重慶市の非物質文化遺産
ふと気になって、重慶市の非物質文化遺産について、百度百科のリストから武術に関するものを抜き出してみた。
第一次リスト (2007年)
38
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Ⅵ—1
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中塘向氏武术
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杂技与竞技
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黔江区
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第二次リスト (2009年)
53
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Ⅵ-4
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荣昌缠丝拳 传统体育、游艺与杂技
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荣昌县
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第三次リスト (2011年)
49
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Ⅵ-9
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渝北赵氏武术 传统体育、游艺与杂技
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渝北区
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50
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Ⅵ-10
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江津况氏武术 传统体育、游艺与杂技
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江津区
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51
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Ⅵ-11
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大足梅丝拳 传统体育、游艺与杂技
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大足县
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第四次リスト (2014年)
39
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Ⅵ―12
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复兴贺家拳
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传统体育、
游艺与杂技
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北碚区
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40
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Ⅵ―13
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昆仑太极拳
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江津区
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41
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Ⅵ―14
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蚕门武术
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江津区
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42
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Ⅵ―15
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小洪拳
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荣昌县
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43
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Ⅵ―16
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金家功
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梁平县
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このうち、趙幼生主編『巴渝武術』の纏絲拳は第二次リストの「栄昌纏絲拳」、「賀家拳」と「金家功夫」はそれぞれ第四次リストの「復興賀家拳」にあたるようだけれど、同書の向門拳(北京から来た鏢師の向奎が伝えたもの)と第一次リストの中塘向氏武術とは、名前は似ているものの、来歴などからして全く別もののよう。
また、同書にある「余門南拳」は、以下のサイトでも紹介されている「余家拳」と同じで、「余門拳」としては四川省の簡陽市と成都市でそれぞれ市レベルの非物質文化遺産に認定されているようだけれど、重慶では余氏の余鼎山の弟子・况玉書が伝えた武術が「江津况氏武術」として非物質文化遺産に登録されていることがわかる。 ちなみに、余氏は広東から四川への移民のよう。
〇余家拳
〇余門拳
〇向氏武術の動画
動画によれば、地元の学校の「課間操」に取り入れられたようだけれど、今もこの活動は続いているんだろうか。
渝北趙氏武術は、中央国術館出身の趙子虬(四川省広安県出身)が晩年を過した重慶にに残した武術。中央国術館の張之江館長の家庭教師になったとか、馮玉祥の護衛を勤めたというのは本当なんだろうか。(前者については、少なくとも最近読んだ張之江伝には出てこなかった。)
なお、今回参照した『巴渝武術』主編の趙幼生は趙子虬の子。
〇崑崙太極拳は張三豊を祖とし、なおかつ陳家溝とは無関係であるという。
以下のページの紹介によると、呉偑孚の護衛をしていた王智立(のちに出家して智立禅師になる)が、新疆出身の活仏「提克鲁•呼图克图」から伝えられたのを、義兄弟の江正南、鐘建華に伝えたものという。これって、王智立が作ったものなんじゃないの、というのは独り言。
纏絲とか梅絲とか、はては蚕とか、字面だけ見ていると養蚕と関係がありそうなのが面白い。実際に関係があるのかないのか、誰か調べてみてくれないかなあ。
〇大足梅絲拳
〇重慶のものかわからないけれど、纏絲拳
〇蚕門武術
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ついでに『巴渝武術』を見直していたら、四川武士会の分会が重慶と内江にあったことがわかった。重慶分会は、陳大章、張玉龍、安定邦といった拳師が発起して1923年に背設立され、表演などの活動を行ったという(P.50)。ただし、これらの拳師についての詳しい情報や、具体的な設置場所等は不明。内江分会についても、ネットオークションのサイトに同分会の会員章がでているのを確認しただけで、いまのところ文字情報は無し。
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ところで、四川、重慶あたりでは嘉慶年間の白蓮教の叛乱で、白蓮教の側にも、清軍に強力してそれを鎮圧した各地の自警団(団勇)の側にも、武術があったと思われるけれど、この点について、東洋文庫の『中国民衆叛乱史 3』によると、嘉慶3,4年あたりから団勇が各地で急増し、清朝もこれを育成したといい(P247)、いくつか具体的な記述もでてくる。
達州の武挙人・李遇春は義勇兵を集めて二十余戦を戦い、功を挙げたが、巴州で捕えられ賊は李を大釜で煮たのだという(P.225)。
金峩山の戦いでは、二本の矛を振るう巫女が教軍数十人を殺したが、教軍が左右から突撃してきて官兵は潰走し、この巫女も力尽きて死んだのだという。
こういった史実と、地方の武術の繋がりが見えてくると面白いのになあ、と思う。