参考資料として買っておいた陳振家『原伝戴氏心意六合拳』の冒頭をぱらぱらと見ていたら、戴魁の頃、益晋染織有限公司が1909年にシーメンスの発電機を導入した際、オーナーの喬殿森がドイツ人の勤勉な働きぶりに関心して工場の管理をまかせることにしたところ、そのドイツ人工場長が始業前と休み時間に体操を導入した。ところが、女工がドイツ式に腰をひねったりお尻を振るのを見慣れないオーナーが県内の武栄華と戴魁に頼んで、ドイツ式の体操のかわりに拳法を教えてもらうことにした、というようなことが書いてあった(P.12)。武栄華は長拳の師傳だということだけれど詳細はいまのところ不明。少林拳系のなにかの流派の師範なのだろう。戴魁はもちろん、戴氏心意六合拳の本家本流。
1909年といえば、天津でようやく中華武士会の前身である軍人会が設立された頃(楊祥全『津門武術』P.26)で、精武体育会もまだ設立されていない。国防や学校教育における身体鍛錬の必要性をようやく知識人が主張し始め、まだ民族体育という言葉すらない時代に(注1)秘伝武術の一部が1,000人もの工場労働者の健康管理に取り入れられたのだとすると、さらっと紹介するにはあまりにも惜しいエピソードだと思った。
山西商人(晋商)の富裕ぶりは以下の動画『晋商』第一集で紹介されている建物の規模を見るだけでも、想像を絶するものだったことがわかるけれど(8分34秒ぐらいに出てくる喬家(広盛鏢局とも関係が深い)は8,700平方メートルの面積に313の部屋があったという)、その経済力と知見(ロシアを通じてヨーロッパとも通じていたようだ)をもってすれば、このような先進的な試みが行われていたとしても不思議ではない気がする。
こういう点を含めて、山西における商業の発達とそれに伴う保鏢業の興隆(それによって多くの武術家の生活が保障されることになり、武術の発展を促した。逆に、鉄道や汽船、為替取引の発展などで保鏢業が不要になると、多くの武術家が失業することになった(注2))など、おおきな歴史的背景を押えておくと、山西武術の発展についての理解が深まるかもしれない。
ほんの少し調べてみるだけでも、喬家の商売が内モンゴルの包頭に大きく関係があったことに対応するように、戴家の広盛鏢局も包頭に「分号」を設けていることがわかり、そういう背景を踏まえると、前掲書の戴魁の紹介で、戴魁が何度も包頭と山西の間を往復していることも納得できる。
以下の小論や、動画を手がかりに少し勉強してみよう。
■「鏢行天下」
山西商人はそれぞれお決まりの鏢局があったようだ。
この映像で紹介れているところによると以下のようになるらしい。
同興公鏢局(王正清) 日昇昌票号の首席鏢局
昌隆鏢局(左二把)
三合鏢局(安家) 常家御用達
広盛鏢局(戴氏心意拳) 喬家御用達
■CCTVのドキュメンタリー「晋商」(全8集)
第一集の後半では、明代以降、山西商人がいかにして塩の販売を政府から手に入れたかを紹介する。国境付近に駐在する軍隊(一時期は120万人にもなったらしい)に物資を調達する仕事を請け負うことにより、「塩引」を取得、塩を転売して利益を得る。
■喬家の歴史については小説、ドラマ『喬家大院』にもなっている(いずれも未見)。
邦訳は上、中、下の三巻あり。
戴氏心意拳の動画
これは応用編なんだろうか。スピードアップすると、翻子拳みたいになっている。
陳振家『原伝戴氏心意六合拳』の付属DVD
(注1)
「民族体育」という言葉自体は、1930年代の「土洋体育之争」の中で、「欧米体育の侵略」からの離脱を唱える程登科がはじめて使った言葉らしい(楊祥全『津門武術』p.277の脚注①)。
(注2)
保鏢業の衰退により失業した武術家たちが、仇教運動や義和団事件、清朝の保守派と改革派、さらには清朝転覆を目指す革命派それぞれの動きに翻弄されてゆく様子を描いたのが徐皓峰の小説『武士会』だった。