術館の館長になっている。

彼のように複数の国術館の館長になった人はほかにいるのだろうか。

画像は以下より引用

http://www.zjda.gov.cn/dawf/zpbl/gcmrsz/zzj/

写真の説明はありません。