中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

「宇文武社火」、山西省国術省考、国術国考の山西省入賞者など

旧正月のイベントに関するニュースの中で、山西省太原市で行われた「社火」の一環として、宇文村の「宇文武社火」が披露されたというニュースが目にとまった。

www.chinanews.com

記事によると、「宇文武社火」は実は形意拳の一種で、関係者の張万栄は民国十八年に中央国術館の行った「国术比赛」に参加して、第二位に入賞したとのこと。

 

民国十八年に中央国術館が行った国術比賽というと、第一届国術国考のことかと思われるけれど、手元の史料(注1)では第一回国術国考の関係者(最優等15名、優等37名、預試200名)の中にそれらしい名前を確認できなかったので、張万栄の名前をネットで調べてみたら、以下のブログに紹介されている「山西国術旬刊」の記事の中に、山西省が行った省の国術考試のうち、第二回(民国十八年開催)の「正取十名」の中に張萬榮と出てくるのが同じ人物のことではないかと思われる。

 

1934年的山西国术旬刊中的范铁僧前辈(武士名单)_西陵龙德_新浪博客

以下の画像の出典は同ブログ。

 

 

ネット上の記事には、南京の国術国考に、この張万栄を含む16人(うち15人が形意拳関係者)からなる代表団が派遣されたと書いているものあるけれど、張万栄が第一回国術国考に参加していたのかどうかは確認できない。

ちなみに、第一回国術国考の最優等15名、優等37名中、山西関係者とわかるのは「中等」82名中、以下の三人。

呉欽霖 三十九歳 山西陽曲  

白文英 二十九歳 山西鄕(?)馳

石玉璽 二十六歳 山西文水

 

このうち、白文英と石玉璽の二人は、「山西国術旬刊」の記事の中で、民国十七年に行われた第一回国術省考の「武士正取五名」の中に名前が見える。もう一人の呉欽霖の名前は同史料中に確認できないけれど、「正取五名」のなかに張慶霖という名前があり、苗字は違うものの、欽霖と慶霖の音は似ていると思われ、もしかすると同一人物の可能性も否定できない気がする。

 

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ちなみに上記の16人の代表団について、すべての名前はわからないけれど、いくつかの記事に李連成、韓栄華、王鴻、張安泰、李培昌、白三貨、郭鳳山などの名前がみえる。

 

このうち、たとえば王鴻は1933年に山西省の第三回武術擂台大賽において優勝したあと山西省を代表して南京で全国武術擂台大賽に参加、決勝戦にまで進出し三戦のうち二勝したとされるけれど(注3)、「山西国術旬刊」の記事によれば、山西省で第三回省考が行われたのは民国二十年(1931年)で、このときの「正取十名」の中に王鴻ほか、

張安泰、郭鳳山の名前が見える。

 

中央国術館側の史料と付き合わせると、第2回国術国考で入賞した山西省関係者は以下の二人で、ともに省考の中でもその名前を確認できる。

 

国芳 (第2回国術国考の拳術丙等 /第2回省考の正取十名の一人)

聂景星 (第2回国術国考 長兵丙等 /第3回省考の正取十名の一人)

このふたりはともに王有祥(李洛能の子の李太和に師事)の弟子。

 

王鴻は南京から戻ると「武術界の同仁」と山西国術促進会(王新午が会長、王鴻、陳際徳(李復禎の弟子で李復禎が喬家で「護院」をしていた頃、その身の回りの世話を担当)が総教練を務める)を設立。

 

郭鳳山(侯树林に師事)は、南京から戻ると陳際徳が設立した楡次国術館の副館長兼国術総教練を経て、山西国術促進会で̪師弟の侯俊賓(字がつぶれていて判別できないけれど、第2回省考の「備取十名」の中に「侯〇濱」とある人物か)とともに形意拳を教えているらしい(注4)。

 

「宇文武社火」のニュースから、思わぬ情報が得られたけれど、この作業を通じて、前後3回にわたって行われた山西省の省考と、中央国術館の国考の関係が、かなり入り混じって、年代的にもぐちゃぐちゃになって伝わっている実態を垣間見た気がして、史料を確認する必要性を痛感した。

 

それにしても、山西省で三回にわたって行われた国術省考の中で、「備取」とはいえ、一人だけ女性として唯一名を連ねている許淑媛とはどんな人だったのかも気になるところ。

 

(注1)

童旭東編著『孫氏武学研究』に影印の形で掲載されている中央国術館『中央第二届国術国考専刊』の「附第一届国術国考考試人員録」により確認。

同じく「中央国術館二十二年第二届国術国考術学科成績冊」

 

 

(注2)

張万栄が参加した国術比賽(打擂とも)については、「民国十七年(1938年)」とか、そもそもありえない表記になっているものも散見される。

百歩譲って、民国十七年とあるのが民国二十七年なら民国紀元と西暦が対応するけれど、この年には中央国術館は、すでに南京では活動していないはずなので、彼が1938年に南京で行われた何らかの比賽に参加しているのだとすれば、それはそれで別の問題を呼び起こすことになるはず。

 

(注3)

たとえば以下のような記事。

 

 …1933年(民國廿二年),山西省舉行了第三次武術擂台大賽,王鴻恩師再次奪魁取得冠軍,並代表山西赴南京,參加全國武術擂台大賽。王鴻恩師經過激戰進入決賽,取得三決二勝的優秀戰績。

王鴻 -山西六合心意拳拳師: -華人百科

 

(注4)

郭凤山,字玉马,山西榆次郭家堡人,后迁于榆次荣村,生于1894年,卒于1945年。先生自幼聪慧,性耿直,亦豪爽,极痴武。从师于著名形意拳大师候树林【荣村三】习形意拳术,苦练十余载。得其窍,艺乃成,为榆次十虎将之首,“大杆子”技艺尤精。民国二十年(1931年)奉师命参加山西第三期武术省考,经选拔,获优胜奖,民国二十二年(1933年)即代表山西参加南京第二届国术比武(擂台赛),因在擂台比武较技,功大伤人。遭帮派势力威胁报复,有同乡愤慨求助于山西籍政要孔祥熙,孔知其事,逐派一连卫队护送回晋,1934年榆次国术馆成立,特聘先生为副馆长兼国术总教练,同年山西国术促进会亦聘其与师弟侯俊宾为形意拳组教练。亦名列山西国术正选十大武士之列,同期参加选拔的师弟王瑛获得十大备选武士之列。

https://kknews.cc/culture/o5vyllm.html