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中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

徐皓峰『武士会』

この夏中国で公開されたチェン・カイコーの『道士下山』の原作者であり、自身がメガホンをとった『師父』の公開も近い徐皓峰の小説。 

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 主人公は、李存義をモデルにした形意拳家の李尊吾で、義和団事件に関連して、天津の民間宗教のリーダー・金刀聖母(黄蓮聖母がモデル?)の籠をかついで護衛をつとめたりしたあと、農村に身を隠して拳師をつとめたり、妓楼の番頭を勤めるなど身を落とす(この間、禅でいうところの「悲魔」に見舞われ、武功を失うという一幕がある)といった経歴を辿り、金刀聖母に替わる民衆の宗教指導者として五台山の宗教指導者・普門を尋ねたりしたあと、天津で設立された「天津武士会」の設立に加わってゆく。(このあたり、李存義をモデルにしつつ、いろいろなものが交じり合っている。)

 李尊吾は、あごひげを生やしていて、言葉の調子にも威厳があり、徐皓峰の映画にいつも登場する于承恵をイメージするとしっくりする。

李尊吾が「弟子をとってはいけない、結婚してはならない」、「独行道」という師匠の教えを守っているのは、彼が『逝去的武林』で紹介されている尚雲祥と李仲軒の、輩分を乱すので弟子をとってはいけないというエピソードを思い起こさせる。


厳格なイメージの李尊吾に対し、李の唯一の友である程華安(こちらは程廷華がモデル。物語がはじまる時点で、すでに李尊吾の兄弟弟子で、いまは袂を分かって宣教師になっている沈方壷に殺されている)は、北京の下町に暮らす人々とその下町文化を代表するような、人懐っこくて威張ったところのない人物として描かれている。徐皓峰自身は、この小説の前書きで、程廷華をフーテンの寅さんになぞらえている。寅さんの隣に黄河大侠がいるという、なんという絵ずらだろう。

 

その他の人物についてはそれほどキャラはたっていないものの、程華安の師匠で宮廷の宦官・八卦掌使いの海公公、大刀王五をモデルにした王牛、明代に江南から、戚継光とともに北方守備のために移住させられた兵士たちの子孫(戚家軍の武技を守り伝えている)などがでてきて脇を固める。
 

物語の舞台は義和団事件の前後で、欧米列強の進出によって鉄道や汽船の導入がすすみ、保鏢業によって生計をなりたたせていた武術家たちの多くは生活の基盤を失い、社会に浪人があふれはじめている。

社会にあふれた武術家たちは一時期、民間の反キリスト教運動(義和団運動に発展)などに加わってゆく(清朝も一時はこうした愛国主義運動を支持する)が、それが挫折すると、再び居場所を失い、農村の自衛運動や反清朝の革命勢力清朝内部で満州族からの権力奪取を目論む漢人官僚たちの動きに巻き込まれて(利用されて)ゆく…というお話。

徐皓峰は、武士会は結果として、袁世凱を代表とする北洋軍閥が、日清戦争後に、日本の制度にならって導入した警察組織(そのために、川島芳子の父、川島浪速が迎えられる)を補完して街の治安を維持するために利用されたと考えているようだ。主人公の李尊吾は、こうした政治的利用の動きを嫌って、そこから距離を置こうとする。(あ、ちょっと小説のネタバレになった。)  

この辺の時代設定と武術家のおかれた状況については、以下のインタビューで自ら詳しく語っている。ちょうど『武士会』を読み終わったところでこのインタビューを見つけられたので、理解が深まった気がする。威厳のある武術家が、町内のいさかいの仲介役に狩り出されることもある、という指摘は、彼の別の小説・映画『箭士柳白猿』のヒントにもなっているようで、その意味でも興味深いインタビューだと思う。武林という言葉の成立についても触れている。

 

ところで、武術とは直接関係ない点だけれど、上記のとおり程華安を暗殺する沈方壷(キリスト教に帰依している)の、「革命」についての考え方が以下のように語られる。「革命」も「反革命」も大規模な殺戮に過ぎず、恨みと報復を繰り返す。これを克服するには誰も恨みを受けずにすむように国全体が懺悔するしかない。。。

このあたり、「革命」を否定するようなニュアンスもあり、なんだか政治的には微妙は発言のような気がするけど、彼の作品はわりと中国政府公認の映画祭のラインナップに含まれていたりして、特にお咎めはうけていないようだ。

 革命带来普遍仇恨与报复伦理,革命与反革命皆大规模杀戮。彼此有血仇的人们在革命之后,无法假装什么都没发生过,于是发生了圣心信仰---“把法国献给圣心”的国家忏悔,在各阶层彼此间不受指责,不受原谅的前提下,通过全社会整体忏悔,共同消解罪恶感,重建公众生活。P.220

 

 映画『道士下山』の予告編。

www.youtube.com

 

 

徐皓峰:民国武师是一个高收入群体
2015年07月10日 09:46
来源:晶报 作者:周超

武林是一种高级沙龙

问:您之前写过一本书名叫《逝去的武林》,怎么理解“武林”这个词呢?

徐皓峰:以前没有武林这个词,都是武行。武林这个词是鲁迅的学生宫白羽发明的,就是写“杨露蝉舍命偷拳”的那个民国武侠小说家。当时,人们把高档的沙龙称作“林”,比如“词林”“琴林”“书林”,这些词汇古来有之,宫白羽就借用这个将武行改作武林。

问:那“江湖”这个词呢?武林和江湖的关系是什么呢?

徐皓峰:“江湖”不是武术界。唐宋时江西、湖北有很多高僧,学佛的人要想求师学佛一定要到这里来。武术界借用了禅宗界的词,“跑江湖”不是卖艺,而是找高僧去参学。后来,才逐渐演化成了我们现在所说的江湖。

武林和江湖这两个概念是有区别的,武林是一种高级沙龙,而江湖是充斥骗子的世界,一个高层,一个底层。武术家要是为生活所迫,要在江湖里卖艺,就是要走江湖啊!

问:民国时候的武林跟以前的武行相比,有什么变化?

徐皓峰:民国的时候,社会上就开始出现了职业武师,这在前代很少有的。在前代,武师们顶多是大户人家请来教孩子武术的,像杨露蝉就是王府请过去的,这是个不公开和社会其他阶层发生关系的群体。但到了民国,它开始成为一个职业了,而不是像清末一样当保镖,当土匪。当保镖只是跟雇主发生雇佣关系,但是现在跟其他人也发生关系,职业武师成为了独立的群体,跟社会其他阶层有了很多接触。

问:那您认为什么原因使得它在民国时期成为一种职业呢?

徐皓峰:跟镖局业的消亡很有关系,以前镖师有义务维持街面秩序,当时北京、天津那么大的庙会都不会出事,就是镖师在维持着秩序。但是像火车轮船银行出现之后,镖师这个职业就没了,在社会结构上出现了空白,所以就出现了失衡,北京天津的地痞流氓一下子就特别多。袁世凯就得想办法治理,那就让你们转行当武术家吧。所以,最开始其实是北洋和南京政府把他们扶持起来的。

救亡图存时代出英雄

问:职业武师这个群体在社会中的作用是什么呢?

徐皓峰:他们都生活在顶级大城市里,当时都是军政府,武师们帮他们训练高级军官,另外对百姓来说,起到了给军界输送人才的作用。像29军大刀队、冯国璋的队伍,都是请武术名师当刺刀教练。

在日常生活中,武师们起到了保持街面上秩序的作用,因为历代光靠警察是不够的。

还有就是给其他行业做仲裁人。比如比较大的商家出现纠纷,就会请一个德高望重的武术家做仲裁。武师这个群体更多地成为一种仲裁机构,它解决民间纠纷的作用一直持续到我小时候,上世纪80年代,北京胡同里两家有纠纷还会找练过武术的人,虽然他已经很老,也不能打了,但还有这种传统。

当时,也出现了“武人文相”的现象。虽然武师不太识字,但是一看就是经历了礼节口才的训练,着装仪表堂堂。他们利用在武术界的威望去跟其他阶层的人发生关系。

问:为什么会找武术家做仲裁呢?

徐皓峰:很重要的一个原因就是,当时袁世凯的北洋政府和南京国民政府有一个连贯的政策,就是高抬武术人的身份,把他们贵族化,他们是当时社会生活里的明星。等于是国家政策把他们明星化了。不管有没有钱,身份都是很高贵的,所以凭借这种身份来解决纠纷。

问:当时他们的收入怎么样?

徐皓峰:收入很高,从一开始拿政府的扶持。他们当时绝对算得上是高收入群体,当时北京大学校长的工资是600大洋,但是像顶级的武师,像孙禄堂基本是600大洋甚至更高,而当时进一个一般的大学当讲师,你的月薪才是几十块大洋。

问:当时整个社会对武术很推崇?

徐皓峰:对,因为当时甲午海战被打得太惨了,所以上上下下都要提高这方面的素质。孙中山当时还提出来强国强种,就是靠武术去强。

问:这么说,当时武术发展跟民族危机有相当大的关系,而且包含着救亡图存的背景。

徐皓峰:对,它背后有一个政治化的东西在。顶级的武术家在八国联军进北京的时候基本都是50岁左右,已经算年纪很大了,因为1949年前中国人平均寿命不到30岁,所以都已经是老头子了。但是他们就扛着大刀在街上走,有落单的洋鬼子抢劫老百姓,他们就跳下来杀这些洋鬼子。

旧时的武人,精致不粗糙

问:您曾提到,民国时的武术家也很讲究规矩,很讲礼仪,有很高道德追求,就像电影《一代宗师》里表现出来的一样。为什么他们会有这么高的境界呢?

徐皓峰:所谓的武德,跟儒家的学堂守则其实是一样的,也就是武术家为人处世和书生的为人处世的准则是一样的。

清朝的时候,好多武师作为反清将领潜伏下来,特别是在二三线城市,所以他们都是把自己看做是大将之才,治理上也是军队的一套,所以在行为上不能那么粗糙,因为带兵的人要以德服人。所以从清朝开始,即使他们是文盲,但行为是很精致化的。

到民国之后,武林成为大都市里的事情,原来二三线城市的人进了都市,又要做仲裁的事情,那对谈吐思辨就要求更高了。时间长了,武师讲得比翰林还有道理,那人们自然也愿意接受你的仲裁。

问:现在武术界的人士还能遵循民国那样的规矩,有那样的涵养吗?

徐皓峰:民国几位大的武术家都有传人,只有他们这些人聚在一起才能有当初的那些风气。但是即使他们去其他的场合,比如去教学,可能都不会拿出那种状态来,因为没人理解。

问:日本的武术家文化,后来延续成一种民族的“武士道”精神。而为什么中国的武德精神没有在社会上产生更大的影响呢?

徐皓峰:那是因为他们被其他的社会运动给取代了,后来,这个社会阶层也不存在了。清朝练武的人是其他阶层的附庸,比如保镖是乡绅阶层的附庸,只有在民国是独立的阶层。近百年来,不仅武术家这个阶层没有了,土改之后,地主阶层也不存在了,这个是历史的潮流,没有办法。

问:这个阶层是什么时候消失的?

徐皓峰:这个不好判定,但是在海外华人武术界,他们说是1953年左右。咱们说武师这个阶层起的三大作用被别的社会机构取代了,也差不多是到1953年左右,因为新社会的结构大致形成了。

如果从给别人当仲裁、给军界输送人才、管理街面治安来说,现在只有练武术的人,武林作为一个社会阶层已经不存在了。

(周超)

http://culture.ifeng.com/a/20150710/44141258_0.shtml