中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

佐倉孫三「拳闘」(『臺風雜記』(1903)所収)など

佐倉孫三は二松学舎の三島中洲の門人。警察関係のキャリアを積みつつ、言論家としても活動していた。台湾に二回(1895~1898、1912~1915)、福建(1904~1910)に一回赴任しており(注1)、『臺風雜記』は1895年~1898年の最初の台湾駐在中の見聞を漢文で記したもの。110の逸話からなり、各逸話は彼自身が記す概要と、彼の友人(橋本武、細田剣堂、山田済斉及び『臺灣新報』の台湾人記者のいずれか)による評によって構成されている。110の逸話のうち、最後の話以外は、台湾にいた間に書かれ、その一部は赴任中から『臺灣新報』に掲載され、1903年までに最終稿に整えられたようだ(注2)。

「拳闘」は41番目でボクシングではなく、当時の台湾の武術のこと。

 

出典:台風雑記 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

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台湾人は文事を修め、武備を廃したというが、すべて廃したわけではなく、「拳闘」を行う者がいるが、これは我々の柔術のようなもので、初めは単独で行い、熟練したら対抗して行う。その様子は、一方が守り、一方が攻め、あるいは実を避け虚をつき、あるいは突撃し跳び蹴りの状をなす。満身に気を蓄え、眼光するどく口を結び、これもまた体力を養うに足りるものである。拳闘とは、武秀才が武を養うためのもので、石を持ち上げたり弓を射るのと並んで課されるものだという。

と概要が示されたうえで、評では、漢籍に撃刺などの語をみるたびに、かの文弱なお国柄において、果たしてそれはいかなるものか、あるいは武を衒うためのでたらめ(「誕語」)ではないかといぶかっていたが、まったくのでたらめではないことを知った、と記している。

 

というのが大まかな内容。かの国、と言っていることから、この項の評を書いたのは、4人のうち、台湾人記者を除く、日本人3人のうちの誰かということになるのだろう。

 

林美容「宗主国の人間による植民地の風俗記録  ---佐倉孫三『臺風雑記』の検討---」は、佐倉のふるさとの『二本松市史』によりつつ、彼が書や剣道に秀でた人物であったと記しているけれど、実際、警察の仕事をしていることや、言論家としても尚武精神山岡鉄舟に関する著作があることから、そのことは十分に伺える。

保定の蓮池書院主講から京師大学堂(北京大学の前身)の総教習となった呉汝綸が、教育視察のため1902年に来日した際、三島中洲は20人あまりの門人と歓迎会を開催しており、門人の一人として佐倉孫三も写っているけれど、誰よりも目立つ体格をしていることがわかる。「拳闘」で台湾にも武術があったのかと驚いている評者自身が、きっとこの写真に写っている人たちのように、佐倉と比べれば文弱な文化人にしか見えないのは、なんだか皮肉っぽい(注3)。

 ちなみに、このときの来日には、呉の門人でのちに李存義口述『五行拳譜』をはじめ中華武士会の教材を編集・記録する書家の杜之堂がいるはずだけれど、武術談義などにはならなかったのだろうか。

 

〇出典:「平成28年度 二松学舎大学資料展示室 企画展図録
三島中州と近代 其四 ---小特集 戦争と漢学」

https://www.nishogakusha-u.ac.jp/library/pdf/kankobutu_05.pdf?fbclid=IwAR1zFbXfp89ZBVTFiiepz1NswziJahFGWA0E_GshC1FRLWhAvgJXah0-aMY

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佐倉孫三は前列一番右。ほかの人と体格が一回り違う気がする。



三島中洲が呉汝綸の歓迎会を催したのは、門人の一人・野口多内が蓮池書院で学んでいたことによる繋がりだという。

野口の名前は義和団事件のときの「義勇隊」の中にも見えるけれど、この時の肩書は、服部宇之吉の『北京籠城日記』によれば、外務省留学生。

このあと、野口は書記生として、福州公使館付になっている。

アジア歴史資料センターの公文書の中には、福州で、水道工事のために清朝側と折衝した記録が多数残っているけれど、あまりこのブログとは関係なさそうなのと、文字が判別しにくいので目を通していない。ただ、同じファイルの中に、清朝側から警察学校設立のため、日本から教員を招聘したいという話が出ており(明治36(1903)年7月1日福州発の公文書の一部)、これが佐倉の赴任の発端であると思われ、興味深い。もしかすると、野口を通じて、三島一門の中から人選されたのだろうか。(野口自身はその後も奉天居留民会会長などを務めており、大量の公文書が残っている。)

 

再び 佐倉孫三に戻ると、佐倉は晩年、最初の台湾赴任より前の明治23(1890)年、千葉県の佐倉警察署で警部をしていたころの部下で現金護送中に銃で撃たれて落命した部下の鈴木巡査を偲ぶ文章を残しているのだけれど、その文章を読んで、この鈴木巡査が、戸塚揚心流の戸塚彦助(介)の門人で免許をもっており、「剣術は夏目又之進(警視庁武術世話掛の一人だった夏見又之進の誤り)の門人で却々の腕前、水練は笹沼八郎の弟子で傑出の士」であった鈴木清助のことだということがわかった。このエピソードは福州赴任中に、警察官たるものの模範として、現地の学生にも語ったのだという。

壮烈美譚鈴木巡査 - 国立国会図書館デジタルコレクション

揚心流の技は、深井子之吉によって帝国尚武会の神道六合流に取り入れられている。ということは、北京の警務学堂や天津武術会、上海の「虹口道場」で野口清が教えた技もその流れをくむものなのだろうか。いろいろと妄想が膨らむ。

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佐倉は福州での見聞(出版時期からして、赴任期間全体の振り返りではなく、赴任当初の見聞を記したもの)も残しており、国会図書館の提携館閲覧資料の中に含まれているけれど、コロナ騒動で地元の図書館も閉館しているので、調べにゆくことができない。この件以外にも、この騒動のおかげで、調べたいことがいくつか滞ってきている。

 

(注1)

佐倉の経歴は以下のサイトを参照した。

誠之館人物誌 「佐倉孫三」 警察官、漢学者

 

(注2)

林美容「宗主国の人間による植民地の風俗記録  ---佐倉孫三『臺風雑記』の検討---」(『アジアアフリカ言語研究』71号 2006年所収)

 

(注3)

なお、この写真の中には、鳥取県倉吉市出身の細田謙蔵も写っている(一列目の一番左)。彼は神道無念流の有信館に入門しており、彼が富山に宿泊したときにそこで丁稚をしていた中山博道に有信館を紹介したのだという。一列目の両脇を、武道の心得のある二人が固めているのは、ボディーガードのようで面白い。