中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

『北京籠城 北京籠城日記』、寧夏馬家軍、『国術理論概要』など

少し前に、義和団事件の北京籠城を題材にした松岡圭祐の小説『黄砂の籠城』『黄砂の進撃』を読んだ。時々刻々の展開は手に汗握るもので、エンターテイメントとしては面白かったけれど、籠城の具体的な経過を含めて、なんとなく違和感があったので、手元にある柴五郎の評伝『守城の人』を読み返し、改めて図書館で、柴五郎自身による講演と服部宇之吉の日記を収めた『北京籠城 北京籠城日記』も読んでみた。やはり籠城の実際の過程や、清朝との交渉の過程はかなり違っていた。

あの手この手で籠城軍の北京退去を迫ってくる清朝とのやりとりや、天津に向けて放った密偵から籠城軍に、ときどき情報がもたらされるところなど、実際の事件の展開の緊迫感は小説にもひけをとらない。

 

北京籠城北京籠城日記 (東洋文庫)

北京籠城北京籠城日記 (東洋文庫)

 

 

講演のなかで、柴五郎は、清朝政府の中に主戦派と和平派があったことを反映してか、多国籍軍を攻撃した清の軍隊の中にも、まじめに攻撃していた部隊と、あまり真面目に攻撃してこなかった部隊があったといい、西北から来た董福祥の部隊に対しては「終始生命を顧みず真面目に戦っていた」と、同じ軍人として敬意を表している。(ただし、「将校の指揮が悪いのと、かねての編制訓練が整いておらぬため」、期待された成果が得られなかったとも述べている。PP.94-96)

 

少し話がかわるけれど、先日、たまたまSNSで、大刀を掲げた軍人らしい人物の写真が流れてきて、馬鴻逵と書いてあったので、調べてみたら、回族の軍人で、祖父の馬千齢の代から続く武門の人であることがわかった。

 

〇FBグループ「Chinese Military History Group」(管理人Thomas Chen氏)より

www.facebook.com

 

馬千齢の子で、写真の馬鴻逵にとっては叔父にあたる馬福禄は1876年の武挙人、1880年の武進士。義和団事件のときには、まさに上記の董福祥の部隊で、はじめは廊坊において天津から北京に救援に向かう連合軍を食い止めたあと、北京での籠城軍との戦いに加勢し、正陽門の攻防で戦死している。戦死したのは7月の雨の激しく降っていた日の戦いのようで、そういえば『北京籠城 北京籠城日記』にも雨の降る夜の攻防が何度かでてきた気がする(図書館で借りた本なので、今、手元にない)。馬鴻賓は彼の息子。

 

その馬福禄の弟で、馬鴻逵の父にあたるのが馬福祥。

14歳から武術の訓練をはじめて、1897年に武挙の郷試に合格している。義和団事件では、北京を脱出する皇帝・西太后らを守り、功をあげたらしい。辛亥革命後は甘粛や綏遠におり、直系と奉系の対立(第二次直奉戦争)では、直系から奉系に寝返った馮玉祥に従い、国民党が北伐すると今度は蒋介石に近づいていったのは、情勢を見るのに長けていたということか。

連合軍との戦いで戦死した兄とは異なり、日本との因縁は浅からぬようで、甘粛時代には、のちに溥儀の忠臣となる工藤忠が彼のもとで甘粛護軍使顧問を務めている(山田勝芳『溥儀の忠臣・工藤忠 忘れられた日本人の満洲国』)。短期間だけど、青島特別市長に任じているのも、前後の市長と同様、日本の意向がどこかに反映しているようにも見える。

…などと思っていたら、神保町でたまたまみかけた候敬輿・呉志青・異軍の『国術理論概要』に彼の題字があるのに気付き、特価でほぼ1000円だったので、まよわず購入した。この本の著者の一人・呉志青は西北国民軍で第五軍全軍武術総教練に任じたりしているけれど、上記のとおり、馬福祥は一時期、馮玉祥の国民軍と協調しているようなので、そのあたりの繋がりなのだろうか。(あるいは、馬福祥が、呉志青の出身である安徽省長を務めたあたりの繋がりか。いずれにしてもいろんな接点が考えられそう。)

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その他、1929年の国術游芸大会に際して揮毫したもの

出典:https://www.19lou.com/forum-381-thread-17801360856725651-1-1.html

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馬福祥の経歴はまだきちんと確認できていないけれど、義和団事件で戦死した兄とも、日本とは「勢不両立」という立場を貫いたと紹介される息子の馬鴻逵とも違っているようで、彼やその周辺について調べたら、この時期の日中交流や中国武術界について、いままで気づいてないことが見えてきそうな気がする。とりあえず新しい視点が得られたということで、メモしておく。

 

ちなみに、馬千齢から馬福禄-馬鴻賓、馬福祥-馬鴻逵と連なる、上記の寧夏馬家軍に対して、馬海宴-馬歩青、馬歩芳と連なる青海馬家軍がある。もとをただせば、馬千齢、馬海宴はともに同治年間の回民起義で馬占鰲の回民軍に加わり左宗棠率いる清軍と戦うが、のち清に投降して反乱鎮圧の中で出世しているよう。主要な人物の姓がみんな馬で、じつにわかりにくいけれど、とっかかりとしては、以下の記事がわかりやすくて参考になった。

西北军阀发家史,马鸿逵与马步芳原来不是一家人

 

 

zigzagmax.hatenablog.com

 

2019.3.16

馬福祥の国術游芸大会への揮毫を追加