中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

曹錕とその周辺

慈禧太后西太后)の寵愛を受けていた太監の安徳海が失脚した事件に関係して、長春ら南皮出身の武術家があやうく巻き添えを食いそうになったことを以前にメモしたけれど、この事件のことをもう少し精しく知りたくて政協南皮委員会編著『南皮 千年文化古県系列叢書 伝統武術巻』をとりよせてみた。

 

残念ながら、安徳海の事件に関しては、ネットで得られる情報にとどまっていて、より精しい情報は得られなかったものの、日本でも名前の知られている霍殿閣や劉雲樵(ともに李書文の門人)をはじめ、当地ゆかりの流派や武術家が多数紹介がされていて参考になった。

 

なかでも、一時は中華民国の大総統曹錕の護衛も務めた、王連峰という武術家については、いままで全く知らなかった。王連峰については、以下の記事にも精しいけれど、武術好きで知られる曹錕が、武術教官の佟忠義(注1)に命じて武術家を集めて勝負させた結果、王連峰が曹錕の護衛長になったのだという(注2)。

 

www.chinesekungfu.com.cn

 〇王連峰

出典:政協南皮委員会編著『南皮 千年文化古県系列叢書 伝統武術巻』

f:id:zigzagmax:20190602133133p:plain

1923年10月に曹錕がイカサマ選挙の結果、中華民国の大総統になると、部隊と護衛隊も保定から北京に移動するけれど、翌1924年の馮玉祥による北京政変で曹錕は失脚、幽閉されたのちに天津の英租界で晩年を過ごす。

その生活は、早朝、庭で武術を練習したあと部屋にもどって気功をし、朝食を食べたあとは書画の練習に明け暮れていたらしい。

www.chinanews.com

 

ところで、以下の記事によると、曹錕が、馮玉祥の北京政変で拘束されたとき、曹錕の護衛隊は最期まで武装解除せず抵抗したのだという。具体的な名前はでてこないけれど、護衛隊のなかには、当然、上記の王連峰がいただろうし、郭寿臣(衛士長は、王連峰ではなくこの人だったという説も。注2の記事参照)、曹錕の「貼身護衛」(郭瑞生『通臂二十四勢』P.9)だった郭長生も含まれていたのではないかと思われる。


曹錕の失脚に伴い失職した王連峰はその後、呉佩孚から出仕の要請もあったようだけれど、「二君に仕えず」という「愚忠思想の影響」(『南皮 千年文化古県系列叢書 伝統武術巻』P.176)もあり、一時は一番年下の娘を身売りして生活費を得るなどの困窮した生活を送ることになったらしい。その後、天津で開灤鉱務局局長に武術教師として招かれ、ようやく生活が安定する(同上)(注3)。

 

郭寿臣は幽閉を解かれた曹錕同様、天津に移ったようで、天津特別市国術研究会(1930年11月設立)の幹事、北寧国術研究会(1932年6月成立)会長、中華国術学会天津分会(1941年設立)の理事に名前が見える(すべて同一人物なのかどうかは未確認)。

www.chinesekungfu.com.cn

 

郭長生も、1927年に中央国術館の「第一期訓練班(教授班)」に参加するまで故郷に帰っていたようだけれど、『中央国術館史』の郭長生伝では、鹿鐘麟の護衛を暫くの間務めたと紹介されている。あまりにもさらっとした書き方だけれど、鹿鐘麟は馮玉祥の五虎将の一人で、曹錕を捕らえ、護衛隊の武装解除を命じた、まさにその人。なぜ郭長生がその鹿鐘麟の護衛として残されたのかわからないけれど、曹錕の部隊で劉玉春らの教えを受けて頭角をあらわし、護衛もつとめることになった郭長生としては複雑な気持ちであっただろうし、嫌気がさして実家に帰ってしまったというのはよくわかる気がする。その後、中央国術館でも名を上げるのはよく知られているとおり。

 

なお、曹錕の大総統就任に伴い、保定から北京に移った武術家の中には、苗刀を伝えた静海の任向栄、劉玉春、張景元、岳徳恩の四人もいる。任向栄が劉玉春らを伴って曹錕の部隊で教官になるのは、1920年、直隷督軍署から静海県署への、三度にわたる公文書による要請があってのことのよう(注4)。北京政変後はいずれも故郷の静海に戻って旧業に復したという(注5)。旧業とは任向栄の場合は木桶などの製作、岳徳恩の場合は靴づくりを指すのだろう。

1925年に、任向栄の弟子の劉樹年のもとを、上海から佟忠義が訪れて国術館の設立を促したことが1926年の静海国術館の設立に繋がるらしい。

そういえば、この前後の佟忠義の動きは、注1にもまとめたけれど、よくわからないところがある。大胆に想像してみると、1922年に一度上海に出て武術団体を立ち上げたものの、すぐ保定に戻ってきたのは、世話になったことのある曹錕がいよいよ出世しそうになったからで、1923年の大総統就任後は彼も保定から北京にゆき、政変の影響で1925年に上海に戻ったということではないのかな。そして、少し生活が落着いたところで、静海に、任向栄らの安否を確認に来たと考えると合点がゆく。

〇任向栄と劉樹年

出典:楊祥全『津門武術』

f:id:zigzagmax:20190602133556p:plain

 

軍閥混戦期には、軍閥の盛衰が、関係する武術家の生き様に直接影響を及ぼしたことだろう。曹錕の台頭と失脚という事件だけ見ていても、それにかかわった武術家のそれぞれの生き様が伺え、無理とは知りつつも、それぞれの生き様をもう少し精しく知りたい。

 

それにしても、関係各位の伝記は少しずつ話が盛られているようで、肩書きや年代が微妙に違っており、なかなか正確なところがつかみにくい。それはそれで、個々の武術家やその門人による、生き残るための駆け引き、セルフプロデュースの一部であり、仕方のないことだけれど、まったくみんな油断も隙も無い(近代武術史はその辺が面白かったりもする)。

 

(注1)

『中央国術館史』の佟忠義伝によると、佟忠義が直隷督軍曹錕部衛隊で「武術摔角教官」になったのは1918年。その後、呉橋県保衛隊隊長をつとめたあと、1922年に一度上海に出て忠義国術社を設立、保定に戻って陸軍軍官学校の武術摔角総教官をつとめたあと、再び1925年に上海に出たと紹介されているけれど、忠義国術社の設立は1925年のはずで、1922年に設立したのは忠義拳術社が正しいと思われる。忠義拳術社と忠義国術社の関係は未確認。

 佟忠義の曹錕のもとでの役割も、武術営での営長と書いてあるものもあれば、営の下の連長となっているもの、そもそも武術営ではなく、侍衛隊の教官であったとするものなど資料によって書きぶりが異なっている。

中国人民政治協商会議天津市委員会文史資料委員会編『近代天津名人叢書 近代天津武術家』所収 楊祥全・孫金生「苗刀大師任向栄」に、民国十一年(1922年)四月に佟忠義と任向栄が共同で出したとされる声明が紹介されているけれど、それによると、その時点での佟忠義の肩書きは「衛兵連兼武術連長」。(任向栄の肩書きは総統府武術隊総教練で、声明の並びは佟忠義の方が上。ただし、曹錕がイカサマ選挙で中華民国の総統になるのは1923年10月のことで、1922年4月の時点で任向栄が上記の肩書きであったというのは、やや理解に苦しむ。)

 

 以下の記事の孫玉銘伝では、武術「連」に入隊したと記している。

cztongbipigua.com

 

(注2)

記事によって、この選抜の過程で王連峰と霍殿閣の勝負があり、勝った王連峰が曹錕の護衛、負けた霍殿閣が天津に移って溥儀の護衛を勤めることになったと記しているものがあるけれど、両者の勝負があったとされる時期、霍殿閣は東北で許蘭州の部隊にいたはずで、この勝負があったという説自体にやや疑問が残る。さらに、曹錕の侍衛長は王連峰ではなく郭寿臣とする記事もあり、どの説が正しいのか現時点ではよくわからない。

 〇 郭寿臣が護衛長であったする記事は、例えばこれ。記事では「衛士長」。

 ただ、曹錕が部分的に曹琨になっていたり、曹錕が武術「営」に著名武術家として郭長生を招いたと書いていたり、記事自体の信憑性は低いといわざるを得ない。(ただしくは、郭長生は曹錕の武術「連」に入隊して劉玉春らの指導を受けて頭角を現したということになるはず。)

 

wemedia.ifeng.com

 

(注3)

 国民党の北伐軍との戦いで、呉佩孚の「大刀隊」は後退してくる味方の兵士を斬ることになったらしい。もし呉佩孚の求めに応じていたら、そんな役回りを担っていたとも限らず、それはそれでよかったのでは、と思ってしまう。

(北伐・賀勝橋の戦いでの敗走)

 呉佩孚は、大刀隊のほか、憲兵隊、学生隊などを後方に配置し、大崩壊を食い止めようとした。しかし、すでに逃亡兵が波になって押し寄せてきている状態になった。大刀刀が抜刀し、見せしめに十人以上の将校を殺した。

 呉佩孚は「退却は許さぬ。容赦しない」と叫び、何人かの首を電柱に掛けさせた。だが、効果はない。司令部督戦隊の機関銃が持ち出され、全力で退却してくる自軍の波に向けて火を噴いた。 

 潰走する兵士たちは、逆に、味方の機関銃に向けて突撃しなければならない羽目になり、吶喊を上げ、所詮は威嚇部隊にすぎない少数の大刀隊、督戦隊を蹴散らした。数万の兵士がそのまま消えたという。

杉山 祐之『覇王と革命: 中国軍閥史1915-28』PP.322-323

 

(注4)

中国人民政治協商会議天津市委員会文史資料委員会編『近代天津名人叢書 近代天津武術家』所収 楊祥全・孫金生「苗刀大師任向栄」。だとすると、郭長生が1916年に曹錕の部隊に入ったとして、劉玉春に師事するのは、少なくとも1920年まで待たねばならないことになるのだろう。

なお、楊祥全『津門武術』は、曹錕が保定で軍中に「武術営」を作ったのは1921年前後とする。

中国武術百科全書』や『中央国術館史』は苗刀「連」だけど、これもいつのまにか苗刀「営」に格上げ(水増し?)されている。

 

 

(注5)

「静海苗刀话源/孙金明」

 1924年10月,冯玉祥发动北京政变,将曹锟赶下台后,任、刘二位师兄弟返回独流故里,各操旧业并传授武艺。

静海苗刀话源/孙金明 - 天下武林网

同じ著者の別の文章では、以下のようにしるしており、少なくとも任向栄は旧業に復してないじゃん、とツッコミをいれたくなる。

 任向荣和刘玉春、张景元等1924年从北京返回独流后,不再攒筲,和老伴儿织席维持生活,徒弟刘树年等也时常接济些钱物。

独流苗刀大师任向荣传(1852--1930) ——中国武术在线 名人名家