中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

賈英華著 林芳訳『最後の宦官秘聞』

 満州国でも溥儀に仕えた宦官の孫耀庭に作家の賈英華が取材してまとめた本。

 

最後の宦官秘聞―ラストエンペラー溥儀に仕えて

 

孫耀庭については、これとは別に、凌海成による伝記小説もあるけれど、こちらは入手したのみで未読。伝記小説によくあることだけれど、かなり脚色して膨らまされている印象がする。

 

最後の宦官―溥儀に仕えた波乱の生涯〈上〉 (河出文庫)

 

最後の宦官―溥儀に仕えた波乱の生涯〈下〉 (河出文庫)

清末の宦官に関しては、この本のほかに小徳張こと張祥斎について、養子の子(祥斎にとっては孫)の張仲忱が記した『最後の宦官 小徳張』がある。本当は、この本とあわせてメモをするつもりだったけれど、孫耀庭の本からメモしておきたいと思う箇所が意外と多くなってしまったので、残りは次にまわす。

 

最後の宦官 小徳張 (朝日選書)

 …と前置きして、以下はこのブログの観点から、『最後の宦官秘聞』で興味深かったところ。

 

孫耀庭が最初に仕えた載濤

…「載濤は毎日、厳しい武術や芝居の立ち回りの稽古」(P.40)をしていた。

 

載濤は自分で、壁の根元に沿って八、九メートルほど片付けて空き地を作り、毎朝早く、寒いときも暑いときも欠かさず、そこで武術の訓練[練功]や宙返り[踺子]、芝居の立回りの稽古をする。実にみごとな技の持ち主であった。

耀庭が載濤夫人につき従って載濤の書斎へ行ったとき、載濤は彼の肩をたたいて言った。

「お前は、逆立ち[拿大鼎]ができるかね?」

「わ、私めには、できません」耀庭は、自分がとんぼ返りをやらされるのかと思い、おそろしくなった。

「こっちへ来なさい」載濤の言いつけにはそむけない彼は、びくびくしながら近づいていった。

「両手を地面に突きなさい」と言うのでそうすると、載濤はその手で彼の足をつかみ、壁に寄り掛かって逆立ちをさせてくれた。そのままずっと続けさせ、耀庭が「もう我慢できません!」と悲鳴をあげて、ようやく放してくれた。載濤は去るときに、言い残した。

「明日から早めに起きなさい。わしがお前に武術の稽古をつけてやろう」

「は、はい」

耀庭は、しぶしぶ返事した。さて二日目の朝、行かないわけにもいかず、いやいやながらも載濤に足をつかまれて、また壁際で逆立ちをしたのだった…。P.44

 

のち、これらの稽古が生きて、宮廷の京劇団に入ることに。

 京劇団に入った彼は、昔習った基本練習に明け暮れた。毎日片足を壁に高くつけて足の筋を伸ばし[耗腿]、腰を鍛え[練腰]、終わりのないでんぐり返り[翻跟頭]、側転[虎跳]、とんぼ返り[踺子]、バック転[小翻子]など、面白くもない鍛錬…。朝四時に起きて太陽が高く上るまで早朝訓練に励み、その後ようやく朝食となる。それも劇団長の張安吉師父の食べ残しをそそくさと掻き込み、すぐ訓練を続け、昼休みもとれず、明かりをともす頃やっと一息つける。強行軍にも似た猛練習である。(P.86)

 

・・・芝居一座には、三人のコーチがいた。一人は張長保といい、もう一人は彼の兄弟、張岐山で、兄弟ともに宮殿で有名な武術師で、もっぱら武術を教えていた。もう一人の宦官はでんぐり返りを教えた。とくにつばめ返しが得意だった。この三人は永和宮芝居の支柱だったので、張安吉のおぼえがよかったし、端康の前でも、役者としても「売れっ子」だった。

 彼らの指導のもとに、芝居一座の若い宦官たちは、朝早くから夜遅くまで、厳しく基本動作の訓練を受けた。張安吉の定めた目標は短時間で足を上に上げることで、腰かけを上にあげられるまでやらされた。

 宮殿で武術を習うのには奥の手があた。たとえば、開脚座[劈叉]の練習では、左右両側に石の太鼓が支えとして置かれ、身の下には、カーペットが敷かれている。練習するときに、太鼓に足をのせ、身体を少しずつ降ろしていく。刺すように痛くて汗が止まらないが、効果はてき面であった。はしこかった彼は、載濤王府で習った基本動作のおかげで、何日もかからずに、「前後開脚[竪劈叉]」も「左右開脚[横劈叉]」も自由自在にできるようになった。

「宙返り「小翻児」---芝居の言葉では「一点花」---を訓練するときは、コーチはまず腰を曲げることから始めさせる。退屈であるが何度も何度も練習させる。できてもやめることなく、強化するために何回もやらされた。このコーチは載濤王府より厳しかった。一日中、藤の棒を手にして、動作が少しでも遅いものがいると、その藤の棒で力いっぱい、後ろの腰を打った。そして、武術訓練の言葉で、大きな声を張り上げて、「やれ、早くやれ」と叫んだ。

 こんなに早くから練習して、九時前に朝ご飯にありつければいいほうだった。そして、休む暇もなく、すぐに楽屋裏へ行き、本物の刀や槍を持ち、「武把子」という武芸の練習をする。---つまり刀や槍で切りあいをする場面である。昼食後、また楽屋裏へ走って行き、師匠から一齣ずつ「芝居の話」を聞く。縁起や歌唱の満喫である。耀庭はへとへとに疲れてどうしようもなかったが、将来に希望が持てるので、「これでどうにか望みがもてる」と張り切っていた。PP.89-90

 

上の引用箇所にも、張安吉、張長保、張岐山といった「武師」の名前がでているけれど、その他にも、当時の宮廷武師について触れている箇所がある。

 彼が宮殿に来る前に、永和宮には早くから、体制の整った芝居一座があった。端康太妃の側使えの若い宦官に春来という子がいた。春来は歳がまだ小さく、十一、ニ歳で、とても利口で宮殿の人々はみんな「小七児」と彼の幼名を呼んだ。春来はこの一座全部を言いやすいように、韻を踏んで、時々端康に言って聞かせた。

 「楽屋裏の親方夏葵宜、武術の頭周大将、大どらの蔡、小どらの辺、地太鼓をたたく尹玉川…」

 言葉は少ないが、永和宮の芝居一座の主だった人物を余すところなく表現描写しつくされている。夏葵宜とは耀庭を連れにきた永和宮の夏回事だった。周大将は周玉庭といって、慈禧[西太后]や隆裕の時代に舞台に出て、いつも見事な武術で喝采を得ていた・・・。

(略)

 耀庭は「奇人」こと「海児劉」に夢中になった。芝居一座の中で、誰も彼の本名を呼ぶものはいなかった。会うと皆このように呼んだ。海児劉は毎日大声であはははと笑い、物事を意に介さない様子であるが、武術は宮廷一である。耀庭たち何人かが、でんぐり返りを練習していると、機嫌がいいと寄ってきて、彼ら八人に腰を曲げて並べさせ、突然列の前から後ろへとでんぐり返りをする。芝居一座では彼は武術の訓練をまかされていたが、非常に心が広く、皆が疲れてくると、子供の宦官が、「パパ、もういいよ、兄さんたちを苦しめないで」といい、「わかった、解散…」あはははと笑って、終わりにした。

 年取った宦官は、彼がもと隈取の敵役だったことをみんな知っていた。詠っているとき、いつもぶざまな格好をして見せた。

 小徳張に不始末をとがめられ、打たれて、その夜姿が見えなくなったことがあった。次の日も見つからなかった。小徳張が彼の実家である県へ人をやって、宮殿に連れ戻した。県の役人が彼の家へ行ってみると、彼は家でぐうぐう寝ていた。一体何の罪を犯したのかときくと、彼はやはり冗談のように、

「宮殿で皇帝の紫金のお盆を盗んだのだ。そうだ、君たちにあげたじゃないか」

「冗談をおうな。もう少しで首が落ちるところだぞ」

「へえ、たいしたことないさ。天が落ちてきたら、大きいのが支えるさ。怖いことなんかあるものか。君たちについて行けばいいんだろう。」

 彼は役人について、馬車に乗っていったが、少し経つとまたいなくなった。役人が慌てて探したが、見つからなかった。北平に近づいた頃、彼の声がした。みると馬車の幌の上にうずくまっていた。この事件では、李蓮英が始終彼の芝居を見ているし、また彼の武術が優れていることから、慈禧太后に彼の許しを請うたこともあって処分されることはなかった。

 このことがあってから、宮廷内で彼の名声はますますあがっていった。(略) 

 禍が福となった海児劉の高くて優れている武術に耀庭はとても敬服していた。彼は使いきれない底力でもって、一生懸命に武術を習い始めた。振り返ってみれば、大概この半年の間だろう、耀庭があのでんぐり返りの技巧の一通りをすっかり身につけてしまったのは。苦をものともせず練習に身を入れ、また利発なので、早くも多くの宦官のなかで頭角を現し、芝居のなかでも「役柄」をあてられた。

 有名な武術劇である「石秀探庄」で耀庭は石秀を演じたが、成り格好も俊秀で、武術もしっかりしていて、リハーサルのときからコーチの賛辞を受けた。

 非常に腕前を問われる武術劇の「金銭豹」でも、立回りの激しい小猿役でも彼の演技は大好評であった。芝居一座では、大切な柱とは言えないが、確かに欠くことのできな重要な「役者」となったのである。PP.94-96

 

座長の死と活動中止(1921年秋)。

 その頃、耀庭たちは芝居の稽古に余念がなく、上演の準備を着々と進めていた。ところが、建国記念日双十節[十月十日、国民党政府の建国記念日]を目前にして、主役の張安吉が急死してしまい、上演はとりやめになった。阿片の吸いすぎで骨と皮に痩せ細っているところへ、ちょっとした病気が重なり、そのまま黄泉の国へと旅立ったのだ。屋台骨の抜けてしまった劇団は、開店休業状態に追い込まれた。

  

宮廷で働く宦官には、名跡のようなものがあり、正式に俸給を受けるには、これらの名跡を継ぐ必要がある。

「おまえに名前をあげよう。これからは宮殿では、「王成祥」と名のりなさい。

「ありがとうございます」

 耀庭は興奮して夢見心地だった。たまたま、永和宮の宦官名簿の中に不在者名簿が見つかり、金を工面して、この「王功祥」の名義を持っていた先輩宦官の張安吉に付け届けなどをして、何とかそれを買い取ったところでもあった。端康太妃からは正式許可のご祝儀として百元が下賜された。

耀庭は張師父に連れられて登録の手続きを終えたが、その際百元の中から六十元を、手数料として払い込んだ。なにかと物入りではあったが、これからは正式の宦官として皇帝から給与をいただける。元来宮廷では「俸禄給」は月に二両の銀や一日百グラムの米などであったが、この決まりはすでに有名無実となっており、耀庭は一度もお目にかかったことはなかった。それであっても、得た物のほうが大きいのだ。

 ところで、宦官の名簿登録のしきたりが、いつ頃から始まったかは誰も知らない。宦官が亡くなっても、上のほうはそれと知らず、首領たちがその欠員分の給与を着服していたのだ。こうして年を重ねるうちに、登録ののち故人となった宦官の名前が増えていき、ついにお上の知るところとなった。そこで、上級宦官の独占的な着服を防止するために、名義を継ぐ場合は、各宮殿の主人[皇太后・皇后・皇太妃・皇妃など]の手を経ることになった。ところが、これら主人もまた、カラ給与をせしめる首領らの共犯者となったのだった。清朝末期には、新参の宦官が名義を買うためにはたいた金を、この両者が暗黙の按分によって懐に入れることが当たり前となっていた。PP.90-91

 

宮廷を出たあと、陳沢川師父から、孫耀庭が聞いた話。

熱河の政変と安徳海。安徳海については、このブログで以前にメモしている。

 耀庭は目を見張って陳師父の語る宮中秘話に耳を傾けた。

「咸豊帝が崩御された後は、お人よしで信じやすい慈安太后は、慈禧の言いなりになった。彼女は、後を継いだ同治帝の生母皇太后として権勢を振おうとしたから、咸豊帝腹心の八大臣たちとの確執が激しくなっていた。それは、われわれ宦官の目にさえ見え見えだったね。帝の死は秘密にされ、慈禧には野望を叶えるすべはなかった。この絶体絶命のときに、彼女は自分に忠実な宦官を起用したんだ。『熱河の政変』の鍵は、彼女が宦官を歴史の表舞台に登場させたことにあるといえるな。」

「僻地にあった慈禧がどうやって消息を北平に伝えたかは、いろいろいわれている、実は至極簡単なやり方だった。彼女は腹心の宦官安徳海と馴れ合いで、大芝居をうったんだよ。安徳海に落ち度があったと、公の場で打ちすえたあと、罪人として北平の「慎刑司」送りにした。当時は誰もその裏にワケありとは思いもしなかった。そこが狙い目だった。慈禧は一筆したため、それを安徳海の辮髪に隠し入れ、安は北平に着くやその足で恭王府に向かい、恭王に接見を求めたのさ。恭王はことの真相を知り、ただちに熱海へとび、慈禧の苦境を救ったのだ」

「聞くところによりますと、そのあと慈禧は北平に戻ってから多くの者を処刑したとか。鉄帽子王[輩輩王]も殺したというのは本当ですか?」

「冷酷な処刑を行ったのは間違いない。が、鉄帽子王は先祖代々からの皇族だから、たとえどんなに重罪であろうと斬首にはできんのだよ。例の咸豊帝『八大臣』の首領は戸部尚書の粛順だったが、彼は市中引き回しの上、菜市口で打ち首となった。ただし、怡親王と庄王のお二人の皇族は、御馳走を満喫したあと、白絹を賜って縊死を強要された。もう一人の大臣は自殺した…」

「そうすると、熱河の政変では安徳海が特別な働きをしたわけですね。彼がいなければ、慈禧の運もそこで尽きていたでしょうに…。噂では、安徳海や李蓮英は、偽宦官だったとか。それで慈禧とも馴染みが深く、危急存亡の時も重要な任務を担わされたんだとか」

「それは宮廷外の人の根の葉もない言い草だ。私は慈禧には長く仕えたから、裏の事情も知っている。安も李もともに河北省出身で、本物の宦官だった。仮に二人が去勢をしていない偽宦官だったとしたら、それはごまかしきれなかったろう。なにせ宮中では、入廷時はもとより、出仕後もたびたび身体検査が行われたんだからな。それに咸豊帝の八人の兄弟たちも、慈禧を厳しく監督していたから、偽宦官を彼女の側に仕えさせるはずはないのさ」PP.225-226

「慈禧は彼を保護してやらなかったのですか?手はつくしたが間に合わなかったと聞いているのですが」

「これには複雑な事情があるんだ。安徳海は初め咸豊帝に仕え、やがて慈禧のために大功を立てた。当然、宮廷内においてその右に出る者はいないという存在だ。他の者の嫉妬も招くさ。人は得意の絶頂の時こそ、そのあとに到来するであろう逆境を考慮に入れて行動すべきなのだが…。宦官は北平を出てはならないという厳しい決まりがあったのだが、彼は慈禧の後ろ楯を恃んで、あえてこれに逆らった。それが招いた災いなのさ。同治年間、安徳海は蘇州や杭州を周遊したくて、皇室用の『綉龍衣』を買いに現地へ行きたいと申し出た。慈禧も彼のいうとおりに許してしまった。ところが、それっきり永遠の別れとなったのさ。世間では、山東省長官の丁保楨が安徳海を殺したといっておるが、実はそうではない。本当は恭王が他人の力を借りて安徳海を除かれたというのが、ことの真相なんじゃよ。安徳海の慈禧の威光を傘にきて、身のほどをわきまえぬ言動はひどいもんだった。主君の恭王に対しても不遜な言動に出るという由々しき事態だった。六叔と呼ばれた恭王さまのことを、『六男坊』と誰憚らず呼ぶんだ。

 恭王は意に介さない素振りを見せていたが、心中穏やかでなかったことは察しがつく。恭王は世にも珍しい高価な指輪をお持ちだったが、それが慈禧の目に止まり、結局差し上げてしまった。すると翌日、安徳海がなんとこの指輪を手にしているではないか!しかも誰彼となく見せびらかし、あろうことか当の恭王様にさえ自慢気に『六男坊、この指輪どんなもんです?』といったもんだ。この時の恭王のお気持ちはいかばかりであったろう。恭王は憤りのあまり、返答もされなかった。安徳海の傲慢ぶりは、熱河での功労を恃みにしてのことだが、その御利益も永遠ではなかった。

 安徳海が山東省内に船で乗りつけたとき、長官の丁保楨は恭王の手紙を受け取ったのだ。その手紙には、安がみちみち各州の役人が金銭を巻き上げ、その傲慢無礼ぶりは規律に違反する、とあった。丁保楨は心得て安を捕らえ、早馬で都の恭王に報告した。すぐさま西太后にことの顛末を上奏すると、彼女は罪状を見て大変怒り、『こ奴め、私の目の届かないところでこんな悪事を働くとはまったく死罪に値する!』といった。とはいえ本気で死刑にする気はさらさらなかった。ところが、恭王は東太后[慈安・咸豊帝皇后]と内密にことを進め、この一言をすぐさま山東へ伝えた。

 あくる日、西太后は『安を京城へ連行して、じかに尋問する』といったが、恭王にはその真意が分かっているから、死罪という第一の勅令の後を追って、第二の勅令として発令はしたが、結局は後の祭り、それが山東に届いたとき、安徳海の首はすでに地に落ちていた。一方この事件で一役買った丁保楨は慈禧の処罰を怖れ、一人憂慮していたが、恭王がうまくおさめてことなくをえた」

 

〇関連の過去メモ

zigzagmax.hatenablog.com

 

その他、興味深かった箇所。

溥儀が紫禁城を馮玉祥によって紫禁城を追われる際の様子。

張璧が溥儀に、退位して公民になったとして、今後は選挙の結果、大総統に選ばれる可能性もある、と言ったことは、溥儀の「我が半生」にも出ており、

劉正は、それをもとに、張璧の公民としての権利を尊重しているようにと書いているけれど(『民国名人 張璧評伝』)、挨拶もせずに車に乗り込んだと、わざわざ記されていて、高飛車な態度だったように感じられる。

 

  婉容を先頭に、大小の包みを抱えた一行は御花園の東で溥儀を待った。すぐに、溥儀や文繍、栄源、紹英といった人たちが急ぎ足にやってきた。なかでも最も目立っていたのは溥儀の父親の摂政王載灃だった。朝廷に参内するときに礼服である「補服」をまとい、宝石のついた朝冠をかぶっており、とりわけ目立つ「三眼花領(引用注:原文は頁ではなく、羽)」の羽は小刻みに震えていた。 

 一行は御花園から順貞門へ向かった。載灃は景山の万寿亭に向かうと感嘆した。

「ああ、大清国もこれで終わりか!」

 載灃は朝冠を築山に投げ捨てたが、誰も無言であった。一行が出て行った後、礼帽の羽根飾りだけが微かな風に揺れていた。投げ捨てられた朝冠は、清朝摂政王の地位の失墜を示したばかりか、溥儀の前途をも暗示していた。

 神武門に近づくと、数台の車が待っていた。鹿鐘麟は溥儀に向かって厳粛に告げた。

 「この車であなたがたを北府に送ります」

 張璧は溥儀に挨拶もせず一番目の車に乗り込んだ。溥儀は二番目の車に乗るよう指定された。PP.194195

 

満州国で溥儀が暗殺を恐れて食事に気を使っていたこと。霍殿閣の親族で溥儀とともに来日もしている霍福泰がその毒味役であったことは以前にメモした。

 皇帝の食事は、当時宦官たちが最も神経を使ったことであった。溥儀が死を恐れていることは、満州国宮廷内で誰知らぬ者はなかった。まず、溥儀が用心したのは食中毒であった。溥儀は忠実で信頼のおける調理人十数名を慎重に選んでいたが、いつも膳を運ぶ前に、専用の人間を揃えて、あらゆる料理を毒味させた。テーブルに並べてからも、疑い深い溥儀は傍らにいる者に随時毒味をさせていた。 P.274

 

関連の過去メモ

zigzagmax.hatenablog.com

 

 溥儀に関して

 溥儀はいつの頃からか、仏教や気功に興味を持ち始めていた。溥儀が書斎で目を閉じて精神統一をはかっているのをよく見かけたが、それは静座して無我の境地に入ろうとしていたのである。外国の客と会うときなど、しばしばこれを話題にした。当時の溥儀は、気功と仏教を結び合わせて、独自の修行方式を作り上げていた。困難なことに遭遇するたびに、溥儀は座禅をして解脱をはかった。が、結局悪運から逃れることはできなかったのである。静中動あり。溥儀は完全な解脱ができないため、心を静めることができず、少しでも気にいらないことがあると、たちまち異常に怒りだした。それはうっぷん晴らしでもあり、苦悶の悲鳴であもあった。宦官はときにはっきりと分かることがある。災いを最も避けうるのも宦官なら、最も避けがたいのもまた宦官であった。なぜなら彼らは溥儀のそばを寸歩も離れることができないからである。 P.287