中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

峨眉派趙門と太祖拳、営口の起順鏢局、綏遠の得勝鏢局など

1.紅拳、「峨眉派趙門」、太祖拳

少し前に『全球成功夫網』に載っていた安徽省蚌埠の太祖拳についての記事が面白かった。

 

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说起太祖拳,其实是精湛的拳种,属“红拳”,拳术套路和器械套较多,由于传承甚少,为知不多,究其原因还是宣传交流不够,蚌埠的太祖拳系峨嵋派“赵门”拳法,是由上世纪初期由关外营口起顺镖局镖师时忠常40年代初期传入蚌埠的

 

 さらっと書かれているけれど、ここでは蚌埠の太祖拳というのは紅拳の一派で四川につたわった「峨眉派趙門」で、営口の起順鏢局の鏢師・時忠常(山東・歴城の人)によって1940年代に蚌埠に伝わったものだと紹介されている。

 前にメモしたとおり、四川に紅拳をもたらしたのは、『少林拳術秘訣』にもでてくる三原の高氏で、「鷂子高三」こと高占魁のことだと思われる。その「峨眉派趙門」が遼寧は営口の元鏢師を通じて蚌埠に紹介されるというのが面白い。このあたり、どういう繋がりになっているのか、もう少し詳しく知りたいところ。

 

2.営口の起順鏢局

 「每日头条」に転載された営口歴史弁公室史の王琬「高手云集的清代营口镖局」によると、営口の起順鏢局は1884年、直隷静海の人・張起順によって設立されたらしい。

 記事では、『実業之満州』(後述)によりつつ、光緒三十一年(1905年)時点で、営口には23家の鏢局、鏢員367人がおり、一流の鏢局には日昇、福順、全也、二流の鏢局には興順、万成、義州、魁成、永発、永元、順成、順声、興隆、金源、三流の鏢局には福成、魁元合、復興東、匯聚、金城があるとしている。起順はこの分類の中にでてこないけれど、かつてはもっぱら(営口と)北京との間を行き来する、最も有名な鏢局であったらしい。鉄道輸送の興隆と鏢師の高齢化によって、1906年には張静海の長子の張永発が「永発茶館」に改業したということなので、1905年の時点ではすでに経営は左前になっていたのかもしれない。鏢局が店をたたんで茶館になるというのは、会友鏢局の李堯臣が鏢師を引退して「武術茶社」を営んだことと似ているけれど、業界の一つのスタンダードな転職のパターンだったのだろうか。

 時忠常は起順鏢局の閉鎖後、張宗昌の済南の講武堂、馮玉祥の部隊で教官を務めたり、北京、丹泰(江蘇)、上海、雲南、四川などを経て安徽に到り、武術の指導と骨董品の販売を営んでいたという。

 ちなみに、営口と北京を結ぶ起順鏢局に対して、営口から奉天の方にゆくのが日昇、錦州の方にゆくのが福順だという。

 

《实业的满洲》记载,清光绪三十一年(1905年),营口共有镖局23家,局员367人。一流的镖局有日升、福顺、全成;二流的镖局有兴顺、万成、义州、魁成、永发、永元、顺成、顺声、兴隆、金源;三流的镖局有福成、魁元合、复兴东、汇聚、金城等。走奉天的日升、走锦州的福顺,专走北京的起顺是营口最有名的镖局。

https://kknews.cc/zh-cn/history/b9gkq9.html

 

 そういえば、『逝去的武林』で傅昌栄が薛顛と腕試しをしたのも、「関東営口的一家糧店」(P.41)。このことも、営口という土地が、この時期、武術家が集まるところであったことを窺わせる。

 

3.営口のその他の鏢局

 王琬「高手云集的清代营口镖局」には、個人名として、起順鏢局の創始者「神腿」張起順のほかに、徳勝鏢局の鏢師で営口練軍営の武術教官も務めたという栄振武、日昇鏢局で鏢師を務めた李茂春の名前がでてくる。

 このうち、栄振武の伝えた武術は、弟子の趙如川に伝わり、趙の武術は「元功拳」として今に伝わるらしい。

 三代人百年传承“元功拳”- -辽宁新闻,第一时间播报辽沈地区新闻,北国网新闻频道

 

 李茂春については、中国人民政治協商会議天津市委員会文史資料委員会編『近代天津武術家』に、やや物語調の詳しい伝記があるけれど、大連の南山武術研究会で指導していた頃に、日昇鏢局に請われて一度だけ荷物警護の任務を引き受けたことがあったらしい。

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 李茂春の娘の李文貞は中華人民共和国建国初期の剣術の名手。その教え子に遼寧省武術隊の教練を務めた劉幼貞がいて、劉幼貞が育てた選手に張少芸、劉清華がいる。劉清華はのち呉斌に見いだされて北京チームに移籍。劉清華の北京移籍のことは、現代武術競技のエピソードとして、楊祥全『中華人民共和国武術史』にも載っていた。二人とも、現代中国の競技武術界を代表する名選手で剣の名手。こういうところで伝統は受け継がれているようにも見える。

 李茂春を招いた日昇鏢局については今のところ詳しい情報がない。

〇李文貞の「太極十三剣」

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 出典:虎父龙女,武林佳话——李茂春、李文贞父女生平大事记(三)_星武太极_新浪博客

 〇劉幼貞の太極十三剣

v.youku.com

 

  徳勝鏢局という名前の鏢局は一つではなさそう。ネットでざっと調べただけでも、(1)営口の徳勝鏢局のほかに、以下のような情報がヒットした。

(2)八卦掌の梁振蒲が義和団事件後に郷里にもどって開設した徳勝鏢局。北京、保定、徳州あたりで活動。1928年活動停止。

 梁振蒲 - 维基百科,自由的百科全书

(3)上海市地方志弁公室の紹介によると、河南の回民で、上海で「得勝鏢局」を開いた王俊亭が、上海に来る前に北京で総鏢頭を務めていたのが「徳勝鏢局」であるという。上海で王俊亭のあとを引き継いだ甥の王效栄は徳勝鏢局を畳んで徳勝武術社に鞍替え。

 :::: 上海市地方志办公室 上海通网站 上海市地情资料库 上海市的百科全书::::

 ここでいう、北京の「徳勝鏢局」と、八閃翻の李徳川の経歴の中に出てくる「徳勝鏢局」とは同じなのかな?

 八闪翻简介

(4)清の同治年間(1862—1874)に吉林市の郊外・船厰にあったもの。河北省豊南県董各荘の肖家の人が設立したと伝えられる。肖家の三男の肖振傑と、「天罡隊」の宋景堂は義兄弟の契りをかわしており、その宋景堂は以前にメモした山東の農民反乱「黒旗軍」の宋景詩と付き合いがあったので、一時は朝廷による関係者処罰の累は肖家にまで及んだらしい。

清同治年间(1862—1874),吉林船厂有个著名的镖局,即德胜镖局,由河北省丰南县董各庄肖家创办。肖家子弟曾拜少林派十三世和尚玄修为师,学得最精熟的是“地蹚刀”。 

镖局传美名_溪汪_新浪博客

(5)(4)と同じ吉林市で「太極元功」を伝えた常晋卿(1979年没)の祖父は天津の徳勝镖局の名镖局であったという。天津にも徳勝镖局と名乗る镖局があったのか?

 第四代传人

 

www.cstjyg.com

 

(2)と(3)、(4)と(5)あたりは、もしかしたら同じなのかもしれない。

海灯法師の師・朱智涵も師事した呉春の紹介によると、呉春が鏢師を務めていた頃の北京の徳勝鏢局には、(3)の王俊亭がいて、さらに「肖么師」こと肖栄松という「肖」姓の鏢師がいたらしい。四川の中江広福あたりに住んでいたというので、四川方面から北京に貨物を運ぶのを請け負っていたのだろうか。この「肖」氏と、船厰で徳勝鏢局を開いた河北出身の「肖」氏の関係はどうなんだろう。

 巴蜀真人朱智涵道长_近古代时期_玄门之音_道长,朱智涵,真人,巴蜀,

「元功拳」とか「太極元功」とか、似たネーミングが出てくることもなんだか気になる。

 

 後述の綏遠の「得勝鏢局」は、湖北の「得勝鏢局」分局ということなので、上記(3)の上海の「得勝鏢局」とは違う模様で、「徳勝」とか「得勝」というのは、とくに珍しくないだけでなく、好んでつけられる名前だったのかもしれない。

 

 営口の荷物輸送業でも、海路をゆくものは、「船会」といわれ、数家があったらしい。

营口市武术协会副主席杨林的论坛发言:向梅花桩拳前辈学武二、三事(1)_昆仑功夫俱乐部_新浪博客

 

 このあたりも、それぞれもっと丁寧に掘り起こしてゆけば面白い気づきがありそうな気がするけれど、とりあえずは今後のために大枠のところをメモ。

 

4. 『実業の満州』、『中国封建社会の機構 : 帰綏(呼和浩特)における社会集団の実態調査』など

 上記の王琬「高手云集的清代营口镖局」で引用されている『実業之満州』とは、実は坂本箕山辰之助)編集『実業の満州』(明治38年すなわち1905年刊)のことと思われる。『実業の満州』は国会図書館のデジタルコレクションでも公開されていて、239ページに「十一、営口の盗難保険事業」とあり、上記の引用の赤字にした部分に相当する「現今営口には此鏢局二十三戸其局員三百六十七人あり」の記述が確認できるけれど、その他の具体的な記述までは上記のページには記されていない。この本を隅から隅まで見ていけば、あるいは書いてあるのかもしれないけれど、その可能性は低い気もして確認していない。

国立国会図書館デジタルコレクション - 実業の満洲

 

 それにしても、戦前の日本は満州でこんなことまで調査して記録していたのだなあ。

もっと探したらいろんな記録が出てきそうだと思って、国会図書館のデータベースを改めて「鏢」をキーワードに調べてみたら、今堀誠二『中国封建社会の機構 : 帰綏(呼和浩特)における社会集団の実態調査』「第九章 サービス業ギルド」の第四節が「輸送保護の武術師と「鏢局」」と何とも興味深い見出しであることに気付いて、地元の図書館までデジタル版を見に行ってきた。

国立国会図書館デジタルコレクション - 中国封建社会の機構 : 帰綏(呼和浩特)における社会集団の実態調査

 書籍の出版は1955年だけれど、内田直作の書評によると、1944年5月から12月まで現地で行った社会実態調査の成果をまとめたものらしい。帰綏(フフホト)の得勝鏢局はその時点ではすでに活動を停止していたけれど、まだ看板は残っていて、興味をもった今堀誠二が同鏢局の元経理の陳栄祥を紹介され、取材した内容が記されていた。

 下の写真は、「私の希望にまかせて譲られた若ぶりの陳氏の写真」とのこと。馬はどことなくハリボテっぽい気も。こんな写真を名刺がわりに配っていたのだろうか。陳氏は山東出身の武術家の家系で、父親の代から得勝鏢局で鏢師をつとめてきた由。取材時点では、鏢局はすでに廃業して、馬車業を営みつつ、副業として接骨と膏薬を副業としていたという。

 

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出典:今堀誠二『中国封建社会の機構 : 帰綏(呼和浩特)における社会集団の実態調査』

 

最後に、営口を中心にした地図を貼り付け。営口を中心に、天津や天津、大連、瀋陽との位置関係が確認できて、なるほどと思う。 

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安徽の太祖拳をきっかけに調べはじめたら、思わぬところにたどり着いてしまったけれど、それがまた武術史の面白いところでもある。どんどん脱線して風呂敷を広げてゆこう。