中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

陳白塵撰述・佐藤公彦訳『黒旗軍 十九世紀中国の農民戦争』

 

以前から気になっていた掲題の本の、図書館除籍本がアマゾンで安く売られていたので購入してみた。

 

黒旗軍―19世紀中国の農民戦争 (研文選書)

黒旗軍―19世紀中国の農民戦争 (研文選書)

 

 

黒旗軍」といっても、黄飛鴻とも関係のある劉永福の「黒旗軍」ではなく、十九世紀の山東の白蓮教反乱の一部を構成する「黒旗軍」についての本だった点は誤算だったけれど、この黒旗を率いた宋景詩自身も蜂起する前は武術教師・用心棒であり、なおかつ、フフホトに今も伝わる「陰把槍」は、宋景詩が「趙老同」と名を変えてかの地に潜伏して広めたという説があることもわかって、とても興味深かった(注1)。


内容的には、黒旗軍の蜂起から終息に至る過程を、いくつかの段階にわけて、清朝側の公文書、蜂起があった地域に残る口承伝承や農民の子孫へのインタビュー等に基づきながら、多面的に検証したもの。
蜂起軍側だけではなく、蜂起軍と戦った清軍内部の様子(伝統的な満人八旗と漢人官僚が組織した新式軍隊の複雑な関係、イギリス人洋砲部隊の働きぶりも描かれている)、地主が組織した自衛団(民団)などのことも紹介されていて、とても興味深かった(注2)。


この本が日本で翻訳・出版されたのは1987年だけれど、原著の出版は1957年。原著者の前書きや訳者の「解説」を読むと、1950年代に農民反乱の領袖として宋景詩という人物が注目されたのは、実はいろいろ複雑な背景があったことがわかる。端的にいうと、中華民国・国民党がまだ大陸にいた時代に途中まで制作され、中華人民共和国になってから公開された、武訓という人物を題材にした映画『武訓伝』の内容が、封建時代の支配階級に対して妥協的であるとして新政権から批判され、物議をかもすなかで、同じ時期・同じ土地において、武装闘争を貫いた模範的な人物として、宋景詩がクローズアップされたらしい(注3)。


そのせいか、本書のなかで、宋景詩は首尾一貫して封建的な抑圧への武装闘争を企て・指揮した人物とされ、蜂起するまえに地主の用心棒を勤めていたことも、反乱の過程で一度は清朝に帰順することも、深謀遠慮があってのことであり、本心ではなかったと説明される。そのあたりの評価は、政治性が前面に出すぎていて少し割り引いたほうがよい気もするけれど、上記のように、農民蜂起軍、清軍、地主の自警団といったさまざまな立場の武装集団の様子を知る史料として興味深い内容がたくさん含まれているのと、なにより、日本語で読めるのがうれしい。

 

ちなみに、黒旗軍が使った武器の主なものは竹竿槍と刀。纓(ふさ)のついた槍や、ときには石や磚(レンガ)も使ったという(P.245)。そのほか、首領クラスになると、雁翎刀、春秋刀、双手帯(両手で使う大刀の一種)、三叉釵、弓矢など、それぞれ人によって異なる得物を使っていたという(P.246)。部分的には火器と旧式の銃も使ったらしい。

宋景詩の弟の宋景礼が使った竹柄の槍は、一丈七、八尺(一丈=3.2メートル、一尺=32センチで計算すると、5.44メートル~5.76メートル)あり、「手許の方はお碗ぐらいの太さがあった」が、宋景礼がふりまわすと「麺条(うどん)」のようだったという(P.298)。彼はまた、馬上で大刀を自在にふりまわり、鐙のところに身を蔵すことができたともいう(同)。「鐙のところに身を蔵す」技は、ほかの人のところにも出てくるので(たとえばP296の楊殿乙のところ)、馬術の技能として重視されていたのかもしれない。地主の自警団の一つである尚義団(范寨の自衛団)の団長が使った大刀は重さが百二十斤(約60kg)であったといい(P.186)、叛乱軍側の大刀も似たようなものであったのかもしれない。(もっとも、この大刀は「范氏の家祠」に設置されていたものとも読めるので、もともとは儀礼的なもので実際に使うことは想定していなかったかもしれない。それにしても60㎏とは凄い。)

 

 ◎巻頭に紹介された「双手帯」(左)。右は、清側の洋槍隊(天津洋銃隊)が用いた洋銃。

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訳者は武術の専門家ではないので、春秋刀に注をして「長短二刀を春秋刀というのかも知れない、不明」(P.246)などと出てくるところもあるけれど、却って好感が持てる。 

黒旗軍に加わった人物のなかに、少林寺の僧侶を名乗る流れ者の武術家がでてきたり(PP.312-313)、牛腿炮(P.321)とか、八歩赶韉(P.84,321)などの、不思議な技?の名前も出てくる。(「八歩赶韉」について、訳者は「八歩離れたところから馬の下鞍にとびのることか?」(P.321)と注している。)

この本で見る限り、叛乱軍の側にはのちの義和団の「刀槍不入」的な迷信的要素は見られないけれど、清軍の側では、捕まえた叛乱軍の一員を「鎖にかけて屋内におき、かれらがどのようにして鎖をはずして“土遁”するかどうか」を見たりしたのだというので、叛乱軍のなかにはやはり迷信的な要素があったのかもしれない。ちなみに、上にあげた例では、「三日たって部屋に入って見ると三人はまだ鎖にしばられていたので、彼らを死なせた」。なにかのおまじないのためかどうかわからないけれど、この三人は、殺されるにあたり、竹べらを肛門に差し込んで殺されたのだという(PP.114-115)。

 

のちの義和団事件の頃、袁世凱義和団員の方術を試したことが、陳舜臣の『中国の歴史 近・現代篇』に書いてあったのを思い出した(このことは前にもメモした)。

袁世凱は、義和団員は「渾功」を百日訓練すれば、銃弾を避けることができるというが、それをテストしてみようと言い出した。おどろいたことに、このテストを受けようと申し出る者がいたのである。実は毓賢時代にも、そんなテストがあったらしい。射撃手がわざと弾をはすしたようだ。だが、袁世凱は新建陸軍の訓練を受けた射撃兵に、一斉射撃をおこなわせた。テストを受けた義和団員は、一人残らず死んでしまった。 

陳舜臣『中国の歴史 近・現代篇』(一)文庫版 P.245

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宋景詩という人物をどう評価するかは別として、歴史上、当然のことながら農民反乱を指揮した側にも、朝廷や地主に協力してそれを鎮圧した側にも武術家はいる。

たとえば、歴史上有名な中では萇家拳の萇乃周の息子・萇克倹は捻匪(捻軍)の進撃を食い止めたことが地元の県志にも記されているし、陳家溝も、太平天国軍や捻軍の北上を食い止めて郷土を防衛している。中国共産党歴史観によって、封建勢力に武力で対抗した農民反乱側のみが正義であるということにしてしまうと、これらの郷土防衛も、すべて反動勢力ということになってしまう(実際、于志鈞はそのことをもって、陳家溝の拳師たちは両手を農民起義軍の鮮血に浸しているなどと非難している(于志鈞『太極拳史』))けれど、自分にとってはあまり重要ではないので、気にしないでおく。

ただ、孫景詩のように政治的に持ち上げられた人物がいる一方、その存在を否定された人物(当然、武術家も含む)もいたであろうことは留意しておく必要があるし、このブログではできるだけそうしたレッテルを貼ることは避けてゆきたいと思う。

 

◎P.97 「教軍反攻形勢図(咸豊11年六月三日より二十七日に至る状況)」 

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この本とは直接関係はないけれど、日本に視点を移すと、中世日本の村落が武装する理由について、藤木久志は(1)狩猟と害獣駆除、(2)治安維持、(3)縄張り確保の3点を挙げており(『戦国史をみる目』所収「武装する村」「刀狩りをみる目」)、刀狩り以降も、神事のための刀剣、旧家の身分の証としての帯刀、害獣駆除のための鉄砲などの所持は引き続き許されていたのだという。逆にいうと、村々は「つねに武装し自力で日常的な問題解決にあたり、その必要から、戦功者の褒賞や卑怯者の制裁、犠牲者に対する補償、武力を担う若者たちの村政参加、近隣の村むらとの連携と協力、無秩序な暴力の反復を回避するための作法など、さまざまな自律的な法や習俗を生み出していた」(P.225)という。その詳細については、この本には詳しく書かれていなかったので、別の本を読む必要がありそうだけれど、このあたりを勉強しておくと、中国の農村における武装のあり方を考える上でいろいろとヒントが得られそうな気がする。

さらに余談になるけれど、この本でもう一点面白いと思ったのは、一揆を起こした土地の人々の「一揆・徒党は郷土の恥だ」というような感情のあり方(注4)。こういう感情のあり方は、農民反乱が正義と位置づけられているような中国の本だけ読んでいてもなかなか思い浮かばず、参考になった。

 

(注1)
本書の「附録四 趙老同と宋景詩について」参照。

以下の動画で陰把槍を演じている呉秉孝の父親である呉桐は、上記の附録にも名前が出てくる。

ただし、この説は本文のとおり、宋景詩という人物の社会的(政治的)注目が高まっていた時期に出された説で、注意が必要。 

www.youtube.com

逸文武學書館>陰把槍(附VCD) この本は未見。


(注2)

同じ時期の別の農民反乱軍における武術の実例として、林伯原『近代中国における武術の発展』では、太平天国軍と捻軍の例が紹介されている。

 

(注3)
映画『宋景詩』については、youtubeで全編が観賞できる。
なお、武訓は、武装闘争ではなく、教育の普及による農民の地位向上をはかり、学校の建設に務めた。確かに既存勢力と妥協的だったのかもしれないけれど、それ自体何が悪いのか、いまひとつ理解できない。

www.youtu

 

(注4)

  「・・・そういう問題を考えますときに、どうしても思い出さなければいけないことは、(略)「一揆・徒党は郷土の恥だ」という気持ちであります。つい最近、七月十日付(一九八八)の朝日新聞を見ておりましたら、富山県の「魚津の自然と文化を守る市民の会」という、このシンポジウムの母胎みたいな市民の組織が、米騒動発祥の地に記念碑を建てようと、募金運動を起こした。最初は立派な記念の石碑を建てるつもりでスタートしたのに、とうとうその十分の一しかお金が集まらないので、「米騒動発祥の地」という木の柱を建てることで、この運動を打ち切ることにした、という記事があり、その取材の記事が載っておりました。かつて戦時中に、軍隊に行くと、魚津者というのは米騒動を起こした土地の者だということで、白い目で見られ、地元ではいまでも、できればそのことには触れたくないという気持ちがたいへん強い。保守的な土地柄だから、これも止むをえないのか、とありました。

 しかし保守的という言葉は、じつは金沢やよそでも、しばしば聞かれる言葉であります。わたくしは一昨年でしたか、群馬の夏の講演で上州は一揆の国だという話をしたことがあります。一揆というのは、大きな大名がドカンと居る国ではなく、群馬県のように大きな大名が育たなかった国で、上州一揆という一揆のつながり、戦国大名の国では失いかけていた地域の主体性や横の連帯、そういうものが中世の最後まで息づいた国、そういうふうに群馬県を特徴づけることができるんじゃないか、そういう話をしましたら、その後で、「いいことを言ってくれた。われわれは上州一揆なんて言葉を聞くと、何か非常に恥ずかしい思いをしてきた。一揆っていうものは悪いもんだと、ずっとそういうふうに思い込んできた」という話を聞かされました。」

 PP.54-55「一向一揆をどうみるか 一.わたくしにとっての一向一揆

 

戦国史をみる目

戦国史をみる目

 

 

2016.4.3

youtube上の『武訓伝』のリンクを追加。

www.youtube.com