中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

「引進落空」など

王宗岳の打手歌に「引進落空合即出」と出てくることもあり、「引進落空」という言葉は太極拳をやる人の間ではかなり知られているように思われる。
「引進落空」は、人民体育出版社の『中国太極拳辞典』でも、太極拳に特色のある技法として紹介されている。
(『中国武術大辞典』では項目としては取り上げられていない。)

引进落空

太极拳技击功夫。以柔劲引导对方攻来的劲力进入我方的力学结构之中,分散或彻底瓦解掉其威胁,并进而造成对方的失势,形成“自己打自己”的局面,或给我方的反攻创造有利条件。为太极拳鲜明的技击特色。

人民体育出版社『中国太極拳辞典』P.467

 

これに関連して、先日『手臂録』をみていたら、槍の技法の中に「落空」という用語がでてきた。

具体的には、巻二「槍法微言」の中で、相手が槍で攻め込んできたときは、歩法を用いて、相手の力とぶつかることなく、誘い込むようにしてその攻撃を避け(「「穿勾退歩の法」)、そのあと反撃に転じるのに対して、こちらから攻める際に、まず強く打つと見せかけて相手の防御の反応を引き出しておいて、軟らかい技に転じて相手の防御の技をスカしておいて、隙ができたところを別の角度から攻撃する技法に絡んで、「落空」ということばがでてくる。 

未だ「引進落空」という形で綺麗に整理されているわけではいないけれど、相手が攻撃したときの対応として「引進」(注1)、自分から先に攻撃するときの技法として「落空」があり、これらが後世「引進落空」と整理されていったのではないかと思わせる(注2)。両者はともに、「軟以て硬を破る(以軟破硬)」技とも整理されている。

 

ちなみに、この技法は、「槍法微言」では少林僧洪転の「夢縁堂槍法」からの引用という形で紹介されている(「夢縁堂槍法」そのものも、「手臂録」巻末に収録されている)。

詳細は省くけれど、呉殳は「夢縁堂槍法」から、「以軟破硬」のほかにも「借硬用軟」、「借軟用硬」という、剛の技と柔の技を使い分ける方法を紹介しつつ、少林の槍は「専ら剛勁によって勝ちを制するものではない(非専以剛勁制勝者也)」といいきっている。これらの理論が、洪転または少林のオリジナルなのかどうかはわからないけれど(注3)、現在、一般的にいわれる「外家」武術のイメージ、とくに内家の人がいうようなイメージとはかなり異なっていることがわかる。

呉殳は、(程)冲斗が著作の形で公開した少林の技は、冲斗自身の理解を反映して荒々しい技に偏向しており、それは洪転の槍術に見られるような本来の少林の技とちがっていると批判しているけれど、少林の技といえば剛猛なものというイメージが広まった理由の一端は、(程)冲斗の一連の著作にあるのかもしれない。

とはいえ、呉殳も、少林を手放して賞賛しているわけではなく、少林はそもそも槍を理解していないから、槍のなかに棍の技を充当しているといって批判している。このあたりは辞書をひいたり、前後の記述に立ち返ったりして試行錯誤しながらじゃないとなかなか理解できないけれど、多少わかってくると面白い。
『手臂録』のなかで具体的に紹介されている勢法がイメージできると、さらに面白くなってくるんだと思うけれど、いつかそういう日がくることを期待しながら、とりあえず読み続けてみよう。

 

◎最近とりよせた許金中校註『手臂録』と『無隠録』

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◎ 程宗猷(字は冲斗)に関連した以前のメモ

zigzagmax.hatenablog.com

 

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ところで、以上のような「引進落空」と槍法の関係については、今回自分で気がついたような気がしていたのだけれど、手元にある太極拳史関係の本で『手臂録』についてふれているものがないかを改めて調べてみたところ、3~4年前には読んでいるはずの于志鈞『中国伝統武術史』で、同じように洪転の説にふれつつ、「以柔克剛」「以弱勝強」「得機得勢」「引進落空」などの太極拳の重要な原理は、明代の槍法の中に全て含まれている、と述べられていて(P.291)、そこに自分で下線を引いていることに気がついた(汗)。すっかり忘れていたとはいえ、このことが頭の片隅にあったので、『手臂録』を読んでいてこれらの箇所に目が留まったのだろう。

こういう経験をすると、いくら研究書だけ拾い読みして理解したつもりになっていても、それが自分の知識になるためには、やっぱり苦労して古典を読むという過程が必要なことを思い知らされる。頑張れ、俺!

 

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ちなみに、 「剛」と「柔」という言葉に関連しては、CCTVの『探索発現』で、龍泉宝剣の技術を復元した刀匠・周正武に密着したドキュメンタリーが面白かった。

番組の中で、周正武は『北史』の「以柔鉄為脊鋼做刃」を挙げている(注4)。

これは、硬度が異なる二種類の材料(上の引用では「柔鉄」と「鋼」)を組み合わせて用いる、剣の製造(灌鋼法)について述べたもので、周正武によると「剛柔相済」ということばは、これに由来するのだという(動画の中では2/3に出てくる)。(こういうことは日本刀に詳しい人には常識なんだろうか。)このことばなども、剛と柔、就中「柔」という概念が、内家拳の専売特許というよりは、武具の製造のながい歴史を通して、中国武術の共通の土台として形成されてきたことをよく表している気がする。

 

  

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(注1)

「引進」という言葉はないけれど、「俟彼進深」という言葉が見られる。

(注2)

『手臂録』では、このように、二通りの技法を四文字熟語のように表していることがある。ほかの例でいうと、防御の際の要訣として「見肉分槍」、攻撃の際の要訣として「貼杆深入」があり、両者をあわせて「見肉貼杆」といっていることが挙げられる(「閃賺顛提説」)。この四文字こそ「心伝」であり、これに一致しないものはまがい物(偽学)である、とされる。

(注3)

少なくとも、 「引進」にあたる部分についていえば、『紀效新書』にも全文とりいれられている兪大猷『剣経』の、旧力略過、新力未発の機会を捉えて攻撃するという戦法とも似ている部分があるような気がする。このあたり、もうちょっと詳しく調べていったら面白い気づきがあるかもしれない。

(注4)

ネットで検索した限りでは、「北史」「以柔鉄為脊鋼做刃」そのものズバリの引用箇所は見つけられなかった。