中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

「鉄羅漢」張長発

前回、朱国福について調べていて、『中国武術人名辞典』の朱国福の項に、12歳から馬玉堂について形意拳を学ぶ前に張長発に少林羅漢門拳術を学んだ、と出ていたので、その張長発について調べてみた。

張長発は「鉄羅漢」の異名をもち、程廷華に八卦掌を学び、その後、楊家禎、劉殿琛に形意拳を学んだ人だということはわかったけれど、あまり少林羅漢門とは関係がなさそうだった。もしかすると、「鉄羅漢」という異名から、少林羅漢門の人ということになってしまったのだろうか。ちょっと見ただけでも不確実な情報が詰まっていることがわかる『中国武術人名事典』なら、そのぐらいの間違いがあってもおかしくないと思えてしまう(注)。

 

張長発と朱国福の関係については、前回もメモした「形意魂」の記事に、「因马玉堂与铁罗汉张占魁情谊深厚,朱也拜张占魁为师学习八卦掌等拳术。」とある「鉄羅漢張占魁」が「張長発」の誤りだと考えれば腑に落ちる。

 

(注)

ただし、朱国福の娘の朱慶霞も、2012年の峨眉武術シンポジウムで、(ただ単に世間の評判をそのまま受け入れて述べただけかもしれないけれど)朱国福は1902年に張長発に羅漢拳を学んだと述べている模様。(【纪念会专文】朱庆霞:我的家人

 

 〇左から王継武、馬玉堂、張長発

  出典:捜狗の張長発のページ 

  http://baike.sogou.com/v235574.htm

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張長発の経歴の細部については、まだよくわからない点も多いけれど、とても興味深いものがあると思ったので、いくつかの記事の中から主な経歴をメモしておくと以下のとおり。

 

 ・もとの姓は「田」で生まれは定興県界河鋪村。家が貧しかったために、三才の頃、新城県巨水営村の張家に引き取られて張長発と名乗ることに。(朱氏兄弟の本籍も河北省新城県なので、ここにも両者の接点がある。)

 ・道端で泣いていたところを(一説では、張家では虐待され、河に身を投げて死のうと思っていたところを)、北京から商売に来ていた印刻の楊宝斎に助けられ、北京にゆき、篆刻を学ぶ。

 ・楊宝斎の刻字鋪の近くに国術館があり、訓練をのぞき見しているところを見とがめられ、とっさの言い訳で弟子になりたかったのだといい、これが幸いして入門が認められる。入門が認められたのは八卦掌の程廷華で、三年にわたり学ぶ。

 ・三年後、程廷華の口利きで某王府の用心棒になる。

 ・義和団事件程廷華は落命)後、河北の実家に戻り、農業に従事しつつ、新城県の形意拳家の楊家禎に学ぶ。

  (この間、神弾子李五の弟子の魏占奎から弾弓、黄三太の後継者から軽功を学んだとされる。武侠小説『三侠剣』の登場人物に黄三泰(太)というのがいるようだけど、それとは別なのかな?)

 ・1920年(1910年とも) 保定師範大学の国術教師に招かれる。深県に形意拳家の劉奇蘭がいることを知って訪れ、認められるが高齢のため三子の劉殿琛(文華)から教えを受ける。

 ※このあと、具体的な時期は未確認ながら、劉文華の紹介で山西の閻錫山軍営の国術団営長に任じ、短期間で離任したあと清華大学国術老師に任じた模様

 ・1929年 河北省省長から史家陳区長を委任される。

 ・1930年 北京師範大学国術老師、清華大学国術老師等に任じる。

 ・(9.18後ということなので1931年以後)張作霖府の武術教師となり、張学良、張学思、張学明らに武術を教える。張作霖の死後は再び実家に戻る。

 この後の動きはあまりよくわからないけれど、日本占領地域で不本意に協力させられながら、地下活動者を助けていたというような記述も。

 

 ・中華人民共和国成立後は、80歳近い高齢ながら、県の政治協商会議委員に選出されるが、のち文化大革命に到り「富農」のレッテルを貼られて批判され、1965年に絶食して死に至る。享年91歳。

 

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幼い頃の出来事から、晩年まで、なんとも波乱に満ちた人生であることに驚かされる。

晩年が文化大革命の時期にあたったせいか、家族のもとには張長発の遺品はほとんど残っていないらしい。ご先祖様についての記録を纏めたいと、すでに高齢の娘をはじめ親族一同がスポンサー集めのために出演した地元テレビ番組の動画がある。

張長発の娘で出演当時88歳の張玉梅が、手をかそうとする家族の手を振り切って立ちあがり演じる形意拳は見事。

  

 〇張長発の娘・張玉梅をはじめ子孫たちが出演したテレビ番組(動画あり)
www.baguaxing.com

 

以下は比較的まとまった情報が得られるページのリンク。互いに矛盾するような内容も一部あり、読み取りには注意が必要。

人物について調べていて不満に思うのは、ある武術家が何かの役職についたとして、離任時期について書いてあるものがほとんどないこと。今回の例でも、1920年に保定師範の国術教師に任じたとして、いつ離任したのか、清華大学でも教えたとして、いつからいつまでなのか、などよくわからない。戦争や内乱の時代でもあるし、気に入らなくなったら辞めちゃうとか、田舎に帰っちゃうという世界なのかもしれない。

 

 〇搜狗百科の張長発のページ 

baike.sogou.com

〇程廷華に師事したとき、程は70歳ちかかったとか、脚色が多い(1848年生まれ、義和団事件のとき1900年になくなったとして、せいぜい52歳。3年にわたって学んだのだとしたら、出会ったときはまだ40代のはず)けれど、読み物としては面白い

jiyi.chnart.com

 

www.ok-v.com

 

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ちなみに、張長発のもとの生まれである定興県は中華武士会の「定興三李」が出たことでも有名。

 最近、SNSデューク大学にあるSidney D. Gamble という人の写真コレクションについての情報が流れてきたので、調べてみたら、ほんの一部ながら、武術の写真も含まれていた。撮影場所は河北省定県(いまの定州市)と書かれていて、一瞬、張長発の出身地(定興県)と勘違いしたけれど、定県と定興県は別なのでぬか喜びだった。 ただ、このコレクションには、武術以外にも人物とか神像とか、興味深い写真がいっぱい。

王樹田の祖籍も定興県で、彼が師事した朱国福は「表兄」にあたる。 

 

デューク大学のSidney D. Gambleコレクションから

撮影場所は定県とされる武術の写真

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Martial Arts — 武术 (630-3682) - Sidney D. Gamble Photographs - Duke Libraries

 

〇一番上の写真の馬玉堂の子・馬元基の動画

v.qq.com

v.qq.com

〇同じく一番上の写真の王継武の「大弟子」張宝

www.youtube.com