李想白「支那に於ける「國術」の流派に就て 」など 国会図書館デジタルコレクション2
先日、国会図書館のデジタルコレクションを調べたとき、あまり意識していなかったけれど、検索範囲が「インターネット公開」となっていたようで、検索範囲を、「図書館送信資料」に広げて検索してみたら、違うものがヒットした。個人PCではアクセスできないので、指定図書館になっている最寄りの図書館までいってみた。
新たに確認した資料は以下のとおり。
(引用は、現代風の表記に改めた。)
1.支那に於ける「國術」の流派に就て / 李想白(大日本体育会『体育日本』1940年5月)
1940年といえば東亜競技大会の年。ウィキペディアの説明では、それまで行われていた極東選手権競技大会(現在の東アジア競技大会)に満州国の代表を参加させようとしたことで日本と中華民国が対立、新たな枠組みとして構想され、そこに紀元二千六百年記念行事と1940年東京五輪開催地返上が絡みつつ開催されたのが、東亜競技大会らしい。
この文章は、6月から開催される競技会(国術代表団も参加)を前に、その紹介を意図したものらしい。
執筆者の李想白氏については、「在北京」 とあるけれど、朝鮮半島生まれの人で、大日本バスケットボール協会の設立(1930年)の発起人の一人らしいけれど、国術との関係はいまのところ不明。東京女子体育大学講師の及川祐介氏が研究されている模様。
この文章では、各地の武術を(甲) 黄河流域の武術、(乙)長江流域、(丙)珠江流域の武術に分けて、詳細なリストとともに紹介されている。
今回は「第一回」ということで、「次回にはその歴史というかその現況について略述してみる事にする」、と書いてあるものの、翌月以降の『体育日本』の目次を見る限り、連載が継続された形跡はない。
かわりに、8月号には、褚民誼による太極拳の紹介(後述)があり、その 冒頭に「…(国術については 引用者補)今回東亜大会に於いてその一端を知り得た人々も多いことを思ひ、これを参考に供する所以である。尚「国術の源流」に就いては本誌五月号の李想白氏の解説をご参照願い度し」とある。
「今ここにあげるものは或は現存せぬもの微衰なるものもあろうが、とにかく通常一般に行なわれている名称を、その種類とその地域によって分けて掲げてみる事にする」としてリストアップされているものの数は以下のとおり。 どのような調査に基づくものかは不明。
(甲)黄河流域
(1)独習拳術 90
(2)対手拳術 27
(3)独習剣術 90
(4) 独習刀術 79
(5) 独習棍術 42
(6)独習槍術 56
(7)独習雑項器械 56
(8)対手器械 37
(乙)長江流域
(1)独習拳術 46
(2)対手拳術 6
(3)独習剣術 3
(4) 独習刀術 3
(5) 独習槍術 3
(6)独習槍術 6
(7)独習雑項(器械) 13
(丙)珠江流域
(1)独習拳術 19
(2)対手拳術 1
(3)独習刀術 3
(4)独習雑項器械 7
(5)対手対術 5
このような整理のされ方だと、拳術と各種の武器・対練の対応関係などが見えなくなってしまい、「流派」の数はわからない。
後述する笹島恒輔『近代中国体育スポーツ史』では、郭希汾の「体育史」(民国8年-1919年、商務印書館発行)に紹介されている流派数(精武体育会が行なった調査に基づく模様)として以下を挙げている。
(ただし、手許にある郭希汾の「中国体育史」(1919年の影印本 発行は同じく商務印書館)に載っている流派数(具体的な名称の記載あり)と異同があるので、カッコにその数を記しておく。ただし、こちらには福建・広東については記載なし。)
黄河流域派
個人拳術 56 (36)
対手拳術 22 (14)
個人器械 75 (39)
対手器械 29 (24)
空手と器械 3 (3)
長江流域派
個人拳術 28 (15)
対手拳術 8 (3)
個人器械 31 (8)
空手と器械 1 (-)
福建・広東
個人拳術 15
対手拳術 3
個人器械 8
2.國術の槪念 / 褚民誼(大日本体育会『体育日本』1940年8月)
実際の文章のタイトルは「太極拳の概観」だけれど、データベース上は、(雑誌の「目次」の記載に従ったせいか)「國術の槪念」として登録されている。(そのため、キーワード「太極拳」ではヒットしない。)
この文章では、太極拳のポイントを
甲、生理観と心理観
乙、胸呼吸と腹呼吸
丙、柔は剛に克ち緩は速を制す
丁、蠻力を用いる事と分寸あること
の四点にわけ、7ページにわたって論じている。
文中、
「…欧州より国へ返ってから始めて呉艦泉に従って太極拳を習うようになった。以前は見分が不足のために不断に求めたが、既に太極拳を得た以上は体育はこれに尽きていると思いその他の拳術を求めなかった」
「中国の拳術は派別が多く、例えば「行意八卦」の如きは中国の昔の哲理の名をそのまま標榜しているが、鍛錬の方法は心理を重んじなかった。およそ心理と生理とは区別があって合一することは出来ない。然し身心相互の関係は如何なる学説といえどもこれを無視することは出来ない。特に心理のみを重んずるのは妥当でない如く特に生理のみを重んずることもまた偏畸である。蓋し生理と心理とは相互に影響し合い相互に命令し合うものである。…」
「…太極拳の力を用いないのは毫も力を用いないのではない。それは蠻猛、暴力を用いないだけである。強暴の力を用いず過分の力を用いないのは「無過」と云い、怠惰にあらず、忽かにせず、萎縮せず、自ら勇気を失わず、脆弱ならず「無不及」と云う、これが適当である。…」
などとあるのが興味深かった。これは日本に太極拳を紹介した文章としては、ほとんどはじめての本格的な文章ではないのだろうか。
なお、褚民誼の名前で検索してみたら、政治家としてのいろいろな言説とあわせて、益井康一 著『裁かれる汪政権 : 中国漢奸裁判秘録』というのがヒットした。死刑宣告理由などが記されており興味深かったのであわせてコピーを入手しておいた。
3.東亜競技大会関西大会番組(東亜競技関西大会事務所)
これによると、関西大会に参加した国術代表団の構成は以下のとおり。
※もとの冊子の印刷の悪さ、スキャン時の解像度の低さのせいだろうか、画面をいくら拡大しても判読できない文字があるのは残念。
監督:蘇健
指導員:許笑羽
選手:葉秉衡、曹達、楊巨才、丁文林、賀春全、藍田、李興亜、汪華亭、王宗[王+蘭](?)、喬栄林、毛〇(?)林、何葆(?)杲(?)
指導員に名前の出ている許笑羽は、尚雲祥の高徒で北平国術館の副館長などをされたらしい。形意拳のほか、佟連吉に梅花門を学び、著書には『少林二十四式』、『形意拳図解』、『形意拳講義』等があるという(人民体育出版社『中国武術人名事典』)。
『中国武術人名事典』には彼のほか、冊子に「賀春全」とあるのは「賀春泉」ではないかと思われるだけで、ほかに紹介されている人物はなさそう。
人民体育出版社『中国武術人名辞典』より、 許笑羽と賀春泉の項
東亜競技大会に参加した武術家の名前について、劉正は馬良団長以下、まったく異なる名前をあげており(「意拳史上重大疑難史事考」)、このリストを見て少し混乱している。小石川に来たグループと、関西に来たグループの二つがあったということなんだろうか?
ちなみに、劉正が上げているメンバーの構成は以下のとおり。
団長:馬良
団員:唐鳳亭、唐鳳台、関雲培、呉斌楼、方枝林、郭憲亜、張思賛、励勤、馬祖仁、任希昉、李広遠、壟永福、王保英、王栄標、王侠英、王侠林、宝善林、陳徳録
2016.11.28追記
その後の調べで、東京大会の番組表も、国会図書館に所蔵されていることがわかった。デジタル化はされていないのか、本館にゆかないと閲覧できないのが残念。
東亜競技大会番組 (大日本体育協会): 1940|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
4.申報年鑑 民国25年版 申報年鑑社 編 (申報館售書科, 1936)
110ページに「國術」として、「中央國術館二十四年份各省市縣館一覧表」(廿五年三月中央國術館編審処調査)の表が載っていたのでコピーをしてもらった。
5.支那の武術と國術(植野嘉公 講道館『柔道 』1941年6月)
馬良、褚民誼、大刀隊、太極拳などの語が見え、なかなか興味深い。
記事では、国術の中で槍術は流行らないようだと書かれているけれど、1.にあげた李想白のリストでは、刀、剣に劣るとはいえ、黄河流域だけで56の槍術の名称が挙げられており、「形式主義」と断定している部分も含めて、その見方はやや一面的かもしれない。
筆者の植野嘉公は南支調査会員、とあり、検索してみると「南方」という雑誌の昭和17年8月号に、「台粵北と贛南湘南の交通と運輸」という文章が掲載されているけれど、それ以上の情報は無し。
一部を引用しておく。
…少林寺は今も河南省の偃師縣五乳峯下に在ると云われているが現在どうなっているか詳かでない。今日少林會と云うのは別に少林寺と関係があるわけではなく、単なる武術興行の意味である。これらの武術は清朝末期までは相当実用にも役立ったであろうが、近代兵器の輸入と共に実用から離れて、しがない路傍の賣武藝(マイウーシー)や、膏薬売りの宣伝道具に使われるに過ぎなくなってしまっている。
ところが、何事にも旧習破壊でなければならないとまで思われた国民政府時代に至って、不思議にもこの古風な少林會式武術が復興したのである。而も国権を以てこれを奨励保護するに至ったのだから世の中は面白い。恐らくこれは、日本の柔剣道奨励の感化を受けたものであろうが、国民政府はこの武術に対して「国術」の名称を附し、官立の専門学校まで設けた。毎年十月南京で行われた支那のオリンピック即ち全国運動会は、日本の明治神宮競技に倣ったものであるが、その競技種目中にもこの国術が加えられている。
一体この旧式支那武術を大道芸人の手から国術にまで引上げるに至った功労者としては第一に元段祺瑞麾下の猛将馬良将軍を挙げねばならぬであろう。民国九年直隷派との争覇戦において段派に利あらず一敗地に塗るや、彼は軍閥商売(当時山東督軍)サラリと廃めて引退し、武術道場を開いて支那国粋武術の宣揚に努めた。民国十三年頃青島に於て日本側の武道大会に招かれ、一門を率いて臨場、大いに勇ましいところを試演した後彼は、「日本の武術は到底中国武術の敵ではない。」と豪語したそうである。
彼に次いで第二の功労者は褚民誼である。国民政府の委員であった彼は、国粋武術の奨励を図らんとして、政府に説いて上述の如く学校の設立、運動会競技種目加入にまで発展させることに成功したのであって、国術が今日あるのも全く彼のたまものと云っても過言ではないのである。
これより先に、国粋武術を、外に向っては別に宣伝しないで、黙々として軍隊に採用した人物に馮玉祥がある。会津の槍隊といった風に名物となり、又事実威力のあった大刀隊とはその事を云ったものである。尚昭和八年の長城戦で、我軍を苦しめたあの宗哲元の大刀隊は実に馮玉祥が創始したものである。
現在国術として最も普遍的なものは、右の大刀と、拳術である。…(略) 紅槍會の武器たる槍の方は、国術としてはあまり流行らないようである。
拳術は日本柔術の源流たる拳法と略同同様なもので、国術としては「太極拳」というのが主として用いられている。前述の褚民誼はその免許皆伝の腕前で、全国運動会には廔廔出演して大向うの喝采を博している。
総じて支那の武術は非常に型を重んじ、見た眼にはとても華やかで、芝居がかりであるところからしても、支那特有の形式主義で、実力は大刀隊の場合の外はその価値も頗るあやしいものであるが、褚民誼の主張するように、体育上には勿論有意義なわけである。然しながらこの有益な国術も政府の奨励とは反対に、又稍下り坂で、今日まだ依然として一部武藝者の専習区域を脱して居らず従って支那の青少年層にも普及していない。もしかりに将来復興する様な事があったとしても、根が形式主義ばっかりのオシナサンの事だから、形ばっかりで実際価値はと云うと、我が国の武道とか国術等の敵ではなく、まづまづよくいってスポーツ位には或る程度の発展を見る事はあるかもしれない。
6.近代中国体育スポーツ史(笹島恒輔著 新体育学講座 ; 第43巻 逍遥書院, 1966)
第8章第1節、第2節で、約4ページにわたり国術について紹介。最後は「現在中華民国・中華人民共和国では保健術として拳法を奨励している」と締めくくられている。
なお、国会図書館限定での閲覧資料として、文藝春秋の1944年12月号に、小杉放菴(小杉国太郎 船越義珍の最初の弟子)の「國術館」という文章が載っていることがわかった。
国会図書館までいくのはさすがに少し先になりそうだけど、どこかほかのところで見られないかなあ・・・。
小杉放菴記念日光美術館の公式ウェブサイト