中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

タイタニック、太平輪の生存者と武術家の「水上功夫」?

イギリス人の映画監督、アーサー・ジョーンズが、タイタニック号の中国人生存者6人の行方を追ったドキュメンタリー「The Six」の予告編が公開されて話題になっている(らしい)。

tabi-labo.com

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この記事を読んで、生存者のうち一人は武術の心得があったのではないかと書かれていた記事を見たことを思い出した。

 

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上の中国語記事によると、その乗船者は、FangLangという名前のボイラー工で、救助されたときには板の上で凍えそうになっていたものの、心臓と四肢のマッサージで蘇生すると、「奇怪な動作」を何度か繰り返し、大きく一声叫ぶと、完全に回復して、自ら救助の列に加わっていったのだという。

記事の原文だと、次のとおり。

…1912年4月,當泰坦尼克號出航的時候,船上有八個中國人,並在海難中有六個人幸存。這六個人中最危險的是一個叫做FangLang的鍋爐工,他趴在一塊木板上被救起的時候已經凍僵。然而,就在幾個救援人員試圖通過按摩其心臟和四肢使其恢復的時候,他卻清醒過來,隨即“開始做一種奇怪的動作,用手去夠自己的腳,狀如折頁,反復幾次以后,他大叫一聲,竟然完全恢復過來”!

  恢復過來的Fanglang馬上主動要過一隻船槳,參加了搶救其他乘客的工作,被西方輿論稱為泰坦尼克號事件中最值得尊敬的中國人。

「奇怪な動作」は具体的には「用手去夠自己的腳,狀如折頁,反復幾次」で、紙を折りたたむように、手で自分の足を掴んで(「夠」は「鈎」の誤り?)折りたたむような動作を繰り返したのだろうか。記事は、上の引用に続けて、FangLangが行ったのは、南拳の中にある身体機能を回復するための功法で、八卦掌にも似たような功法がある、という、趙秋棠という武術家(不詳)のコメントを紹介している。

  映画を見ていないのでわからないけれど、ジョーンズ監督は、FangLangの子孫にたどり着けたのだろうか。

 

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 中国版タイタニック事件といわれている太平輪号沈没事故の生存者の中にも武術家がいて、上の中国語の記事はそもそもその人を紹介する記事だけれど、その人とは八卦掌の盧鴻賓。本名を盧書魁、字を兆麟という滄州生まれの武術家で、父に形意拳を学んだあと、程有龍に八卦掌を学んでいる。1931年には天津の道徳武学社の設立にもかかわっているらしい。盧鴻賓については、米国人の弟子K.Williamssonの紹介に詳しい。

LU HONGBIN - Ba Gua Zhang, Xing Yi Quan

 

 太平輪号を救助したオーストラリアの駆逐艦に載っていたタスマニア出身の中尉の証言によると、太平輪号遭難で助かったとき、彼は6時間も真冬の太平洋を漂った末に、助けにきたこの駆逐艦の船舷に、スーツケースをもって自力でよじ登り、衣服も乱れていなかったのだという。記事原文は以下のとおり。

 

“來自塔斯馬尼亞蘭開斯特郡的G.F.斯潘塞·布朗中尉描述,有一名魁梧的中國人竟然是自己爬上驅逐艦的船舷的,而且整整齊齊地戴著他的帽子和眼鏡,提著自己的小皮箱。而此時他已經在水裡浸了六個小時!”

 

 もっとも同じ記事ではK.Williamssonが本人に確認した当時の状況も書かれているけれど、三等船室から海に放り出された彼は急いで流れてきた木片にしがみついて救助を待っていた、としか書かれていないので、特別な功法があったのか、なかったのかはわからないけれど、厳冬(事件が起きたのは1月の末)の海に放り出された彼が生き残ったのは紛れもない事実。

 

 会友鏢局の鏢師だった三皇炮捶の李堯臣は、鏢師の身につけるべき技能の一つとして、武芸十八般のほかに「水上的功夫」も必要だったといっている。陸路ではなく水路の荷物輸送を請け負った鏢師もいたと思われるので、もしかすると何かしら泳法のようなものはあったのかもしれない。

《真正的鏢師生活》李堯臣 @ 快活閑醉 :: 痞客邦 ::

 

この点について、中央国術館の張之江館長は、河川や海岸線で他国と接している中華民国において、水泳を発展させることは、単に体育の点からだけでなく、国防上からも重要として、訪日見聞録の中で、野球とあわせて水泳を発展させるべきだと述べているけれど、国術家のもつ泳法に注目したという話はきかないので、そのような水上功法は、たとえあったとしても伝わってはいないのだろう。

zigzagmax.hatenablog.com

 

 なお、台湾にわたった盧鴻賓(盧書魁)のほかに、もうひとり盧書魁と言う名前の八卦掌家がいて、河北省国術館や甘粛省国術館で教えたらしいけれど、両者は別人である由。以下の動画は、台湾にわたった、太平輪号事件の生存者の盧鴻賓その人。

 

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未見だけれど、太平輪沈没事故については、2014年にジョン・ウーが映画化していて、金城武長澤まさみ黒木瞳も出演して、台湾ではそれなりにヒットしたらしい。日本ではDVD化もされておらず、完全にスルーされている模様。

 

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余談として、「水上功夫」といえば、なぜか泉州少林寺お家芸のようになっていて、ときどき水上歩行の記録が更新された、というニュースが流れてくるけれど、この芸の目指すところは、このメモに書いたようなこととはかなり違うのだろう。

 

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最近、江南の無形文化遺産として「船拳」があるという話をよく聞くようになった。不安定な船の上で練習するために下肢の安定が重視されているようだけれど、最悪の事態を想定するのが危機管理の常識だとすれば、船から落ちないような工夫だけではなくて、落ちてしまったときの想定というのがなければいけないと思うけれど、そうした対処法は伝わっているのだろうか。

 

それから、まったく余談だけれど、東洋文庫の蒲豊彦・倉田明子監訳『中国伝導四五年 ティモシー・リチャード回想録』を読んでいたら、こんな記述があった。

ここに書かれているような身体操作が本当にあるのだとしたら、FangLangが使ったものと似ているといえるかもしれない。

ただ、こんな方法が本当にあるなら、リチャードに庶民に伝えさせるより前に、自分が庶民に教えれば済めばよいのに、と思う。恐らく、この院長なる人物はリチャードにハッタリをかけているだけで、自分ではそのような功法を身に付けてはいないのだろうと思われる。

 ある日、儒教の書院の院長が私のところにやって来て、「われわれの古典のなかには、体の組織の破壊を食い止め、結果として動物の冬眠と同じように活力を停止させる方法が述べられています。西洋には何かそうしたやり方がありますか?もしご存じであり、飢えている人々にその秘訣を教えていただければ、多くの人々が死から救われるのですが」と語った。

 私は一度だけ、ハックスリーの『生理学初歩教程』のなかで心臓の活動を停止させる実験について読んだことがあると答えた。しかし私の知識は不十分で、危険を冒して何かを試すことはできなかった。

 

 

 2020.11.21

船拳以下の記述・リンクを追加。