中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 。頭の体操なので、たまたま立ち寄られた方は決して鵜呑みにしないこと(これ、肝要)※2015年2月、はてなダイアリーより移行

愛新覚羅・溥儀『わが半生』

 先日、大同公園事件について調べたくて図書館で借りてきた溥儀の『わが半生』、同事件以外にも霍氏一門についての記述がないか、など気になったので、頭から読んでみた。
 ただ、文庫版は上下二巻ながら小さめのフォントがびっしりで、紫禁城内の平面図などもはや文字が識別できなかったので、途中でちくま叢書版を古本で入手した。 (選書版には、訳者による「文庫版あとがき」がないのは当然として、本書の成立がわかる「『わが半生』の制作過程」が欠けていたので、図書館の本を返却する前にこの部分だけスキャンしておいた。)

 

  なんとか頑張って通読したところ、結論としては、武術に直接繋がるような記述はなかったものの、許蘭州とともに霍殿閣らが天津で溥儀の侍衛になるきっかけを作った商衍瀛、天津脱出時には車のトランクにもぐりこんだ溥儀のトランクを閉じ、新京では護軍の第2隊の隊長であった李国雄(「大李」)などが出てくるのは当然として、武術関係の書籍やサイトで霍殿閣が「ニ指神功」でたおしたとされる工藤忠こと工藤鉄太郎(これもまあ、溥儀の忠臣の一人だから登場して当たり前か)や、同じく霍慶雲が敗ったとされる岩田愛之助の名前まで出てきて、自分としてはとても興味深かった。

 岩田がでてくるのは概ね2箇所で、一回目は、フルネームはでてこないけれど、天津の潜伏先の張園で、岩田という国竜会会員による発砲事件があったとでてくる。2回目は鄭考胥が日本の本国の要路の支援を得ようとして来日して面会した人物として、鄭の日記の中に何度か名前がでてきて、その際にこの岩田愛之助こそが「私の窓の外で発砲した例の国竜会会員」と紹介される。この人物が、のちの伝承の中で、なぜか天津で霍慶雲に負けたことを恥じ、霍殿閣による溥儀への指導を盗み見ようとして捕まって強制帰国させられるが雪辱の機会を期待して武道の修行に励み、1935年に溥儀が来日した際に御前試合という絶好の機会を得てようやく雪辱を果す人物とされたのかはよくわからない。(少なくとも、80年代に書かれた小説『末代皇帝和他的御拳師』ではそうなっている。これが作者の斉鉄雄の創作なのか、巷の伝承を下敷きにしたものであるのか、詳細は不明。)

なお、外務省政務局長・阿部守太郎暗殺事件(1913年9月)で殺人教唆の罪に問われ服役していた恩赦を受けて釈放されるのは1925年、中国にわたる前の1927年7月22日に小川平吉のところに挨拶にきている(注)。

 ちなみに、溥儀によれば発砲事件の犯人が日本人であったのはどちらかというと意外だったようだけれど、この発砲事件以外にも(国民党・共産党をひっくるめた)革命党(上P.239)、「馮玉祥によって派遣された便衣の刺客」(上P.241)などの活動が噂されているなかで、警護を強化するために霍殿閣らが雇われたという流れのよう。

 なお、溥儀の側近の中でも鄭考胥が黒竜会会員と接点をもったのは、もとは羅振玉のおかげだったと溥儀は記す。

鄭・羅・陳の三人は三種類の異なった思想を代表していた。羅振玉は軍部と黒竜会の人物の言葉はすべて信用できると考えており・・・略・・・、陳宝琛は日本政府を代表する総領事館以外、ほかの日本人の言葉はまったく信じてはならないと考えていた。鄭考胥は表向きは陳宝琛にくっついて羅振玉に反対した。彼もはじめは司令部と黒竜会に疑いを持っていたが、羅振玉が吹聴するのと、黒竜会がむやみに無道なことをするのとをつうじて、東京方面のある種の勢力の動向を見てとり、日本当局の実際の意図を見てとり、最期には結局これは頼みとするに足りる力だと見てとった。そのため、彼はのちには各国の共同管理を追及する計画をしばらく見合わせることにし、もっぱら黒竜会と日本参謀本部とを訪ねるために、日本に赴いた。上PP.244-245

 

 新京で護軍の束ね役ともなる佟済煦はこのなかで鄭考胥によって抜擢された人物(上P.163)。

 

溥儀は、許蘭州からは、「小諸葛」劉鳳池という人物も紹介されている。この人物は溥儀にあうと「すばらしい自分の力量について吹きまくったのち、たちまち骨董・書画や金時計をいくらか自分に与えて、政権の座にある人物と連絡をとらせてくれと申し出た」(上P.229)とのこと。そのようにしていろいろと溥儀にたかった揚句、最期は愛想をつかされ、「のちに聞いた話では、彼は東北各地でゆすりをし、奉天系の万福麟に射殺されたということだった」(上P.231)。

 

その他、小ネタ的な部分で興味深かった点をやや断片的に思いついたままメモしておく。

・上巻の宮廷生活について記した部分では、関羽((護国)協天大帝関聖帝君)が信仰されていた様子が伺える記述が数ヵ所でてきた。例えば張勲の復辟事件の際、朝廷に、張勲の軍隊が政府軍に勝利したという噂がながれてきたきたときのこと。

 ・・・奏事処太監が「護衛軍統領」毓逖から上申した知らせを伝えてきた。「御主人さまに申し上げます。張勲の軍隊が勝利し、段祺瑞の軍隊は全面的に敗北いたしました」この知らせは太妃のところにも伝わった。話している間に、外の銃声と砲声はまったく聞こえなくなった。これで人びとは愁眉をひらいて笑顔を見せ、太監たちの作り話まで飛び出してきた。関老爺(関羽のこと)がまたがっている赤兎馬関羽の愛馬の名)が汗をかいた、関帝さまが姿をあらわして、陛下を加護してくださった、張勲はそれで段祺瑞をうちまかしたのだ、というのである。私はそれを聞くと、急いで関老爺のところへ行き、彼のその木彫りの乗馬をなでてみたが、からからに乾いていた。またある太監は、今朝、養心殿の西暖閣(西がわの居間)の裏手にガチャガチャいうかぶとの音をきいた、これは関帝さまがあの青龍偃月刀を取りにいったのにちがいない、と言った。そういう話を聞くと、太妃も私も欽安殿に行って叩頭した。その晩はみな安らかな眠りについた。あくる朝になると、内務府から本当の知らせが届いた。

「張勲はもうオランダ公使館に逃げました…」上P.107

・溥儀の祖父の数ある肩書のなかに「管理善撲営事務」というのがあるのも、なんとなく気になった。

・上述の商衍瀛は、清の遺臣で、頭のきれる実務官僚というよりは、いつも占いとか神降ろしに頼っていて、天津脱出後で一行が先行きを不安に思っているときも、現状分析などが何一つできず、溥儀が皮肉っぽく「(彼は)何一つ筋だった話はできず、この地方に神降ろしの祭壇がないことをなげくだけであった。祭壇があったら、きっと神様のお返事がもらえたのだろう。」(PP.295-296)と記しているのが面白い。天津の静園には神降ろしの祭壇があったことは以下の記述からもわかる。

・・・このような滑稽な神降ろし・人相見・八卦見・八字占い(生まれた年月日時の干支を示す八字によってする占い)等々が盛んなのは、当時においては怪しむに足りない社会現象だったが、張園ではとりわけ日常生活に欠くことのできない遊びだった。私がのちに住んだ「静園」には、家主の陸宗輿の設けた、神降ろしの「祭壇」があった。まさに、当時神降ろしや占いが私に与えた精神的力、私にたいして果した指導力は、教師やその他の側近たちの私にたいする教育にわずかに劣るだけだったといえる。私はつねにこの方面から得る「何年に運が開ける」「何の年に大きく発展する」などというたぐいの予言に鼓舞された。北京商会会長孫学仕は人相学に精通していると自称していたが、私の「お姿」から見て、いつ運が開け、いつ「大権」を握れるかを予言したことがあった。日本領事館のある人相見も、何年には私がかならず大事を成就すると言ったことがある。これらがすべて私を時代に逆行させた原動力だった。P.264

・天津に脱出してきた溥儀には、さまざまな軍閥が接近してくるけれど、最初にあったのは李景林だった。

・・・最初に私が会ったのは李景林だった。私が天津に来たときは、ちょうど呉佩孚を破ったばかりの奉天軍が天津を占領しており、奉天系の直隷督弁李景林はただちに地方官の資格で私にあいさつに来て、私にたいする保護の意思を示した。当時のあらゆる中国人将軍と同じく、彼らの軍法や政令は「租界」内には及ばなかったのだが。上P.212 

 

・なお、武術うんぬんとは関係なく、一番面白かったのは収容所生活の部分。特に、溥儀が肯定であったときに追従していた側近たちが、てのひらを返したような態度をとってゆくところ(李国雄などはその筆頭格)は、おそらくほかの書物で読むことは不可能なのじゃないかと思った。

収容所で告発状を書いて互いの罪を指摘しあうのだけれど、なかでも溥儀が一番「憎しみが行間にあふれて」いると感じたのは、李国雄の書いたものであったらしい。以下は溥儀が引用する、李国雄の告発状の一部。

 溥儀という男は残酷なくせに死ぬのをこわがっており、とくに猜疑心がふかくて、しかも術策を弄するはなはだしい偽善者です。使用人を人間扱いせず、なぐったりどなったりしましたが、それもこちらに過失があったからではなく、まったく気まぐれにやるのでした。彼が少しからだの調子が悪かったり、くたびれたりしていたら、召使たちこそとんだ災難で、なぐったりけったりするのは朝飯まえでした。しかし外部の人と会うときは、偽善も偽善、ありったけの愛敬をふりまいていました。

 刑具として、天津時代には棍棒や皮の鞭をつかいましたが、「満州国」時代になると、さらにさまざまな新しい趣向をこらしました。・・・

 彼はまわりの者をみんな彼の共犯にしたてました。だれかをなぐろうとするときに、まわりの者がいっしょに手だしをしないか、ぐずぐずしたりしていると、すぐぐるになってかばっているものとかんぐって、何倍もひどくなぐりつけたものです。甥や侍従で人をなぐらなかったものは一人もいません。十二、三歳であった周博仁という孤児は、なぐられて両足に一尺ほどの傷口があいて、医者の黄子正がニ、三ヶ月も治療してやっとなおったのです。その少年の治療のあいだ、溥儀は私に牛乳などをとどけさせ、そのうえ「平価はお前にほんとうによくしてくださるんだ。孤児院にいたらこんなにおいしいものは食べられないだろう?」と言わせました。P.159

李国雄の口述記録なども、結構ボリュームがあるけれど、通読したら面白い気づきがありそう。それはとりあえず、今後の課題にしておく。

 

 

わが半生―「満州国」皇帝の自伝〈上〉 (ちくま文庫)

わが半生―「満州国」皇帝の自伝〈上〉 (ちくま文庫)

 

 

 

わが半生―「満州国」皇帝の自伝〈下〉 (ちくま文庫)

わが半生―「満州国」皇帝の自伝〈下〉 (ちくま文庫)

 

 

(注)

小川平吉の日記による。山田勝芳『溥儀の忠臣 工藤忠』P.133参照。

この一文と注は2020.4.26加筆。