中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

張仲忱 岩井茂樹訳・注『最後の宦官 小徳張』など

 前回のメモに引き続き、時代的には孫耀庭より一世代前の宦官・小徳張こと張祥斎についての本から。

 張祥斎も、前回メモした孫耀庭のように、宮廷で芝居の訓練をしており、慈禧太后西太后)の芝居好きによってその眼にとまり、出世の足掛かりを得る。

張祥斎の修行について書かれた部分。

---わしが役者の勉強を始めたのはちょっと遅かったかもしれない。しかし、もうダメだと挫けたりはしなかった。「ひきつれて門にはいるのは先生だが、修行するのはその人だ」と言うじゃないか。日中はお勤めをはたし、夜に一人で稽古した。毎日たった三時間しか寝なかった。人気のない場所で、すねからくるぶしに十何斤(一斤は約600g)もの砂袋をくくりつけて、足の振りあげ、腰曲げ、トンボ、前転、後転、スピン。やり始めのころなど、ひどくひっくり返って、鼻は青黒くなるわ顔は腫れるわ、どんな奴だって時には怖気づくもんだ。でも「お前の家じゃ、一生かかったってこの馬車は買えないぞ」という大杏の言葉を思いだすと、自然に力が湧いてきて練習を続けた。『名賢集』のなかにこういう言葉がある。「勤めれば功あり、戯れては益なし」。劇団の他のやつらは、お勤めがおわると惰眠をむさぼったり、アヘンを吸ったり、鳥かごを下げて小鳥と遊んだり、碁や将棋を打ったりしていた。わしはそういう輩の仲間にはならなかった。真夏だろうが、真冬だろうが、稽古でびっしょりになるまで手を緩めなかった。こうして三年間の苦しい鍛練のすえ、若武者役の離れわざを会得し、わしの足はうどんの麺と同じように柔らかく自在に動くようになった。足を上むきにまっすぐ伸ばす姿勢[天を向いた鎧という]や、大将の出陣の踊りで肩の高さまで足を振りあげ靴底を見せる所作、それに厚底靴をはいたままのスピンもできるようになったし、楊小楼の得意技、「七歩台口に至る」[出陣の踊りや見得をしながら七歩で舞台の口まで進む所作]もできるようになった。ついには、「三張半」の宙返りもこなせた。これは机三卓を重ね、さらにその上に椅子一脚をのせ、その椅子の上に立って、武者役の鎧と旗指物を着けたまま上から宙返りでとびおりるんだ。ジャンプして、両手両足を空にむけ背中で着地するひっくり返りの技[頓死や驚愕をあらわす所作]などは、ひとつ間違うと大怪我だ。PP.46-47

 

 P.47の訳注によると、鎧を表す衣装に厚底の長靴、背中には雉の羽などで作られた旗指物といういでたちの武者役を「長靠武生」というのに対して、柄のはいった短い上着にズボン、薄底の靴といういでたちの武者役を「短打武生」というらしい。長靠と短打という対比がなんだか長拳と短打の対比のようで面白い。 

 

 その他、京劇役者の行う「荒事」の例

---わしが南府劇団を取り仕切っているあいだに、荒事をこなす道化役として名高かった張黒を外から呼んで、稽古をつけてもらった。張黒は「吊死鬼」「翻香」「翻蠟」「撥米」「倒柱香」「倒挿虎」などという道化の荒事に長けており、宮中の年若い小伙計や小太監に稽古をつけてもらった。

「吊死鬼」とは、旧清朝時代には、誰も後頭部に長い辮髪をさげておったが、役者が辮髪を舞台の梁に引っかけて、自分で自分の辮髪にぶらさがり、上下左右に振れる技。

「翻香」とは、線香一束に火をつけ、両端に火をつけた一本を口に挟み、あと両手、両脇に一本ずつ、さらにしゃがみこんで、二本の脚の膝のうらに一本ずつはさむ。こうしておいて、つづけざまにトンボを切るが、線香の火を消しちゃあいけない。

「翻蠟」とは、全部で七本の蠟燭に火をともし、体の各部にさしてトンボを切るが、やはり火を消しちゃだめだ。

「撥米」とは、しゃがみ込んだまま歩を前にすすめ、手には米を盛った箕を捧げ持つ。米を真上にむかってはね上げて、急いで前と後ろにトンボを二つ決め、箕でもって落ちてくる米を一粒もらさず受けとめる。

「倒柱香」とは、両手で胸を抱いたまま、頭のてっぺんを地につけ逆立ちをする。

「倒挿虎」とは、逆立ちのかっこうで竿を上へとのぼっていき、あたかも手が滑ったかのように急に落下し、竿の一番下でぐっと止める。

---このような離れ技は、小太監のなかでも体格の良いものを選んで練習させた。とても張黒のようにはいかなかったが、格好だけはつくようになった。のちに老祖宗に何度もつづけてご覧にいれると、老祖宗にはたいそうお誉めいただいて、太監たちはたびたび特別の褒美にあずかった。PP.72-73

 

上の引用部分に出てくる張黒とは、直隷南皮の人で、「幼少より拳法や武術を学び、のち喧嘩で人をあやめたことをきっかけに梨園に身を投じたといわれる。動作は機敏で猿のごとく、走れば燕のごとしと評され、軽業の名手であった」(P.69の注)という。このブログでたびたび参照している『南皮千年文化古県系列叢書 伝統文化巻』を確認してみたけれど、それらしい人物の名前はでていなかった。

 

そのほか、武者役の訓練について触れた箇所

…武者役の弟子たちは一番厳しく、つらい訓練をつんでおった。毎日朝から晩まで、「拿大鼎」[逆立ち]、「踩蹻」[纏足にみたてた義足の技]、「朝天蹬」[片足で立って上体を反らす]、「抜腰」[脚の振りあげ、屈伸、倒立などを毎日つづけて腰骨と筋肉を引き延ばす]、「打旋子」[手足の反動で体を浮かせながら旋回する]、「前撲」(体を伸ばしたまま倒れる)、「虎跳」[両手を地につけてから足を振り上げ側転する)、各種のトンボといった練習のコースを三度やる。一コース終えるのに三時間かかったが、小さいときからの基礎をしこむためだった。P.168

 原文の「朝天蹬」の「蹬」は金偏。

 

 なお、これは後年になるけれど、張祥斎は潭柘寺の閉月和尚から「八仙剣術をひととおり伝授してもらった」(P.185)という。閉月和尚は、前後の記述から、その時点で80歳を超えた長老であったことがわかる。この八仙剣はいまでも伝承されているのかな?

 

 慈禧太后の京劇好きについて触れた箇所。うまくすれば出世できるけれど、失敗の可能性も高かったことがわかる。

…慈禧太后は南府の一座のやる劇と、外から宮中によんだ一座の劇の腕前くらべをするのがつねでした。太后ご注文の狂言を、対抗で打つのですが、もしその狂言はできませんなどということになれば、一座の全員がお仕置きです。太監たちは、芝居の呼び出しがあるとたちまち顔を曇らせたものでした。ある日、ご注文があった狂言を外の一座がやれずに、南府の一座の太監がやれたものですから、慈禧太后はたいへんに満足され、演じた太監はたちどころに出世です。祖父は言っていました。

---まだ庚子の年[一九〇〇]より前のことだが、外から一座をよんで武者役の楊小楼に崑曲「七歩向探」の石秀の役をとお声がかかったことがある。ところが、それはできませんというので、老祖宗[慈禧太后に対する敬称]はすぐに常蓮忠をご指名だ。 常四老爺は、呼びだされるとこの劇をさっと唱いなすった。老祖宗のお声がかりで、たちまちに階級特進、御前首領に抜擢だよ。PP.42-43

 

…老祖宗は芝居をご覧になるとき、台本を手に台詞を確かめられるのだが、一句でも間違って唱ったり、調子がはずれようものなら、たちまち聴きつけなさった。その度に打たれるとは限らなかったが、ご褒美だけは間違いなく召しあげだった。お嬢さん役を得意とする孫怡雲[女形の孫甫亭の父]が宮中によばれて、「玉堂春」をやった。登場の場面でゆっくりとした伴奏にのせて唱うところがある。その中の一句、

「魚は網にかかれるや、行きて帰らず」

とあるところを、孫怡雲は唱いなれたとおりに、

「羊は虎口に落ちたるや、行きて帰らず」

とやってしまった。その途端、老祖宗は聴きつけて大変な怒られよう、だれに教わったのか、と問い詰められる。芝居はそこで打ち切りとなった。孫怡雲は、びっくりして何が何だかわけがわからぬし、どこでへまをしでかしたのかもわからない。こうして、孫怡雲は宮中をおわれ、それっきりお声がかからなくなってしまった。

---あとになって、孫怡雲は王瑤卿に尋ねた。それでようやく聖忌を犯したのだと知った。というのは、老祖宗は未年生まれで、「羊が虎口に落ちる」とは、虎が羊を食べたということに他ならないではないか。宮中で芝居をする役者たちは、ご褒美こそたんまりだが、しっかり汗はかいたものの、どこがいけないともわからないまま間違いをしでかして、芝居をぶち壊しにしてしまうこともある。たとえ外で一座を組んで芝居をやっていても、宮中の芝居からつまみ出されたなどと噂になると、いくら上手にやっても人気はでなかった。PP.69-70

 

 もっとも、芝居に対するこだわりだけでなく、慈禧太后が癇癪を起すのは、日常茶飯事だったよう。

---老祖宗のご機嫌ときたら尋常ではなかった。ご機嫌をはかりそこねると、痛い目にある。どういうわけでかんしゃくが爆発しているのかはかりかねることもあった。ご自分の対面や礼儀については、一点の妥協も許されなかった。お仕えしている宮女や御前太監は一日中はらはらしていた。いつ何時ちょっとのことでもしくじれば、軽くてもビンタ、重ければ棒叩きを頂戴せねばならない。まったく容赦はなかった。宮中のあちこちへ出かけられては、その所でなにか不様を見つけだされるという風で、誰か打たないことには日も明けぬほどであった。たとえば御花園にいかれると、花の咲き方が悪いといって太監をお打ちになる。金魚小屋へ行かれると、大甕の金魚が水面に浮かび上がってこないといって太監を打つ。孔雀の檻へこられて孔雀をご覧になると、尾羽を拡げないといって太監を打つ。(P.158)

 

 

 つぎは、孫耀庭も触れていた宦官名簿の存在と、それを利用した不正蓄財について触れられた箇所。

 李蓮英が引退しようかというとき、崔玉貴ももう晩年を迎えていました。祖父は太后宮大総管の職務引継ぎをはじめていました。名簿をあらためているとき、李蓮英は何ともいたしかたないという様子で、本当のことを打ち明けました。祖父によるとこうです。

---わしが名簿を手にして調べているのをみて、老総管が話しかけてきた。

「張掌案、その中の何名分かは 架空の名前で、わしがその手当を懐にいれておったのだ」

 わしは心のうちで、あっちは大先輩で、四十年も務めあげた大総管だ、少しの役得くらい見逃してやるものを。ごまかした員数を宮中から去るときまでそのままにしておいたところで、わしが告げ口などするものか、と思ったもんだ。P.87

 これは全くの思い付きだけれど、大同公園でのトラブルが原因で宮廷を去ったと一門の間では言い伝えている霍殿閣らの名前が、事件後も引き続き満州国官吏録の中に見られるのは、もしかするとこの名簿を利用して、誰かが不正を働いていた可能性もあるのかもしれない。

 

 宮廷に伝わる護衛の神刀

---光緒二十六年[一九〇〇]、洋鬼子[外国人を憎しみをこめて呼ぶときの呼称]が北京城に迫ったとき、老総管李蓮英、わしの師匠であった崔玉貴、御膳房の掌案であった廬太監、御前首領の張謙和[辛亥革命後に宣統帝の総管太監となった]ら宦官の一群が、御駕につきしたがって紫禁城から脱出した。そのさいに、二名の太監が御前護衛の役に充てられた。老祖宗のほうはわしが御前侍衛を拝命し、光緒帝のほうは常四老爺[常蓮忠]だった。わしら両名はそれぞれ「小搧風」とよばれる宝刀ひと振りと、「十三響」(当時宮中には外国から献上された十三響という洋式銃しかありませんでした)[「十三響」とは十三連発の意味]一丁とを渡された。「小搧風」は遠い昔から伝わっておる宝刀で、つねは「寝殿の夜巡り」にさいして佩びるものだった。わしと常四老爺は芝居で若武者役をやり、いくらかでも武術の覚えがあるというので、老総管がわしら両名を選んで御前近侍を命じたのだった。当然、老祖宗はこれを許された。…P.128-129

 訳者の注によると、搧風とは「小神鋒」の誤り

 

 義和団事件で慈禧太后、光緒帝が宮廷を離れ西安に避難した際、一行は途中、北京の西北約35キロの、貫市につく。

 ここは「イスラム教徒の居住地で、昔は「保鏢」[貨物輸送の武装護衛団]をだしたことで有名な場所」(P.129-130)といい、訳者の注でさらに李という姓のムスリムの一族が住んでおり、「その一族は、「保鏢」を業としていた。李一族は、北京の前門に東光裕鏢局という営業所を設け、ここの旗を挿しておけば、あえてこれを襲撃する賊はなかったという」(PP.129-130)としている。

以下のリンクの記事によると、この蒙塵の際に、東光裕鏢局の李恩濤(大槍李恩濤)の推薦によって楊巨川という鏢師が警護の列に加わっていた模様。

 

  八国联军攻入京师,慈禧太后与光绪皇帝仓皇出逃,一口气跑到西贯市村。为了护送他们安全出京,族长、西光裕镖局老板李恩涛举荐杨巨川护驾随行。杨巨川将慈禧太后一行人,一直护驾到西安,然后又护驾回京。

http://www.bj.chinanews.com/news/2005/2005-12-13/1/8076.html

 

www.bj.chinanews.com

 貫市の李一族に関して、同記事によると康熙年間に神弾子李五と呼ばれた人がいたらしい。李恩濤もその一員ということになるのだろうか。北京生まれの京劇役者の李世章はこの神弾子李五の末裔であるという。ただし、李世章は上海生まれの宋起山に師事したようで、彼の技は家伝の武功ということでもなさそう。

 

baike.baidu.com

m.xiquwenhua.com

 

上の記事の元ネタはもしかすると、これか。朱元璋回族という説はどうなんだろう。

m.thepaper.cn

 

 皇帝と皇太后の護衛を清朝の正規の部隊に任せるのではなく、民間の鏢師に任せたのかと思うと必ずしもそういうことではなく、一行の指揮をとったのは、馬福祥ということなので、民間の鏢師も一部動員されたということなのかな。

(この本では、西安西安の総兵官として彼らを迎えたと書かれているけれど、訳者によればそれは誤り。馬福祥については以前にメモ済)

 ちなみに、馬福祥は、西安で何かと一行の世話をやき、孫祥斎が西太后に可愛がられているのを見て義兄弟の契りを結びたいと申し出てくる(P.141)。のち、孫祥斎と馬福祥は張勲を含めて、三人で義兄弟の契りを結んでいるらしい。それは孫祥斎にとっては、西太后という後ろ盾を失ったあとの保証になり、馬と張にとっては出世の足掛かりにもなっただろう。そうやってギブ&テイクでネットワークが作られている様子も伺えて興味深かった。

 

〇馬福祥についての過去メモ

zigzagmax.hatenablog.com

 

最後の宦官 小徳張 (朝日選書)

最後の宦官 小徳張 (朝日選書)