中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

大同公園事件(1937)

いくつかの文献・史料から、溥儀の「私兵」である護(衛)軍と、彼らが巻き込まれた大同公園事件に関する記述と、それに関連して、最近見つけた『満州国官吏録』に基づいて考えたことの、とりあえずの備忘録。

 

〇新京を紹介した動画 途中に、大同公園のボートのシーンがある

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1.愛新覚羅・溥儀『わが半生』

 ・・・六月二十八日、護衛軍の一部が公園に遊びに行き、ボートを借りることがもとで、私服を着た日本人と口論を起した。このとき、一群の日本人がワッと押し寄せてきて、有無を言わさず、なぐりかかった。彼らはせっぱつまって、武術を使って抵抗した。日本人は彼らをどうにもできないと見ると、シェパードを放ってけしかけた。彼らはシェパードを蹴殺し、重囲を突破して逃げ帰った。これが災難を招こうとは彼らは夢にも思わなかった。いくらもたたぬうちに、宮内府の外に日本の憲兵がやってきて、佟済煦に、今日公園へ行った護衛軍の兵隊を全員引き渡せと言った。佟済煦はすっかりおびえて、すぐにその護衛軍の兵隊たちを日本の憲兵に引き渡してしまった。日本の憲兵は彼らに「反満抗日」活動をしたことを認めろとせまったが、護衛軍の兵隊たちは認めなかったので、各種の拷問・虐待を受けた。このときになって、その兵隊たちはやっと悟ったのだが、この事件は関東軍が挑発したものだったのである。あの私服を着た日本人は関東軍がよこした男で、双方の乱闘での負傷者の中には、関東軍参謀が二人いたし、蹴殺されたシェパードは関東軍の軍用犬だった。PP.78-79

 護衛軍について

 護衛軍というのは、私が自分で金を出して作った部隊である。「軍政部」に所属して編制されていた「禁衛軍」とはちがっていた。私が当初これを作ったのは、単に自分を守るためだけでなく、私が前に溥傑らを日本へやって陸軍の軍事を学ばせた動機と同じく、これによって私自身の軍事的中核を育て、自分が掌握する軍隊の樹立を準備しようと思ったからであった。私のこの三百人の部隊は、すべて士官の基準に合わせて訓練された。護衛軍の管轄責任者だった佟済煦はずっと前に、関東軍はこの部隊を快く思わないだろうと言った。私は佟済煦の予感を、ずっと理解することができず、事件が起こってはじめてはっきり知ったのである。P.78 

 

2.郭文林供述書(郭文林筆供)

 郭文林は1932年3月、満州国の成立とともに侍衛処の侍衛官に任命されていたが、同年6月に、溥儀のいう「管轄責任者」の佟済煦の命を受けて、護軍統領に任命されている。これによると護軍は全部で二百四十人で、その三分の二はモンゴル族(郭もモンゴル族)、モンゴル系ダフール族、残り三分の一は皇族(宗氏)だったらしい。郭は、同年8月に、護軍統領のまま、禁衛歩兵団の団長を兼任。1935年10月から1年間、奉天の陸軍訓練専科で学習。36年10月からは侍従武官なので、大同公園事件の37年7月時点では護軍を離れていたと思われる。

 

 一九三二年六月受伪满执政府警备处长佟济煦的命令兼护军统领,护军统领的职务是担任执政府的警卫、指导、教育、训练。我到任时护军还未成立,我到任以后佟济煦(此人已死)的协力指导之下开始编制。由于佟济煦拜托我通过伪满兴安东分省长额勒春和伪满兴安北分省省长凌陞二人由该两省招募来二百余名的蒙古、达呼尔族的青年。招来后成立统领部(直属于伪满执政府警备处),统领一人郭文林、副官一人、军需一人。成立护军:第一队队长是吴天培上尉(已死),一百二十名;第二队队长李国雄上尉,一百二十名,共计二百四十名。护军的三分之二是蒙古人、达呼尔人,三分之一是宗氏。我时常对护军讲话,题目是护军的任务是重大而光荣、日满亲善、友邦日本之强大。以上是我在护军统领期间内活动的事实。・・・

http://www.krzzjn.com/html/77522.html?fbclid=IwAR035JApa6I5uXLfynnz2JGPtepXthO55UYlUCyRxrS92miIAy-s-fgQ_4Q

 

 3.笠尾恭二『少林寺血闘録』

 ここでは、逆に護軍とは何かの説明から。(その前に、正規軍の一部である禁軍の説明がある。)護軍の構成に関しては、2.の郭文林の説明とやや異動があり、第一隊約100名がすべて「八極ドラゴン」であったという説は、やや疑問が残る。

五郎 禁衛軍は正式の軍隊ですか。

先生 そう。公式の宮廷護衛軍団です。事実上、日本軍の指揮下にあった。一九三四年の編成で見ると、団長郭文林以下、歩兵四一五名だった。

五郎 すると護軍とは?

先生 溥儀の私兵です。溥儀としては、いずれはこれを軍の中核にするつもりでしたが、日本軍にとっては目の上のたんこぶだった。

五郎 つまるところ、溥儀は侍衛官、護軍、禁衛軍という三重のバリヤーで守られていたということになりますか。

先生 そうです。この場合、侍衛官と護軍は一体と考えていいでしょう。

五郎 護軍は何人ぐらいだったのですか。

先生 最盛期は一隊百人で三隊あった。第一隊が天津時代からの護衛で、ほとんどが滄州人です。第二隊は東北地方で召集した蒙古人、第三隊は満州八旗の師弟だった。

五郎 すると第一隊は全部、霍殿閣の門人、つまり八極ドラゴンと考えていいのですね。

先生 そうですね。

PP.196-197

つづいて、大同公園事件(本書では「護軍事件」)について書かれた部分。

五郎 霍殿閣は自分の部下と関東軍兵士がけんかした護軍事件で首になり、恨みを呑んで憤死したというのは本当ですか。

先生 『武術人名事典』(人民体育出版社一九九四年)には、そう書いてある。これによると、霍の生没年は一八八六~一九四二年。五六歳でなくなったことになる。武術家としてはまだ死ぬには早い年齢です。ちなみに霍慶雲の生没年は一九〇四~一九八七年で、八三歳の長寿を保った。しかし、私は霍殿閣憤死説に疑問を持ってね、あらためて護軍事件を調べてみました。

五郎 そもそもどういう事件だったのですか。

先生 護軍事件は一九三七年のある日曜日に起きた。場所は大同公園といってのちの長春人民公園です。通説によれば、ここで遊んでいた護軍兵士二〇名がボート乗り場のもめ事がきっかけで大乱闘になった事件とされています。この二〇名は武術にすぐれ、二〇〇名の日本兵を追い散らしてしまう。すると、騒ぎを聞きつけて憲兵が軍用犬を連れて取り締まりに来た。犬を放つと護軍兵士はあっという間に蹴り殺してしまった、という話になっています。

五郎 すごいもんですね。

先生 ところがね、愛新覚羅・毓(山+唐)という人の手記「満洲時代の溥儀」によると、一九三七年六月二八日の日曜日、護軍兵士が大同公園のボート売り場で列を争ってけんかになったのは事実だが、あたりには軍人などいなかった。相手はただのピクニックをしていた民間人男女だったという。これによると犬を蹴り殺したとは書いてあるが、軍用犬とは明記されていない。

五郎 げえっ。すると、ずいぶんイメージが変わってしまいますね。その愛新覚羅なんとかという人はいったい何者ですか。

先生 溥儀の遠戚で護軍の第二隊にいた人です。公園のけんかには参加していないが、帰隊した兵士に聞いたといっている。私はこの手記を『末代皇帝秘史』(香港・中原出版社一九八六年)で読みました。北京の文史資料研究委員会と提携して出版した「近代風雲録シリーズ」の一冊です。グラビアには溥儀の珍しい写真も出ている。後ろに霍殿閣を従えた例の写真もありますよ。

五郎 でも、八極ドラゴンが民間人とけんかなどするでしょうか。

先生 ちなみに溥儀『わが半生』では、「この事件は関東軍が挑発したものだ。あの私服を着た日本人は関東軍がよこした男で、双方の乱闘での負傷者のなかには、関東軍参謀が二人いたし、蹴殺されたシェパードは関東軍の軍用犬だった」と書いている。つまり、公園にいた人びとは軍人の格好をしていなかったが、そのなかに関東軍工作員がいて事件を意識的に引き起こしたというわけです。

五郎 先生、それが真相じゃないですか。

先生 さあ、そこのところをいまひとつ確認したいと思って研究中です。

 PP.199-200

 これは1999年の著作。この時点でここまで調査されていることに、本当に驚く。まだつづきがある。以後は、事後処理について書かれた部分。

五郎 けんかはどうなったのですか。

先生 結局、護軍兵士たちは宮内府駐在の日本憲兵に逮捕されてしまった。通説によれば、憲兵隊は拷問まで加えるような過酷な取り調べをしたとされている。

五郎 どうしてけんかなのに、そんなひどい取り調べをするのですか。

先生 反満抗日運動をしたと疑ったのです。

五郎 その疑いは晴れたのですか。

先生 疑いは晴れたが、騒動を引き起こしたというので、かなり重い処分になった。李国雄回想録とは別の「李国雄筆述」(一九五一年)という記録では、「警衛処長一名、隊長二名が免職、排長二名と兵士十数名が満洲国境外に追放された」となっている。ここに氏名は出ていない。

五郎 警衛処長か隊長に霍殿閣は入っていませんか。

先生 霍殿閣は侍衛官で、職務としては関係ないと思う。警衛処長は佟済煦。護軍隊長は第一隊呉天培、第二隊李国雄、第三隊佟済煦兼任だったようです。

五郎 すると、警衛処長と隊長二人が免職ということは護軍の隊長全員が首を切られたということではありませんか。

先生 そうですね。ですから、この事件は溥儀の私兵をつぶす日本側の陰謀だったという通説が生まれたのです。事実、このあと、護軍は皇宮警衛処に改組され日本人長尾吉五郎が所長になっています。

五郎 やっぱり陰謀だったんだ。

先生 私は突発的なけんかだったと思いますけどね。謀略いしてはへたすぎますよ。『満州国軍』(蘭星会一九七〇年)に引用されている禁衛軍発足時の日本側記録には、「護軍は私兵だから組織論からは好ましくない。本来は皇宮警察にでもしたほうがよい。しかし、わずらわしい理論闘争によってそこまで皇帝を追いつめるべきではなく、皇帝の安心する軍事的現状を追認するほうが日満関係上得策である」となっています。これは満州国最高顧問多田少将の意見だった。

五郎 でも、護軍事件をきっかけに、事実は日本側の思惑どおりになったではありませんか。

先生 しかし、事件の一年後、侍衛長工藤忠、侍従武官長張海鵬の請願によって、護軍は復活するのです。けんか処分に乗じて護軍を武装解除したという説もあるけれど、これは軍隊から警察的な組織に変えたから、それにともなって銃を取り上げ拳銃携帯にしたのです。これだって一年後には、現状に復帰したはずです。PP.200-202

 

4.李国雄の口述

 ここでは、事件で処罰を受けた護衛軍の第一隊の隊長の名前は、魏樹桐になっている点は3.と異なる。李国雄自身は第二隊長で間違いないようだけれど、事件当時は療養のため北京にいたのが、事件のために戻るよう命じられたらしい。ということで、彼自身は現場にはいなかったようだけれど、彼が聞いたところでは、事件のきっかけを作ったのは、貸ボートの管理をしていた朝鮮人で、四人乗りのボートで四人で漕ぎ出したら、「四人はだめだ」といい、戻って三人で漕ぎ出すと「三人はだめ」、しまいには「二人乗りもだめ」と言いだしたらしい。ところが周囲の日本人は四人でボートに乗っているので、護軍がついに堪忍袋の尾を切ったのだという。この管理人が、なぜこんな意味不明な嫌がらせをしたのかは不明。ともかく、そうやって口論をしていたところに、酒に酔った日本人が絡んできて、抵抗せずに我慢していたけれどその日本人が池に落ちたりして、騒ぎがさらに広がり、そのうちのひとりが犬を連れた憲兵の犬を蹴り殺してしまったらしい。

  なお、李国雄は『わが半生』では大李として登場。

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李の口述は、郭の供述書(3)とやや異なり、護軍の中には、河北からきた武術家たちとみられる人々が含まれていたらしい。(この点、3.に通じる。)設立当初の人選は郭が記しているとおりで、徐々にこうした人々を補充してきたということかもしれない。

护军中许多人来自武术之乡——河北沧州,又有武林世家刀枪棍棒的霍家真传,颇让人望而生畏。尤其那些吃过大刀片苦头的日本侵略军,听说护军肩上背着那东西就不免胆战心寒,怕早晚成为刀下之鬼,遂由关东军司令部下令,通知伪满军政部,取消护军的大刀片。我不知道他们是怎样通过佟济煦跟溥仪说的,反正开来一辆大汽车把亮闪闪的大刀片全都拉走了。后来还觉得不安全,连三八大盖枪也给缴了,机枪当然更不许用,只准每人随身带一把小匣枪。与此同时还撤下了伪满陆军的小钢炮、重机枪等大件武器,只准留用大盖枪和轻机枪。护军在内廷中站岗的范围也日渐缩小,先缩到只守卫中和门以内,连勤民楼的岗位也交给了禁卫军。继而又取消了西花园炮楼和其他两个哨位,最后,中和门也不用护军管了。给护军留下的,只有缉熙楼及其周围一块地方。

 

大同公園事件に関する部分

关东军对护军的警觉和限制,终于酿成了数年后的大同公园事件。其事发生在1937年6月27日,那是星期天,除第三队护军值勤外,其余两队放假,有二十多人约会上大同公园游玩。其中四个人花钱雇了一条船,但管船的朝鲜人找别扭,当小船划出十多米时,他就在岸边叫:“四人的不行!”护军只好下船一人,另外三人刚刚划走,管船的又招呼:“三人的不行!”护军又下来一人,不料没等划走,那个朝鲜人又喊叫起来:“两人的不行!”护军气急了,同他讲理,指着湖内四个日本人共划的船,责问管船人为什么不平等待人?那天有关东军的和伪民生部的日系官员等二百余人正在公园内开运动会、野餐,管船人也喝了酒,他被护军问得张口结舌,就动野蛮的,抓起一只啤酒瓶照护军头部砸下,瓶子碎了,颇有功夫的护军并未受伤。管船人吓得躲进卖船票的房子里,任凭护军在外边叫也不敢出来。这时走过五六个日本醉汉,不问青红皂白,对护军举手就打,护军受制于规矩并未轻易还手。其他日本人以为护军好欺负也一起动手,几人对一人。护军忍无可忍,乃使出全身解数,打得日本人落水的落水,倒地的倒地。护军们正想就此罢手返回驻地,却在桥头被一名手牵狼狗的关东军宪兵队少校截住了。

“你的什么的叫?”

“不用你管!”

那名少校一把抓下护军某排长的帽子,护军们急了:那里边记着姓名、年龄、编队啊!遂不顾一切地冲了上去,把少校放出的军犬一脚踢死,一场大混战又发生了。那名少校被护军在胸脯上重重地踹了一脚,他带来的几十名宪兵也有不少受伤了,护军们乘着混乱夺路而走,不料此时已经闯下大祸。

 

事件後の処置

 事件後、護軍は規模を縮小して、皇宮近衛に改変され、李自身も、近衛の衛尉に任命されたと記す。皇宮近衛は、1937年にはじめてできたもので、皇宮警衛と名前を変えて、続くが実態としては、数名の「大頭兵」を残すだけだったという。

 

大同公园事件,给了日本人一个机会,使之能借这根导火线引爆,一举摧毁护军,从根本上瓦解了溥仪精心培植的妄图用于复辟事业的武装力量。

大同公园事件发生的当天,溥仪接到关东军宪兵队打来的电话,要求把参与打架的几名护军送到宪兵队“问问经过”,溥仪遂命佟济煦执行。护军一到即遭严刑拷问,偏偏执审者正是那名在公园捱打的少校,只见他解开衣扣大声喝道:“你们看看!”胸脯上的伤痕使他变得更加凶恶,硬给护军扣上“反满抗日”的帽子,还追问受谁指使?意在问出护军领导人是幕后策划者,以便为瓦解这支护军找到充足的理由。一名护军不服逼供,干脆大声回答说:“打你们,早就想打你们呢!”在场的翻译不等他说完,上去给他一记耳光:“不许你胡说八道!”可他却没有把护军的话照直向宪兵少校翻译,他是好人,在关键时刻掩护了护军。少校问不出什么,就强迫护军脱光了衣服练操,故意羞辱人。至于灌凉水、用皮鞭抽打,实行惨无人道的酷刑,那就更不在话下了。最后由当时任关东军宪兵队司令官的东条英机,通过吉冈安直向溥仪提出几项要求:(1)撤换护军领导人;(2)把参与打架的护军撵出满洲;(3)派人向被打的日本宪兵当面道歉;(4)保证今后不再发生类似事件。溥仪乖乖照办,有两名护军排长和十多名护军士兵被立即赶出伪满,护军各层领导都换了日本人,原来意义上的护军,至此已不复存在。

上述过程我是听二队护军士兵事后跟我讲的,因为当时我请病假三个月,正在北京治疗。然而,日本宪兵队并没有放过我,被革职的护军领导人中除统领郭文林和佟济煦外,还有当时任第一队队长的魏树桐和我。我在北京收到“即返‘新京’交代工作”的电报后回到长春。

其实也没有什么好交代的,小卖所的结余款在我手上,还有一些护军的饷银在我手上。他们习惯于关了饷先不拿,用时才来取。总共约有六七百元,我全数交给了护军队部。此后,护军编制缩小,名义改称“皇宫近卫”。在这里要注意:“近”、“禁”二字不可混淆。由伪满军政部直接统辖的禁卫步兵团,在伪满十四年中始终存在,它的任务是保卫皇宫外围,不涉内廷。皇宫近卫则是护军演变的,1937年才出现,隶属于伪宫内府。就在那年,我被任命为皇宫近卫的“卫尉”,其实连我自己也不知道这算什么官?反正就像没那回事。皇宫近卫延续到伪满垮台前,又改称“皇宫警卫”,实际就剩下几个大头兵了。

护军改称皇宫近卫以后,当即撤出内廷全部哨位,日本宪兵几乎随时可以进入内廷。一天,他们借口“夜间有人跳墙”,便把内廷彻底搜查一遍。溥仪不但无权干预,事后还派严桐江上日本宪兵队致谢,说日本宪兵“关心”他,“拱卫”内廷有“大功劳”。

转为皇宫近卫的原护军士兵,一个个都消沉下去了。这里仅举一例:有位蒙古护军不愿再当受气的皇宫近卫。临回家前携枪闯进头道沟一家妓院,面对粉面红颜的妓女们,高声叫道:“郭老爷(自称)今天要回国,你们这些婊子都不许接待旁人,陪着郭老爷玩儿!谁若是不愿意,抬头看看这个(指枪),立即打死她!”妓女们吓坏了,百依百顺地陪他玩儿到深夜。其间有人偷着溜出去向警察署报告,引来几名日本警察。来者见眼前这条蒙古大汉怒目圆睁,持枪而立,竟然退避三舍,没人敢动手。那护军更加胆大起来,迅速脱去军装并换穿携来的便服,然后连开数枪,乘乱溜出屋子跑到后院,又用脱去的军装裹住枪支往水沟里一塞,就翻墙跑得无影无踪了。

 

5.愛新覚羅・瑞仲の証言

 以下の記事では、事件の現場にいたという、愛新覚羅・瑞仲が証言している。

 彼によれば、日本人の警察が、警察犬に地元の女性のスカートを引きちぎらせたりしており、護軍たちがそれに反感をもったところ、それに気付いた警察官が、犬をけしかけてきたので、仲間の一人が犬の両足をつかんで、引きちぎってしまったのだという。現場にいた人の「証言談」のはずなのに、なぜか一番ウソっぽい。記事によると、この人の複数ある証言談も、内容が互いに矛盾しているところがあるらしい。

 記事は、王慶元の『偽宮見聞瑣記』によりつつ、事件の真相を以下のように記している。これによると、関東軍中佐の連れていた犬を、滄州出身の劉寶森が一丈あまり遠くに蹴り飛ばして即死させ、中佐が劉に向かってくると、劉はこれに反撃して中佐を退散させたほか、李芝堃などが、日本人十数名を負傷させた。

關東軍中佐帶領一隻狼犬,撲向護軍霍乃光(扶餘縣人)時,恰值滄州人劉寶森在側。劉體格魁梧,臂力過人,武術功底較深。抬腿一腳,把狼犬踢出一丈多遠,立即倒地而死。日中佐猛向劉撲來,被劉三拳兩腳打得鼻青臉腫,狼狽而逃。另外李芝堃等人,一連打傷了日本人十幾名,護軍只有三人受輕傷。

https://read01.com/mELkgoK.html

なお、 瑞仲は、『わが半生』では、小瑞として登場。

 

https://read01.com/zh-tw/mELkgoK.html?fbclid=IwAR0y_hpqn5CB8z1kKtpfNovYh0id4J1ebsqPVie3BSoVXYK0fFpjw4Jo2XU#.XbVeI5L7SUl

 

6.『満洲国官吏録』

国会図書館のデータベースには、デジタル化されている『官吏録』が複数ある。現在確認できるのは以下のとおり。

 大同2年(1933)6月30日現在(発行も同年)

 康徳元年(1934)12月1日現在(発行は1935年)

 康徳二年(1935)12月1日現在(発行は1936年)

 康徳四年(1937)4月1日現在(発行も同年)

 康徳五年(1938)4月1日現在(発行も同年)

 康徳六年(1939)4月1日現在(発行も同年)

 康徳七年(1940)4月1日現在(発行も同年)

 康徳七年(1940)11月1日現在(発行年も同様)

 

 上記の『官吏録』の中で、八極拳関係者としていまのところ確認のできた名前は以下のとおり。

 ・霍殿閣

  ①で執政府侍衛官処三等侍衛官に名前があり、②以降は、基本的に「侍衛官」で、④、⑤のみ「二等侍衛官」となっている。あくまで侍護官であって、ときどきみかけるけれど、侍衛武官でないことはいちおう注意しておく。

  大同二年には、侍衛官長のポストは置かれていないけれど、康徳元年以降は「侍衛官長」「侍衛官処長」は一貫して工藤忠。つまり、天津で霍殿閣が採用されるきっかけになった日本人武士「工藤」は、組織上は一貫して彼の上司になっている。このことは、天津における工藤とのエピソードは、「対戦」というよりは、商衍瀛の紹介でつれてこられた霍殿閣の腕前を、工藤自身が試して採用した、ということのほうが実態に近いようにも思われる。

出典:

 写真の説明はありません。

 ・霍慶雲

 ③④⑤に「皇宮近衛」の一等衛尉佐、⑥⑦では警衛佐として名前が見える。

 この間、直属の上司は衛尉長・奎福(③④)、教練官・王琦(⑤)、皇宮近衛処長・長尾吉五郎(⑥⑦)と変わっている。(侍衛官付の霍殿閣とは指揮命令系統が違う。)

 長尾は、康徳五年、⑤の官吏録で佟済煦の後任として警衛処長になっており、その翌年から皇宮近衛処長として、霍慶雲(以下の高湘亭、卞廷彬、張公田、連雲亭、卞廷芳も同じ)の上司になっている。

 ・高湘亭

 ③④は霍慶雲と同じく「皇宮近衛」の一等衛尉佐、⑤では衛尉、⑥⑦では警衛佐に名前が見える。③④では名前の掲載順は霍慶雲の後だけれど、⑤で一時的に霍慶雲よりも上の役職についており、⑥⑦では再び同格になっているけれど、掲載順は高湘亭が先にきている。 

・卞廷彬

 霍慶雲、高湘亭と同じ皇宮近衛の二等衛尉佐(③④⑤)、警衛尉(⑥⑦)

・張公田

 霍慶雲、高湘亭と同じ皇宮近衛の三等衛尉佐(③④⑤)、警衛尉(⑥⑦)

・連雲亭

 霍慶雲、高湘亭と同じ皇宮近衛の司事(③④⑤)、衛長⑥

・卞廷芳

 霍慶雲、高湘亭と同じ皇宮近衛の一等護衛士(③④⑤)、衛長⑥

・霍錫齢

 皇宮近衛の一等護衛士(③④⑤)、衛長⑥

・霍連明、劉芝明

 皇宮近衛の衛長⑥

 

 李国雄は、皇宮近衛は1937年にはじめて出来たかのように証言しているけれど、『官吏録』を見る限り、それ1935年時点ですでに皇宮近衛という組織は存在している。

 

 5.の記事に引用されている、王慶元の『偽宮見聞瑣記』で、犬を蹴り殺したとされる劉寶森の名前は(肩書のなかった人のためか)『官吏録』では確認できなかった。

 

なお、護軍とは直接関係はないと思われるものの、軍政部(康徳5年以降は治安部軍政司)の近衛

大同二年 記載なし

康徳元年 禁衛歩兵団 団長 郭文林

康徳二年 禁衛歩兵団 団長 郭文林

康徳三年 禁衛歩兵団 団長 郭文林

康徳四年 禁衛隊 隊長 任広福

康徳五年 禁衛隊 隊長 于宗謙

康徳六年 禁衛隊司令部 司令官 李文炳

康徳七年  記載なし

 

 

とりあえず、今回のメモのまとめ。 

・『官吏録』には、宮内府にも軍政部(軍政司)にも、護衛軍に相当する組織名は見当たらず、その意味では、まだあまり確実なことはいえないけれど、いずれにしても『官吏録』を見る限り、侍衛官の霍殿閣や、皇宮近衛としての霍氏一門が、大同公園におけるトラブルをきっかけに排除されたということは確認できなかった。よって、霍殿閣が「護軍事件で首になり、恨みを呑んで憤死した」というのも、史実とは異なると考えざるを得ない。

・皇宮近衛を束ねる警衛処長が佟済煦から長尾吉五郎にかわったことは、確かに大同公園の事件と結果と関係があるかもしれないけれど、その後も、皇宮近衛に残った人たちは昇進しているようで、冷遇されたということは確認できない。関係者らしき人物の中には、事件後の『官吏録』にはじめて名前が出てくる人もいる。

 

以下は、若干の余談。 

7.佐野眞一甘粕正彦 乱心の曠野』 (新潮文庫版)

 この本では大同公園事件についての言及はなかったものの、宮内府警衛処長の人事に関し、当初、関東軍が長尾を候補者として挙げたところ、溥儀は、甘粕正彦が適任ではないかとこたえていたことがわかり、興味深い。

 溥儀の通訳だった林出賢次郎が残した膨大な記録(「厳秘会見録」)を読み込んだ國學院大學准教授の柴田紳一氏の研究論文(「皇帝溥儀と石原莞爾甘粕正彦」)が「國學院大學日本研究所報」(Vol.33 No.3)に載っている。

 これによれば、昭和十二年十一月一日、溥儀は関東軍指令官兼駐満大使の植田謙吉と林出の通訳で会談した際、甘粕を自分の側近に起用したいとの意向を伝えている。その会談で植田は、宮内府警衛処長には長尾吉五郎が適任だと述べている。長尾は甘粕の後任の民生部警務司長で、溥儀の訪日時の警護責任者もつとめている。宮内府警衛処長は、日本でいえば皇宮警察のトップにあたる。

 これに対して溥儀は、「警衛処長の地位ハ常ニ自分ニ接近シ重要ノ地位故宮中ノ事情ニ通シ其人格性質等ニ就テ自分ノ知ツテ居ル人物カ宜敷イト思ハルルノテ自分トシテハ甘粕カ適当テハ無イカト思フ」と答えている。

 溥儀は甘粕の登用に関して反対する声があることも意識して、「彼カ関東大震災ノ際間違ヒアリ投獄セラレタルコトヲ以テ宮中ニ奉職セシムルコトヲ不適当ナリト主張シ居ルモ彼ハ既ニ建国ノ初メニ宮中ニ奉職セシコトアリ」と述べている。「建国ノ初メニ宮中ニ奉職セシコトアリ」とは昭和七年に宮内府諮議に就いていることを指している。・・・PP450-451

 

なお、友人によると安彦良和の漫画『虹のトロツキー』でも、この大同公園事件がでてくるとのこと。ファーストガンダム世代としては興味あるけれど、いまのところ未確認。

 

2020.2.29

冒頭部分に、新京の動画リンクを追加