中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

岡崎由美『漂泊のヒーロー 中国武侠小説への道』

友人から長らく借りている本。この本に限らず、勉強になる点が多く、ポイントが絞りきれない本ほど、メモが纏められず、後回しになっている気がする。

とはいえ、「●●さんへ」、という著者直筆サイン入りの本をいつまでも借りておくわけにもゆかないので、改めて読み直したうえで、若干無理やり備忘録にしてみた。

 

1.武侠小説の登場と「武林」概念の形成
 このブログの観点から、一番興味深かったのはこの点。「武士道」、「武侠」といった言葉・概念が日本から清末民初の中国にもたらされ、それまでの侠義小説や剣侠小説(どちらかというとファンタジーに近い。後述)を土台として武侠小説というジャンルが形成される。そして、その中から「武林」ということばがでてきて、あまたの流派は少林派と武當派に収斂され、両者が武林の盟主を競っているというような、武林観が形成されてゆく。このあたり、もちろん一部は現実の武術界に取材しているのかもしれないけれど、どちらかというと言論やイメージが現実を追い越してしまっている面があるのではないかと思う。
 ちなみに、最近FBで流れてきた台北大学の陳大為教授の論文「刀背藏身──論徐皓峰對民初武術世界的還原與重構」は、そのあまりにも虚構がかった「武林」の世界に囚われない武術界を描こうとしている作家として、徐皓峰を取り上げたもの。
 
  以下、興味深かった箇所の引用。
 「武侠」という言葉の由来は、しばしば『韓非子』の「儒は文を以て法を乱し、武は侠を以て禁を犯す」が引かれる。しかし、現在のところ、清末以前に「武侠」という一単語で使われた形跡は発見されていない。これに対して、台湾の葉洪生『武侠小説談芸録』(一九九四年、台湾聯経出版事業公司)が、
 ①「武侠」の二字を一つの単語として初めて用いたのは、梁啓超が横浜で創刊した雑誌『新小説』に一九〇三年(正しくは一九〇五年)掲載された定一の「小説叢話」である可能性が高いこと
 ②梁啓超自身も一九〇四年に著書『中国之武士道』自序において「武侠」の語を使っていること
 ③これに先立つ一九〇二年、押川春浪の『武侠の日本』が刊行され、人気を博していること
 ④押川の『武侠艦隊』を翻訳した東海覚我(本名徐念慈)が一九〇八年、雑誌『小説林』第九期に押川春浪武侠小説を紹介していることから、「武侠」は日本人の造語であり、渡日した中国の知識人によって中国へもたらされたのではないか、との見解を示した。p.211
 
…「武林」という言葉は、文壇を示す「文林」に対して民国期に作られた造語である。武芸界のことだ。初めて「武林」という言葉を使ったのは白羽で、この段階ではほぼ「江湖」にかわる用語として用いられている。また、白羽は、超自然的な剣法を排し、拳法を中心とした現実的な流派や技を描いている。
 しかし、「武林」は、剣侠小説で芽生えた疑似家族的師弟社会を強化する方向に進み、様々な武芸門派が武芸の修練自体を人生の目的とする武林社会を生むに至る。「武林」という用語を使わないうちから、平江不肖生も環珠楼主も顧明道も、剣侠小説のイメージをベースに、崑崙派だの峨嵋派だの、剣術門派が抗争する世界を描いていた。これに現実の武芸界を加えた門派社会が「武林」として定着するのである。
 叔父弟子に甥弟子からいとこ弟子まで関係づけることによって、武芸の流派は成り立つ。各流派には代々受け継がれる独自の掟があり、目上に逆らうことは許されない。ここには破門もある。江湖は盗賊にでもなれば自動的に構成員になる世界だから、そこで生きている限り、破門もへったくれもないが、武林の破門は『仙侠五花拳』に見たとおり、死をもっての粛清を意味する。
 また、流派間のステイタスの優劣も生まれ始めている。旧派武侠小説では、さまざまな架空の流派が創作され、正邪優劣の別がつけられ、武芸流派間の対立が盛んに描かれるようになった。
 この二つの世界観は、必ずしも対立するものではない。江湖というのは、武侠小説のヒーローが生活する基盤、すなわち「官」に対する「野」の世界であり、武林はヒーローの武芸を支える武術界そのものである。在野に限らず、捕快(役所の捕り手)のように一応宮仕えをしている者もある。また用心棒や大道武芸者、盗賊など武芸そのものを身すぎ世すぎの手段とする者もあれば、商売をしたり地主であったりと、江湖では別の家業を持ち、武芸はそれを極めるためにこそあるという者もいる。しかし、その結果、小説の中では武林という世界が、かなり浮世離れした生活感を感じさせないものになっているのも確かである。
 この江湖と武林がおおよそ以下のように重なりあって、武侠小説のヒーロー世界はできている。
 
 ・江湖は現実社会の下敷きがあってそれを誇張したもの。生活感を持った職業社会(盗賊も社会の裏稼業)である。武林は武侠小説が作り上げた一種のファンタジアである。武芸によって義侠の行いを広め、門派の名誉を高揚すること自体がライフスタイルになっている。
 ・江湖は異性義兄弟社会を基本観念とする、比較的大雑把な横並び社会だが、武林は疑似家族的師弟社会を基盤として、上下関係に厳しい階級社会である。ただし、仲間を害するものを敵とする考えは共通。
 ・アウトサイダー世界の江湖は、足を踏み入れるのに資格など必要のない、弱肉強食の世界だが、武林は「名門流派」や正邪の別、はたまた文武両道の教養など、ステイタスが付加価値として問われる世界である。したがって、江湖の世界では名を馳せた強者でも、武林では素性がよくないとして仲間扱いされないグループが出てくる。ただし、正義は勝つ。
 ・江湖は流れ者の香具師的世界だが、武林は各流派が領主のように各地に基盤を持つ。侠客が放浪の旅に出ても、破門されない限り必ず帰るところがある。究極の原型は仙境から光臨して悪を退治し、また仙境に帰っていく剣侠である。江湖に生きる緑林の好漢も縄張りを持っているが、稼ぎが悪くなったら根城を移せばいい彼らに対して、武林の流派は、「峨嵋派」だの「青城派」だの「崑崙派」だの山名を冠した流派が多い通り、土地との結びつきは強く、一門の聖地を失うことは、武芸者としてのアイデンティティを失うことに等しい。
 
こうした世界観が武侠小説における恩仇、対立抗争を生むことになる。例えば、職業上の対立、正派と邪派の対立、流派間の正統性や優劣を巡る対立である。pp.227-230
 
  引用ばかり続くけれど、これに関連してもう一箇所、興味深かったところ。程大力の『中国武術 歴史与文化』を引用するところあたり、さすが目が行き届いている気がする。
 剣侠小説では、師弟関係に基づいた「同門」の人間関係が明瞭になってくる。これは当然のことで、そもそも道教や仏教の教団における人間関係が、師弟を軸にできている。中国古典小説では神仙が、本来仙籍に入るべきでありながら俗塵に囚われている人材の迷妄を開き、出家させて弟子にするという話が珍しくない。早い話が現実の布教活動の投影である。(略)
では、緑林の豪傑、市井の侠客たちの武芸世界はどうだろう。現実には、宋代の都市には弓や槍、相撲など武術の民間団体が出現し、明代になると様々な流派が形成されてきた。程大力『中国武術 歴史与文化』(一九九五年、四川大学出版社)によれば、明清時代における武術流派の隆盛と宗族的な結社組織の隆盛は偶然の産物ではなく、父子直伝の相続的師弟関係によって、秘伝の技を含む流派の利益、アイデンティティを守ろうとするようになったのだという。つまり、武芸が結社団体内部で秘密化することによって、多種の流派の分立を促したとのことである。
 しかし小説において、好客侠客が師弟関係によって絆を結び、敵と戦うという構造は、相当あとにならないと出てこない。『水滸伝』にはあれほど様々な武芸が出てくるけれども、緑林の好漢たちの間に師弟関係という発想はない。誰に武芸を教わったかなぞ、大して重要ではないのである。九紋龍史進は王進に武術を教わるが、王進に対して恩義は感じていても、師弟の絆で縛られているわけではない。その点、道士の公孫勝や僧侶の魯智深と比べるといい。公孫勝梁山泊から援助を請われるたびに、師匠の羅真人に許可のお伺いを立てねばならない。あの荒くれ法師魯智深とて、兄弟弟子なぞ眼中にないものの、師匠の智真長老には頭が上がらない。師弟関係が、どういう社会をバックグラウンドにして機能するかは明瞭であろう。『三侠五義』など、剣仙剣侠の出てこない侠義小説においても、侠客社会における師弟関係は希薄である。家族の影が薄い独り者の男たちの世界には、師弟関係という擬似家族的な発想も入り込みにくいらしい。(pp.15-158)
 
 

2.太行山関係

 以前に、高島俊男『水滸伝の世界』を読んだときに「関羽が太行山で山賊の一人になっていた可能性だってあったのかもしれない」と書いたのだけれ、『三国志演義』の成立過程で、実際にそのようなストーリーの物語(元の至治年間(1321-1323)に刊行された『全相三国志平話』)がうまれていることが紹介されていて(p.68-72あたり)面白かった。

いろいろな意味で興味のある関羽関羽信仰の関連でメモ。

 

3.「女剣劇」について

 「女剣劇」に登場するスーパーウーマン、一般的には「巾幗(きんかく)英雄」、著者の言い方では中華美少女戦士について、女将タイプと女侠タイプにわけられる、としつつ一章をたてて紹介されている。この辺について調べたくなったら、ここに戻ってくるとよさそう。

 

4.呪術的要素 マジック的要素

 3.とも関係するけれど、楊延昭の押しかけ女房の一人、黄瓊女はもともと西夏国の王女で、遼に加勢して宋軍を悩ませており、「宋軍を阻むため、惜しげもなく裸身をさらして呪術を操っていた。異民族のシャーマンである」(p.176)らしい。 なぜ裸身をさらす必要があるのかは、不明。

 

 また、武侠小説の成立に先立って形成された剣侠小説は霊剣を鍛えて耳やら口や鼻から自由自在に出し入れしたり、空中を自在に往来させるのが剣侠であって、武芸のなかでも剣術は別格、俗世を捨てて、道家の修行をしなければ見につかない特殊な技、というのが前提となっている。それが清末にいたり、ようやく

 (1)剣侠の活躍する舞台が、世俗の人間社会になった

 (2)チャンバラ活劇らしくなり、格闘シーンが詳細に描かれるようになった

 (3)師弟関係に基づく武芸の門派意識がはっきりしてくる

といった特徴を見せ始める(pp.153-154)ということだけれど、ここではやはり清末民初以前は小説において武芸を描く際にも、実際の技術と呪術、マジック的要素の境界があいまいであったらしいことを確認しておきたい。

 

 ちなみに、澤田瑞穂『中国の呪法』も、宋の大中祥符二年(一〇〇九)二月十日の「禁約河北民棄農学禁術詔」に「禁術の方、撃刺の術は、既に南畝(農耕)に縁なきのみならず、実に斉民に乱あり。言(ここ)に僻違なるを念(おも)ひ、用(も)って科禁を申(の)ぶ。その河北諸州の軍民戸、農業を惰棄し、禁術・槍剣・挑棒の杖を学ぶもの、自今は緒(これ)を県の令佐に委ねて、常に切に覚察せしむ。違ふ者は論じて法の如くせよ。情重きものは、その衆に令せしを以ってせよ」とあるのをひきながら、「禁呪の方と刀槍・棍棒などの武術とを並列するのは一見奇異のようであるが、これは歴代その例を見るように、游民無頼の輩がこの迷信と武芸との二法を用いて衆を惑わし、ついには白蓮教式あるいは義和団式の民間邪宗門となって宗教的擾乱にまで防ごうとした処置であったと思われる」(pp61-62)と書いている。

 

5.済公

 中国の大衆に人気のヒーローの一人として、済公が紹介されている。済公は道済禅師という、宋代に実在した僧侶だけれど、「悟りすました威厳のある僧侶」ではなく、酒や肉を食らい、風狂の行いのはだはだしい、トリックスター的ヒーローとして、何度も映像作品化されているらしい。その済公、法名は道済だけれど、常識やぶりの言動によって、「顛(=瘋癲)」の文字をつけられ、「済顛」と呼ばれたという。

 これで、『逝去的武林』でも紹介されていた形意拳・象形拳の薛顛のことを思い出した。

 顛の字が共通しているというだけだけれど、兄弟弟子の傅昌栄との腕比べに負けてしばらく身を隠し、のちに五台山の虚無上人霊空長老のもとで修行してきたといって戻ってくるなどの奇行(といっていいのか?)のイメージが重なってみえた。

 

6.マカオでの決闘と武侠小説

 この対決については、すでに動画なども公開されてはいるけれど、現実の武術界の対立をちゃっかり武侠小説の売り込みに使ってしまうという点が面白いと思った。

 

 一九四九年、中華人民共和国が成立したのち、武侠小説は封建的な思想を持つ有害書とされ、一九五一年から全面的に発禁処分となった。しかし、武侠小説はしぶとかった。

 一九五四年一月十七日、マカオで武林の決闘が現実のものとなる。太極拳白鶴拳が対立し、初めは新聞紙上で互いに相手の武芸を謗り合っていたのが収まらなくなり、ついに実力で勝負をつけようということになったのである。小説の中では門派の抗争が日常茶飯事だけれども、現実にそうお眼にかかれるものではない。第一、香港では決闘は禁止されていた。このため、わざわざマカオまで出向き、チャリティーの名目での公開試合となったのである。

 香港・マカオのマスコミは盛んに宣伝し、人々は興奮した。五〇年代の香港は比較的世情穏やかで、こういうセンセーショナルな出来事が話題の中心にならないわけがなかった。観衆数千人の見守る中、太極拳の呉公儀と白鶴拳の陳克夫の対決は、パンチを食らった陳克夫が鼻血を流し、ものの数分で終了したが、その翌日には日刊紙『新晩報道』紙上に武侠小説新規連載の広告が載った。そして決闘の興奮さめやらぬ三日後に、梁羽生の武侠小説『龍虎闘京華』の連載がはじまった。梁羽生---当時『新晩報』の記者であった陳文統の筆名である。決闘のわずか一、二時間後、『新晩報』の編集局長羅孚に口説き落されたという。武芸はまるで門外漢だった三十代の梁羽生は、これがきっかけで武侠小説作家の道に入り、武侠小説の開祖と言われることになる。新中国成立後の武侠小説、すなわち新派武侠小説の始まりである。

 梁羽生の武侠小説は大当たりを取り、たちまち他紙からも執筆の依頼が来るようになった。一人ではとても身がもたない。そこで、羅孚は武侠小説ブームを盛り上げ、『新晩報』の発行部数をもっと伸ばすために、第二の人選を考えた。一九五五年、『新晩報』で金庸武侠小説『書剣恩仇録』が新たに始まった。金庸とは『新晩報』の記者査良鏞の筆名である。金庸という筆名を初めて使って書いた、武侠小説の処女作であった。これもまた大好評を博し、のちに金庸は、武侠小説の集大成者と称されるに至るのである。p.238-239

 


1954 陳吳大戰: (太極拳吳公儀) vs 白鶴拳(陳克夫) 足版本- YouTube

 

漂泊のヒーロー―中国武侠小説への道 (あじあブックス)