ベルリンオリンピックの国術代表団4 幻の山東代表? など
山東国術館について紹介した記事を見ていて、以下のような記述があるのに眼がとまった。
…据张香圃(济南太乙门传承人)回忆:(1985年《少林武术》第三期记载)1936年林秉礼、佟顺禄、张香圃、马洪智、赵玉庭五名山东选手被选拔为参加第十一届奥运会的“世运选手”,前往德国柏林进行武术表演,服装做好以后,因为经费得不到解决未能成行,抱憾终生。
1936年のベルリンオリンピックの代表選抜については、以前に予選参加者までメモしたけれど、そのときに見たウェブ上の文章(原典不明)には、駐日留学生監督处を含む7機関と、25人の予選参加者の名前があったものの、山東から予選参加者がいたとは書かれていなかった。
代表選抜の経緯から、最終的には実現に到らなかったということなどわからないけれど、とりあえずメモしておく。
名前のあがっている5名のうち、林秉礼(字は経三)は第2回国術国考の拳術甲等で第一位、佟順禄は1935年の中華民国第六届全国運動大会の摔跤中量級で、卜恩富、宝善林に継いで第三位に入賞者している。張香圃というのは太乙門という流派の人らしい。のこる馬洪智、趙玉庭についてはいまのところ手がかりなし。
〇 林秉礼
〇佟順禄
〇張香圃
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冒頭の「旧山东省国术馆风云逸事」の記事で改めて気づかされたのは、山東省国術館と馬良の軍士武術伝習所(技術隊 1914設立)、山東武術伝習所(1917年設立)の関係。武術伝習所の活動は1925年まで続いているようだけれど(注1)、山東省国術館の設立は1929年4月だから、山東省国術館が武術伝習所の活動を直接に引き継いでいるわけではないけれど、山東省国術館で副館長の竇来庚は高鳳嶺が武術伝習所で教えていたときの弟子であるなど、一定の関係があることが改めてわかった。
なお、山東武術伝習所の教官の中に王子平の名前が見えるけれど、王子平は『中国武術百科全書』の昌滄による人物紹介に
光绪二十六年(1900)义和团失败,他亦因避嫌出走济南。初以行商为业,往来各地,每到一地,多着意寻访武术名家,求学各门技艺;后弃商从戎,投济南镇守使马良兴办的军事武术传习所学习,从执教该所的查拳大师杨鸿修精习査、滑、炮、洪等拳及弹腿诸艺技。
とあり、軍(士)武術伝習所を経て山東武術伝習所の教習になったことがわかる。このことについて書いてある資料が少ないように思うけれど、それは最終的には漢奸として捕らえられ獄死した馬良と王子平の関係を敢えてわからないようしているのかもしれない。
なお、ここでは詳しく書かないけれど、李景林が設立間もない中央国術館を離れて山東省国術館館長に任じた経緯についても諸説あるようで、李景林の青幇大字輩としての身分や「武當剣」めぐる思惑との関係で論じたものなどがあり(注2)、とても興味深いと思う。なにが正しいのかまだよくわからないけれど、そのあたりも含めてちょっと注意しておきたい。
(注1)
以下の記事では、1922年12月に「解散」し、総教習の韓愧生をはじめ、教習の王子平、楊明斎、恒秉毅などは青島に定住し、韓愧生は国技学舎、王子平は中華武術社を設立したと記しているけれど、張健『斉魯講武史話』では武術伝習所の活動は1925年までとしており、1922年以降も上海の全国武術運動会(1923)、第十一届華北運動会(1924年4月)、第十二届華北運動会への参加の事例が紹介されている。このあたりは要確認。
〇張健『斉魯講武史話』
(注2)
李景林的青帮身份与国术界地位と同ブログ内のほかの関連した文章を参照。
李景林が青幇の一員であることは、渡辺惇「都市下層民と幇会・黒社会」(天津地域史研究会『天津史』所収)でも言及されていた。