中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

口述記録と創作 『義和団民話集』など

 一つ前のメモに、曹錕の部隊に苗刀を伝えた静海県の四人の武術家がでてきたけれど、ここは天津の義和団の首領として知られる張徳成、曹福田の出身地でもある。

 張徳成は、松岡圭祐の小説『黄砂の進撃』の主人公にもなっていて、東洋文庫所収の『義和団民話集』にも、「チャン・トゥチョン、法術をあらわす」「糸売り、羊毛子をおびきだす」に出てくる。

 ところでこの『義和団民話集』、副題が「中国の口承文藝」となっているけれど、巻末に付された張士杰「整理ノート」を読むと、張士杰が古老の語りを採集して文字化した、文字通りの「口承文藝」というよりは、張士杰の編集がかなり加わっていることがわかる。

 張士杰自身も、「・・・私が“典型的英雄を作ることだけに力をそそいでいる”としても、いったいどこが間違っているのか---まさか民間の素材を使っての再創作は禁止されてはいまい。」(P.340)というように、自分が再創作していることには十分に自覚的。

 こういうものを「口承文藝」と呼んでよいのかどうか、専門的なことはよくわからないけれど、やはり若干違和感がある。

 

 それでも、張士杰が聞き取りを行った1950年代の時点で、義和団事件の際に、地域の義和団のグループの中で「大師兄」と呼ばれた人がまだ生きていて、その話を具体的に聞くことができたというエピソードを含めて、収録されている個々のお話から、「整理ノート」まで、興味深かった。

 この大師兄は姚福才といって、二年前に亡くなったが、河北省安次県の肖辛荘の人だ(私達の所ではその村の名を俗に辛荘子と呼んでいる)。私はこの人の家に十回以上も足をはこんだ。ヤオ家訪問はマーリウ(キリスト教に入信して仲間を欺いた叔母を殺すという「英雄的行為」の実行者。その話は「マーリウ、叔母をたたき斬る」にまとめられている。引用者注)の時のようにはいかなかった。私達は同郷ではないし、なんの面識もなかったから。そのため、初対面の時には、かれは義和団について期待したほど話してはくれなかった。どうやら未知の相手に不安を覚えたようだ。後に、親しくなってからわかったことだが、実は、義和団敗北後、かれは罪人として告発され、裁きをうけてさんざん痛めつけられたのだ。それにかれは古い書物、たとえば『拳匪略記』『紅灯照』(ともに旧社会で出版された)などを読んでいた。それらの本では、義和団はことごとく罵られていた。こうしたわけで義和団のことは話したくなかったのだ。ことに見知らぬ者に対しては。

 二度目に訪問した時、かれが文字を知っていること、読書好きなことがわかっていたので、雑誌「民間文学」を持って行って読んであげた。彼は興奮して、義和団運動をどう捉えるかについて、あれこれ質問してきた。私は知っている限りのことを説明し、さらに義和団運動の意義について長々としゃべった。それを聞くと、かれはうなずいて、「そのとおり、わしの考えもそうだ」といった。こうなると、彼は勢いづいて、義和団について話しはじめた。

 こうして、私はしょっちゅうかれを訪ねるようになった。ある時、かれが廊坊の市へ出かけるというので、ついて行って、その帰り、私の家に寄ってもらった。私達の村にかれの遠い親戚があったのだが、親戚筋をたぐってゆくと、まわりまわって二人は身内になってしまい、とうとう彼を“表爺(おじいさん)”と呼ぶことになった。こんなこともあって、私達はいっそう親しくなり、私が数日あいだをおいて行こうものなら、かれは御機嫌ななめ、

「どうして顔を見せないんだ、おじいさんは待ちくたびれてしまったぞ」

 こうしたつきあいの中で、かれは思い出すかぎりのことをなんの気がねもなしに話してくれた。はっきりしないことがあると、他の老人に尋ねて教えてくれた。彼がいろいろな機会に語った事柄はたいへんな量になる---義和団の立ち上がった原因、生活規律、服装、各地の戦闘の状況、落垈や郎坊の戦い、紅灯照、清朝政府の事、義和団が敗れたあとの事、等々。PP.327-328

 

 正直なところ、どうしてそれをそのままの形で文字にして残してくれなかったのか、という気もする(翻訳されていないだけで、採集した内容はそのまま残っているのかもしれない。未確認)。

 

 武術の世界でも、近年、激動の時代を生きた多くの武術家や武術関係者による「口述史」が世に出ている(注)。 代表的なのは映画監督兼作家の徐皓(浩)峰が形意拳家の李仲軒の口述をまとめた『逝去的武林』に違いないけれど、このブログでは張山の口述記録らしきものや、戴国斌『新中国武術発展的集体記憶 一項口述史研究』についてメモした。

 武術家の口述記録を残す際には、「義和団民話」のように整理する人間が妙に智慧を働かせて加工をしないで、せいぜい「注釈」をつける形で、ありのままの記録を残してほしいし、そういった記録を公開してほしいものだと思う。

 

 そういえば、かつて来日指導したこともある上海の徐文忠は、国民党時代に上海市長の保鏢を勤めていたことから、中華人民共和国建国後もしばらく身元調査などをされたことがあったらしい。また、上海武術界では、王子平には呉誠徳という文章の書ける娘婿の弟子がいて、陰に陽に彼をサポートしていたようで、当時としては珍しい大学生(上海財経大学)でもある桂声万は、師匠の徐文忠に対して、その半生をつづるなど、自分にできることがあれば手伝いたいと申し出たことがあるらしい。桂声万の記録によると、徐文忠は、苦労した半生のことは自分としては話したくない。それについては百年後、娘婿の張先生が話してくれるだろうよ、というようなことを答えている。張先生というのは、張品元のことだろう。80年代半ばに徐文忠とともに来日され、演武を見たことがあるけれど、帰国後何年かしてお亡くなりになったと聞いたときには驚いたことを覚えている。その早すぎる死(何歳だったんだろう)によって、徐文忠老師の激動の武術人生が語られないままになってしまったのだとすると、なんとも残念な気がする。

 

〇「全国優秀武術輔動員」桂声万の回想録

 ネットで読めるこういった文章は個人的に文句なしに面白いと思う。

六十年代时,徐文忠老师对我说:“王子平虽然是我的长辈,他原是练石担和摔跤的,他有女婿吴诚德帮他写文章,把他赞扬成武术英雄。你是我的学生中唯一成功的大学生,我要靠你来写文章呀”。其实我知道,仅从武术水平上来看,徐文忠的确是很强的。但王子平当年组织武林人士与洋大力士交量,确实可称为民族英雄。在讲政治讲历史的六十年代,确实无人可以与王子平相提并论。至于徐文忠则因在敌伪时期,曾在吴世宝手下做事,至少还有该避之嫌。我大学毕业后分配到北京工作,后又文化大革命,与徐老师失去了联系。四人帮打倒后,政治空气有了明显改变。我利用到上海出差的机会,找到徐文忠家,再次提到想替徐老师写经历。徐文忠老师一口拒绝。他说:“现在不少媒体,武林杂志等都来采访我,我一律不接待,至多同意照张像。我在有生之年,不再谈自己的一生,等百年之后,由我的女婿张老师对外公布吧”。

全国千名优秀武术辅导员桂声万回忆录 (转贴) 

 以下は、このメモを書きながらたまたま見つけた記事中の写真。 記事によると、これは、広州体育学院武術学院院長の李朝旭らが行っている、広東南拳の口述史研究プロジェクトの一環で、「粤西洪拳」の調査を行ったときの写真らしい。

 

〇「湛江粤西洪拳」の張老師、御年103才の写真。

出典:https://wemp.app/posts/71a57b74-821d-4170-8b6c-e89d05512e57?fbclid=IwAR0L8ZlJaDrzq_fGwtfHlHRsBk06-_PmaaP886U06Epn6qhxSskBeCocGB0

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義和団民話集―中国の口承文芸1 (東洋文庫 244 中国の口承文芸 1)

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