中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

万楽剛『張之江将軍伝』など

たまたま見つけた張之江館長の伝記のキンドル版を読んでみた。

 

〇張之江将軍伝。English Edition と書いてあるけれど、実際には中国語簡体字

?之江将?? (English Edition)

?之江将?? (English Edition)

 

 

 

愛国軍人としての歩みの紹介がほとんどで、館長を務めた中央国術館についての記述は、70%ほど過ぎたところからようやく始まり、分量としても1割程度だった。

しかも、第一回国術国考で王子慶が第一位になったとか、ベルリンでは張文広が少林拳を演じたとか、ヒンデンブルク体育館での一行の演武をヒトラーが見ていて、とくに傅淑雲の演武を見て立ちあがって拍手したほか、隣にいた「本届奥運会執行主席」の「李徳華博士」に、「こんな小柄な東洋の女の子の武芸がこんなに優れているとは思わなかった。本当に素晴らしい(原文:没想到这些矮小的东方女子武艺这么好,真了起)」と語り、撮影を指示した・・・などと、かなり不正確なことが書かれていた。

 

王子慶が一位になったのは杭州の国術遊芸大会。第一回国術国考は15人の「最優等」を選出しただけで、第一位は存在しない。

 

国術代表団はいろいろなところで演武をしているけれど、管見の限り、張文広の伝記『我的武術生涯』①にも、劉玉華の「六十年風雨道」(雑誌『中華武術』1998年12月号②)にも、作家の鄭光路が鄭懐賢らへの聞き取りをもとに書いた「中華武術在1936年柏林奥動会」にも、「武術文史研究」のフェイスブックのページで紹介されている当時の記事にも、「ヒンデンブルク体育館」なる会場での演武の話は出てこない。

一行が演武した場所には、ハンブルク動物園(7月25日。②、③。①と④では同日の演武場所は「万国拳撃表演台」という、やや曖昧な表現に)とか、ベルリンの2万人収容の露天劇場(③ 注1)などがあり、後者にはベルリン市長が列席している。

「オリンピック委員会主席」の「李徳華博士」とは、誰のことをいっているのかよくわからないけれど(肩書と一致しないけれど、リーフェンシュタールの事を言っているのかなあ)、調べてみると、昌滄の「南京中央国術館始末」(昌滄『余生迹』所収)にも、上に仮訳したのとよく似た、言葉が記されている。ただし、述べているのはヒトラーではなく「本届奥運会主席」(「執行」の二字は無い)の「李徳華博士」(注2)で、ヒトラーが同席していたとは書かれていないし、昌滄が引いている「李徳華」の言葉は、正確には「没想到中国武术这么高超,真了起」で、女の子云々という言葉は無い。

いずれにしても、このあたりがごっちゃになって、「ヒンデンブルク」「体育館」での演武を「ヒトラー自身」が称賛したような話になってしまっているように思われる。


演武内容も、演武内容が少林拳だとすれば演者は金石生、演者が張文広だとすれば「査拳」が正しいはずで、いずれにしても不正確なところがある。

 

・・・といった具合なので、この本に、張館長の来日時に赤い和服を着た柔道家・佐藤二郎が天皇の前で楊法武と戦ったという張館長の訪日紀行文にも書かれていない、ただの噂話と思われる逸話がそのまま紹介されているのも仕方ないことなのだろう。

 

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 軍人としての経歴の部分については、コメントできるだけの前提知識がないけれど、郭松齢事件で本来、仲間になるはずだった李景林を攻めて、敵にまわしてしまったことについては、杉山祐之『覇王と革命』とは違って、馮玉祥が裏切ったというよりは、馮玉祥の第1軍、第2軍(張之江らは第3軍)が指示に従わず李景林を攻めてしまった、と若干言い訳めいた描き方になっている気がした。

その李景林と張之江の関係についても、もう少し「肉声」が伝わってくることを期待したのだけれど、その点についてはあまり収穫なく、残念だった。

 

ちなみに、北京政変で曹錕にかわって北京に駐在した鹿鐘麟は、故宮から大量の貴重品を私物化したよう。1926年の4月には、奉軍との戦いに備えて北京を離れたようで、郭長生が彼のもとを離れて故郷に帰ったのはこのタイミングかもしれない。

 

著者については、よく知らないけれど、張之江の血縁の人のようで、「世間では〇〇のように言われているが、それは誤りであり、真実は××である」的な記述も随所に見られたけれど、こと中央国術館の部分については、もう少し調べて正確なことを書いてほしかった。

 

(注1)

日付不明。ただし、前後の文脈からすると、フランクフルトやミュンヘンでの演武の評判を受けて、オリンピック委員会が正式な演武の機会を設定したと記されており、当初は一行によるオリンピック会場での正式な演武は予定されていなかったことになる。これが事実なら、それはそれで大きな問題。

 

(注2)

この言葉は、昌滄「南京中央国術館始末」からの引用として邱丕相と郭玉成の「武术在国际传播的历史、现状与未来」(「体育学刊」2002年11月の第 9巻第6期)にも引用されているけれど、昌滄の原文は代表団の男性メンバーを張文広、温敬銘、鄭懐賢、金石生の四人と明記しており、張爾鼎、寇運興は参加すらしなかったことになっている。予選は以前メモしたとおり7単位25名の選手が参加したはずだけれど、この文では「100多位」が参加したことになっているなど、やや不可解なところがあり、学術論文で引用するのはいかがなものかと思う。 

そもそも昌滄は雑誌『中華武術』の初代編集長だけれど、研究者ではないので、武術プロパーの研究者たちには、もう少し頑張って、客観的な事実に基づいて事実を掘り起こしてほしいと思う。

 

〇昌滄『余生迹』