中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

馮驥才『三寸金蓮』など

馮驥才が 天津の市井を題材にした「怪世奇談」三部作のうち、未読だった『纏足(原題は『三寸金蓮』)』を読んでみた。

 

纏足を愛で、纏足についての薀蓄(「蓮学」)を競いあう男たち、そんな男たちや、同性の女性たちの視線を気にする纏足の当事者である女性たち、孫や娘のためを思って娘(孫)の足を纏足にする肉親・・・それぞれの利害や意地の張り合いがときに残酷に、ときにコミカルに描かれていて面白かった。

 

主人公の戈香蓮は、天津の骨董品屋の当主にその脚を見初められ(顔の美醜は関係ない)、次男(長男は亡くなっているので、実質的には跡継ぎの長男)の嫁になるのだけれど、佟家のご婦人たちが、当主の趣味で纏足の「美」を競いあう場面は、単に形(靴)の大小や形状、刺繍だけでなく、身のこなし、歩の進め方、果ては「毽子」の技を披露する様子まで描かれていた。これって、バレエシューズとか、バレリーナがつま先で歩くのと、実は同じ趣向じゃないかと思ったら、後半に、纏足復活派の主張の形で、そのような観点が示されていた。

 仮に定めよう、纏足の女子は自然の美を取り去らしめ、不自然ならしめたと。さにあらば、時髦女子(モダンガール)の電髪や束胸(コルセット)、高踵靴(ハイヒール)をなんとする。これが自然に逆らわぬ物という勿れ。然るにこれは皆舶来の品、外国勢力の強きに押され、中国は西洋の悪習を時髦(モダン)として学んだ為也。若し中国が世界第一の強国であったなら、外人が女の纏足を真似ぬと断言できようか。 文庫版(以下同じ)P.335

 

そのこととも関係するけれど、この本では、人びとの価値観が大きく反転する時代を背景に、美醜のみならず、真偽まで含めて、すべてのことは相対的であり、プラスの面とマイナスの面があるということを言っているように感じられた。

 

・・・真(ほんと)あれば偽(うそ)あり、偽(うそ)あれば真(ほんと)あり、真(ほんと)が多けりゃ偽(うそ)が減り、偽(うそ)が多けりゃ真(ほんと)が減る。この真偽という舞台の上で、神代の昔から原子力の今日に至るまで、踊ったり歌ったり、一幕また一幕、一場また一場と休む暇なく、まったくどれだけばかを演じてきたことでしょうか。手練手管の持ち主は、偽(うそ)を真(ほんと)に見せ、ちょいと腕の達(た)つ人は、偽(うそ)と真(ほんと)を適当に混ぜあわせ、そして頭が悪くて目のボケてるあなたは、その偽(うそ)を真(ほんと)と思いこむわけ。まあまあそんなにいきり立たないでください。世間のほとんどの人は生涯、偽(うそ)を真(ほんと)と思っているんです。死ぬまで真(ほんと)を知らずにいたのなら、偽(うそ)もまた真(ほんと)になったというものではありませんか。真偽という二文字を、まじめな人はそれぞれを見きわめようとし、聡明な人はその間で苦悶し、またある類の人は、それを使ってメシを食っています。こちら天津、宮の北大通りの古美術商養古斎の佟の大旦那はそのひとり。・・・PP42-.43

 

 ちなみに、その、佟家の大旦那(佟忍安)によると、ほんものとニセモノをわけるポイントは、「神(しん)」であるという。

…神(しん)は偽物にはありません。真物(ほんもの)にこそ神(しん)があるのです。この神(しん)はどこから出てくるものなのか。山には山の気脈がありますが、紙にそれを描き出すことはできません。しかし、真の描き手が描くならば、山から受けたその気脈を、描き手自身を媒体として描くことにより、淋浪とした水墨の中に山林の気の力がよみがえってくるのです。これこそが心の気、胸の内の気であり、神気(しんき)なのです。偽物には絶対にあろうはずもないものなのです。P.119-120

佟忍安は別の場所で

形は得やすくとも、得がたきはその神髄なり P.89

 

 

纏足―9センチの足の女の一生 (小学館文庫)

纏足―9センチの足の女の一生 (小学館文庫)

 

 

とも述べる。このあたりは、武術を見る目にも通じるところがある気がする。

ただ、そのうえで、どんな優れた文化にも長所と短所があることは肝に銘じておくべきなのだろう。あんまり盲目的に、信者のように、〇〇が一番、〇〇が最高、といい、一切の批判を受け付けないようなのは避けないといけないだろう。

 

 世界のどんな民族も、いかに偉大なる文化を創造しようとも、それには

プラスの面とマイナスの面が、あたかも紙の両面のように存在する。両者は一卵性双生児であり、たがいに依存するものである。どのように輝かしい文化にも劣悪な陰の部分があるものである。作家たるもの、ここに果敢に挑戦し、勇気をもって暴露し、声を大にして世の人々に警鐘を鳴らさなくてはならない。文化の栄光にひたすら陶酔するのではなく、文化の悪しき根が現実社会で発作を起さないようにしなければならないのである。

P.393「文庫版あとがき 日本の読者へ」 

 

 あまりこのブログと関係のないメモになったけれど、女性武術家の伝記の中で、尚芝蓉は危うく祖母に纏足にされそうになったことは以前にメモした。

 つい先日メモした、寇運興の教え子の郭力(郭増蓮)が、92歳当時、武術人生を振り返った「我和我的武術活動」(『河南文史資料23期』(2003)所収)はまだ読んだことがないけれど、この文章を引用していると思われる楊剣利の論文「近代中国社会的放足运动」によると、郭力も幼い頃、纏足をされそうになったようだ。

 

その他、ベルリンに到着した劉玉華は、現地の人びとに、脚をじろじろと見られ、不思議に思った劉玉華が通訳の留学生に尋ねたところ、当地の人びとの間では、中国の女性はまだ纏足をしていると思われていると説明されたことを記している(「六十年風雨路」)。

 もっとも、『笑っていいとも!』で、オスマン・サンコンが日本に来る前に、日本人はちょんまげをして刀を挿しているといっていたような気がするので(うろ覚え)、そのぐらいでは驚くには値しないだろう。

 

 纏足とその反対についての歴史は、『結社の世界史2 結社が描く中国近現代』所収の高嶋航「女性解放への歩み 戒纏足会/天足会/不纏足会」も参考になった。筆者は、「従来、纏足解放は女性解放運動の起点の一つとみなされてきた。この見方は纏足が打倒されるべき「陋習」と位置づけられることによって初めて意味をもつ。纏足が極めて精巧な文化だとしたら、こうした見方は当然成り立たない」といい、「近代以来「陋習」に貶められた纏足が再評価され始めたのは、一九九〇年代に入ってからである」として、「その先陣を切ったのは西洋の研究者であり、なかでもドロシー・コーの功績は大きい」(前掲書PP.166-167)としているけれど、小説「三寸金蓮」は1987年に雑誌『収獲』で発表されると「たちまち中国の文壇にセンセーションを巻き起こし、激論が戦わされた」(原著者による文庫版あとがき)とのことなので、纏足とその文化を見直す動きは、もう少し前に中国国内ですでに起こっていたようにも読める。

 

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結社が描く中国近現代 (結社の世界史)

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