中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

杉山祐之『覇王と革命』など

 昨年末のメモで、軍閥抗争時代に嵩山少林寺に火が放たれてことに関して、当事者といえる石友三や樊鐘秀などについて調べた際、これは軍閥時代のことを一通り学びなおさないといけないと感じたので、地元の図書館にあった『覇王と革命』を読んでみた。

 この本が判り易くて面白い思っていたら、地元には無かった、同じ著者の『張作霖』がオフィス近くの図書館にあったので、こちらもつづけて読んでみた。

 

覇王と革命: 中国軍閥史1915-28

覇王と革命: 中国軍閥史1915-28

 

 

張作霖:爆殺への軌跡一八七五‐一九二八

張作霖:爆殺への軌跡一八七五‐一九二八

 

 

『覇王と革命』は2012年の出版で、『張作霖』は2017年の出版。

 描かれている時代的にも内容的にも両者で重なる点は多いものの、前者は中国国内の各軍閥の動きを追うことにほぼ集中しているのに対して、後者は奉天張作霖との関係にほぼ限定される形ながら、関東軍を中心に当時の日本との関係も精しく述べられていているので、とても参考になった。

 

 『張作霖』の最期で、筆者は張作霖の人物評価に関して以下のように述べている。

 共産党が歴史を支配する現代中国において、張作霖の評価は複雑に揺れている。

 共産党を敵視し、弾圧した事実からすれば、張作霖は反動軍閥であり、打倒されるべき敵だった。日本と結び、日本の力を利用して成長した経緯に目を向ければ、「売国行為で成長した軍閥」となる。満洲であの権益拡大を図る日本に激しく抵抗した姿に焦点を当てれば、「愛国軍閥」だ。共産主義イデオロギーの権威が失墜し、党が愛国主義ナショナリズムを政治的求心力として利用するようになった近年は、「愛国者」の側面が強調されているように思う。

 張作霖は生前、こう話していたという。

 

 馬賊になる、土匪になるなど大したことではない。事が成れば王となり、敗れれば賊になるだけのことだ。何とでも言える。だが、何があっても漢奸(民族の裏切り者)になってはならない。死んだ後もののしられることになってしまう。

 

 日本にも、ソ連にも頑強に抵抗した張作霖が、民族の大義というべき伝統的な価値観に忠実であったのは、間違いない。だが、それは数千年にわたる厳しい対外戦争を経験してきた漢民族の掟を守ったと言うべきであろう。プロパガンダを弄する後世の独裁政権が、自らの都合で「愛国者」であるかどうかを判定しても、何の意味もない。『張作霖』P.327 

 

 同じような評価の難しさは別の人物の評価にもあてはまるだろう。

 たとえば、この本の著者はソ連コミンテルンの支援を受けながら軍事強行路線を主張する孫文に対して、省ごとの自治をベースにした合衆国的な国家構想をもち、広東にそのモデルケースを作ろうとしていた陳烔明の立場を、より高く評価しているようで、そうした観点から、孫文からの無謀な徴税に広州の資本家たちが反対した1924年の「商団」事件についても、わりと孫文に批判的な観点から説明されていた。

 

 ちなみに、広州の「商団」の会長で、商団事件で孫文から逮捕令を出される陳廉伯は、1919年4月の広東精武分会の成立大会に参加している。成立大会には広東商団から、団長の陳廉伯以外に副団長の簡経綸(上海精武会董事)も参加しているほか、そもそも広東分会の設立準備は西瓜園の商団公所で進めらるなど、精武会の広東分会は広東商団と関係が深く(注1)、商団事件が広東精武会や、商団に関係した武術家に与えた影響も少なくなかったと考えられる。実際に黄飛鴻などはこの事件で、「宝之林」の扁額が焼けてしまったことがショックでなくなったという説もある(注2)。このあたり、精武会が錦の御旗のように掲げる孫文との関係も、時代によってかなり微妙であったのではないかと思われ、あまり通説を鵜呑みにしないで、自分で調べてみる価値がありそうな気がする(でも、どこからどうやって?)。

なお、事件後、陳廉伯は租界経由で香港に逃れている。

 

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 孫文と同じくソ連の援助を受けて、結果的に国民党政権の成立に貢献する馮玉祥についても、比較的冷ややかな評価をされていて、「利を得るためには、人を簡単に裏切り、殺す。」とされる(『張作霖』P.236)。武術史とも関係の深いところでいうと、奉系の郭松齢が馮玉祥と結んで張作霖に謀叛を企てた際、李景林は郭松齢の側についたのだけれど(この事件の顛末は、とても参考になった箇所の一つ。ちなみに、李と郭の二人はともに、中国国内で軍事教育を受けており、日本で最新の軍事知識を学んだエリートたちからは一段低く見られていたところが共通している)、馮玉祥に裏切られて根拠地としていた直隷に攻め込まれ、慌てて張作霖の側に戻る。

 郭松齢の反乱は短期間で平定されるものの、いったん郭松齢、馮玉祥と結ぶ動きを見せた李景林に張作霖が心を許すはずもなく、李景林は張作霖によって直魯連合軍を解任される。

 彼がほどなくして上海に居を移して武術(国術)の普及をはじめるのは、このように、軍事的な出世の道が閉ざされてしまったことと関係があるのだろう。そのように考えてようやく彼の行動が腑に落ちるところがある。

 李景林はやがて、張之江(蒋介石とも)の再三の呼びかけに応じて中央国術館の副館長に任じたとされるけれど、実際には館務に協力していなかったとの説もある(注3)。

 実際のところ、杭州の遊芸大会に協力したり、山東国術館の設立で存在感を発揮しているように見えるのに対して、中央国術館自体の活動に深く係っているようにはみえない。このような曖昧な関与の度合いも、自分の人生を狂わせた(といってもいいだろう)馮玉祥が中央国術館の幹部に名を連ね、その右腕だった張之江が館長を務めていることを考えると、合点がゆく。もちろん、このあたりは自分の勝手な妄想にすぎないけれど、このあたりも何か手がかりがあれば調べてみたい。

 

〇馮玉祥の動画

www.youtube.com

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 なお、20年代軍閥の動きについて、ある程度頭に入ってきたおかげで、この時代にの出来事の真偽について、多少カンが働くようになった。

 たとえば、以下の引用記事ように、「20余歳」の常東昇と、河北省(当時は直隷省)省長の李景林が出会うことはあり得ない。なぜならば、李景林が河北(直隷省)主席であったのは第二次直奉戦争に張作霖が勝利したあとの1925年のことで、その頃、常東昇はまだ13歳ぐらいで(同じ引用記事によれば1912年生まれ)、まだ地元の保定で修行中であったはず。

 この記述、何等かの史実を反映しているのだとすると、1931年に李景林が山東省「主席」の韓復榘に招聘されて済南に逗留し、山東省国術館の創設に携わっていた間のことではないかという気がする。山東省国術館は保定の大先輩の馬良の武術伝習所がその全身で、保定から多くの先輩たちが招かれていたし、田鎮峰らによって、のちの簡化太極拳のベースになる太極拳の研究もここで行われていたので、その可能性はかなり高いのではないか。もっとも、李景林は同年11月には亡くなっているので、仮に両者の間に交流があったとして、その時期はかなり絞りこめるような気がする。

 

 常東昇在 2 0餘歲時在河北保定小有名氣,打鬥罕逢敵手,聲名傳到李景林將軍耳中,李將軍便請他到北京觀察武術訓練,當時李景林是河北省主席,擅長推手,與人交手從未落敗,便問常對推手的看法,常東昇說,那只是別人為了服從而裝輸而已,李聽了非常震驚,便向常挑戰,結果常東昇用了摔角技巧把李景林摔倒,李對常東昇的摔角技巧非常訝異,後來常東昇教李景林一些摔角,而李景林以太極拳作為回報,兩人便合作將李將軍的太極拳
為今日的常氏太極拳

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(注1)

張雪蓮『佛山精武体育会』PP.18-25。

さらに溯れば、そもそも上海における精武体育会の成立そのものが、民族資本家による自衛組織である商団の形成と関連しているように思われる。

〇関連する過去メモ。

zigzagmax.hatenablog.com

zigzagmax.hatenablog.com

 

 

なお、改めて陳公哲『武術発展史 精武会50年』を確認してみたけれど、広東精武会の設立についてのあまり精しい記述はなかった。

 

(注2)

 百度百科の黄飛鴻の項目に以下のようにある。以前には同じような内容が、日本語のウィキペディアのページにもあったように思われるけれど、改めてページを開いてみたら、その情報は確認できなかった。

 另一说1924年10月 北伐之前广州国民党割据政府镇压商团暴乱,西关一带房屋被毁,仁安街“宝芝林”受累被焚,资财付于一炬,其长子汉林又告失业,因而忧郁成疾。次年农历三月廿五日(1925年4月17日),病逝于广州城西方便医院。

黄飞鸿(清末民初武术家)_百度百科

 

(注3)

林伯原『近代中国における武術の発展』341ページの注22

 「・・・1927年軍界を脱し、張之江等の人物と南京で国術研究館を設立した。翌年改組されて中央国術館となると、李は副館長となったが、実際には着任して事務を行っていなかったとの説もある。」

 

 2019.3.17

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