中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

馬良「振災武術団」(1921)など

アジア歴史資料センターの公文書より
寺西秀武「青島に於ける張樹元と馬良」(大正十年五月二十六日付の、「九江ヨリ南京ニ下航中(第一報)」の一部)

 

「小生去ル四月二日青島二着シ張樹元ト同宿シ四回張馬両人ト密談ヲ交ヘタリ

右両者ハ表面何等野心無キカ如ク粧ヒ在青島日支両国人ハ概シテ之ヲ信シツツアルモ其実両者ハ依然段祺瑞及盧永祥ヲ推戴シ(張ハ盧ニ傾キ馬ハ段ヲ崇拝シツツアリ)奉直ノ争ニ乗シテ再ビ事ヲ挙クルノ意思ヲ有ス

・・・

馬ハ其旧部下混成第四十七旅全部ト今猶連絡ヲ通シ事アルニ当リテハ其全部ヲ指揮シ得ルナラン(現旅長施従濱ハ純安徽派ニシテ団長以下各将校ハ全部馬良ノ旧部下ナリ)

・・・

馬良支那武術ヲ上海ニ於テ実施スル名義ヲ以テ上海ニ赴キ盧永祥ト連絡スル企図ヲ有セリ

・・・・」

www.jacar.archives.go.jp

 

報告者の寺西秀武は保定の陸軍軍官学堂の総教習や、黎元洪の顧問を歴任。この当時は現役を退いてる。この報告は、奉直両派の対立状況とその中での安徽派の動向等の分析を目的とした調査旅行の報告書の一部で、その知見は実際に第二次直奉戦争などで活かされたようだけれど(注1)、このブログ的にはあまり関係ないので深入りしない。

 

馬良はちょうどこの前年(1920)11月、直皖戦争で安徽派が敗れて以来、病気を口実に軍職を退いて青島に身を潜めている。王開文『青島武術研究』は、馬良とともに、軍士武術伝習所の教官たちが青島に流れてきたことを、青島における武術団体設立のきっかけと位置付けている。

寺西が馬良の話を聞いたのは1921年4月初旬だけれど、実際、馬良は翌5月に、「賑災武術団」を率いて上海を訪れており、途中、4月末に、寺西に告げたとおり杭州の盧永祥のもとを訪れている。

なんだか背後にきな臭い動きがあったことがわかる。

 〇(時事新報), 1921.04.28 「馬良将赴杭籌捐助賑」

Shi shi xin bao (時事新報) 1921.04.28 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

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ちなみに、この「賑災武術団」で大力士として評判をとったのが王子平。22年の10月には馬良とともに上海に拠点を移しており、2年後に開催された「全国武術運動会」を大々的に取り上げた『国技大観』でも、馬良について写真が掲載されており、唐豪による「大力士王子平君略伝」も掲載されている。

 

唐豪は、1919年の済南視察以来、馬良一派とは交流があるが、この賑災武術団では初日、二日目とも冒頭で馬良団長に代わって公演趣旨を演説している。

 

〇「振災武術団表演之第一日」

「九時四十分、京劇演畢、奏軍楽開幕首由唐豪報告宗旨・・・」

Shi shi xin bao (時事新報) 1921.05.11 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 User clipping image

〇(時事新報), 1921.05.13 「振(賑)災武術団継続表演詳情」

「九時半奏楽開幕、仍由唐豪代表馬子貞演説・・・」

Shi shi xin bao (時事新報) 1921.05.13 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

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こう書いてしまうと、唐豪だけが馬良一派と近かったように見えるけれど、そういうわけではなく、上海・南京にはすでに于振聲、楊鴻修らがおり、呉志青の中華武術会その他で武術を教えている。

21年5月の「賑災武術団」と23年5月の全国武術運動会の間の22年12月にも、中華武術会で講演を行っている。

Shi shi xin bao (時事新報) 1922.12.05 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

User clipping image

 

前掲『青島武術研究』巻末の「付録 青島武術大事記」によれば、1920年11月に青島に来た馬良は、22年10月に家族を連れて上海に居を移し、王子平もこれに従って上海に赴いている。

 

なお、馬良が青島市で病気療養を理由に北京政府からの出仕要請を断っていたのは、ドイツから青島市の租借権を引き継いだ日本の租借権が1922年に切れた暁に、青島の要職を狙っていたとの分析もあるけれど(注2)、結局、その役割(膠澳商埠督弁公署督弁)は山東省長の熊柄琦が務めることになると、諦めたかのように北京に移動している。

その意味で、 「賑災武術団」で上海を訪れたときと全国武術運動会で上海を訪れたときとでは、馬良の心中は全く異なっていたといえるかもしれない。

 

なお、余談ながら、寺西の報告の中で馬良の旧部下として名前の出てくる施従濱はのちに軍閥抗争のなかで孫伝芳によって惨殺される。その仇をとって孫伝芳を射殺した、施従濱の娘の施剣翹が、チャン・ツィイーが『グランドマスター』で演じた宮二のモデルだという。

j.people.com.cn

この事件は当時から話題だったようで、時事日報には、施剣翹の孫伝芳射殺の判決文が2回にわたって連載されている。

Shi shi xin bao (時事新報) 1935.12.19 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

Shi shi xin bao (時事新報) 1935.12.20 — Late Qing and Republican-Era Chinese Newspapers

 

 

(注1)

「大正十年五月二十六日九江ヨリ南京ニ下航中(第一報)

一、今回支那旅行ノ主ナル調査目的

a.奉直両派ノ争因(闘争の時機ヲ断定スル必要アルモ支那ノ内争ノ時機ヲ豫想スルハ頗ル困難ニシテ却ッテ誤ヲ来タスコト多キヲ以テ単二争ノ原因ヲ目的トセリ)

b.右両派ノ闘争二際シ安徽派ノ向背及其取ルヘキ行動

c.右両派闘争二際シ各省ノ向背

d.各派及各省ノ実力ノ比較

e.現在二於ケル各派各省ノ連結ト反目

f.国会議員ノ選挙実情

5 大正十年五月二十六日九江ヨリ南京ニ下航中(第一報) 」

 

「…奉直戦争が始まろうとしているさなか、予備役だった寺西秀武陸軍大佐(辛亥革命当時、武官として赴任)は、すぐに段祺瑞に開戦すべしとの電報を送り、一方で奉天に向かい張作霖に対し天津の段祺瑞との協力を勧め、さらに天津に赴いて土肥原賢二と図り馮国璋(ママ)を寝返りさせた。つまり呉佩孚を裏切ったのである。結局、水面下での陸軍の暗躍で第二次奉直戦争は終結した。」

波多野勝『満蒙独立運動』(電子版)。 

なお、文中、馮国璋とあるのは明らかに馮玉祥の誤り。奉直戦争当時、馮国璋はすでに亡くなっている。

(注2)

馬良二対スル風評」より「一部下級支那人間ノ風評」

「日本ハ大正十一年三月迄二山東ノ還附ヲ実行スヘク既二着々諸般ノ準備ヲ為シツツアリ、而シテ還附後青島ハ上海ト同様ノ形式二ヨリ解放サレ鎮護使トシテ馬良カ大将二就任シ警察権ハ鎮護使之レヲ掌握シ警察官吏ハ支那人ヲ以テ充テラルヘシ云々」

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B03041707600、青島民政部政況報告並雑報 第二巻(1-5-3-21_002)(外務省外交史料館)」

 

2021.1.10

記事タイトルを含め、いくつかの場所に振災武術団の上海来訪の時期を1922年と書いていたけれど、1921年に訂正。

 また王子平についての記述の一部を修正。(全国武術運動会のあと上海に残ったという趣旨の記述と、その前年の1922年10月には馬良とともに上海に移っていたという趣旨の記述が混在していた。実際の状況に鑑み、後者に統一。)