中国武術雑記帳 by zigzagmax

当世中国武術事情、中国武術史、体育史やその周辺に関する極私的備忘録・妄想と頭の体操 ※2015年2月、はてなダイアリーより移行

2020年東京オリンピックの追加競技決定に関連して

8月3日、IOCの総会で、2020年の東京オリンピックにおける追加競技が発表され、空手が採用されることが正式に決まった。

www.huffingtonpost.jp

 

この決定について、中国のメディアも早速報じている。

空手を含む追加種目は、あくまでも2020年の東京オリンピックでの採用が決まっただけであって、今後のことは何ら決められていないけれど、中国のメディアの中には、これによって武術のオリンピック種目採用がより一層困難になったとか、永遠に不可能になったなどと報じるものもでてきた。

以下、いくつか目についたものをメモ。 

 

1.

捜狐体育の記事はわりと冷静。空手の海外普及は武術よりも早く、ヨーロッパ選手権も40回以上の実績を積み重ねていることなどを指摘している。

2016.sohu.com

 

2.

新浪評論の記事は、そもそも武術は中国国内で、「広場舞」などと比べても大衆の支持を失っていると指摘。そのような時代に、武術のオリンピック競技種目化に対し、いったいどれだけの人が関心をもっているのかと、非常にそっけない。

さらに、かつて武侠小説や映画に出てきた超絶的な武功と、テレビで見られるようになった格闘イベントの実際の戦いのギャップが、中国武術の神秘のベールを剥ぎ、「武術の本当の姿を明らかにしてしまった」と指摘している。

「特異功能」などといって一世を風靡した疑似科学が通じない世の中になってきていることなども指摘され、海灯法師、王林などの名前が挙げられている。

考えてみると、中国武術は、おばちゃん向けの大衆スポーツとしては「広場舞」などと戦い、青少年向けスポーツとしてはサッカーやテコンドーと戦い、格闘技イベントではムエタイや空手と戦い、オリンピックの競技種目としては、野球やゴルフと闘い、アクロバティックなスポーツとしては新体操やフィギュアスケートと比べられ…いろんなところに「敵」がいる。そのなかでも「広場舞」との闘いは、大衆基盤という意味では、最もゆるがせにできない大切な「戦場」かもしれない。

news.sina.com.cn

 

◎「気功大師王林」についての鳳凰網の特集ページ。海灯法師については以前にもメモしたので省略。

news.ifeng.com

 

◎武術の大衆普及の上での最大のライバル?広場舞

news.yahoo.co.jp

 

gunosy.com

 

3.

百度百家の記事では、現在の競技武術の海外普及は中国政府が強く後押しをしているにもかかわらずなかなか普及が進んでいないとしつつ、中国武術は空手やテコンドーのように海外で教室が運営できるビジネスモデルが成り立っていないと指摘。また、表演の高度化がすすむ武術は、格闘技・護身術としての実用性を求める海外のニーズに必ずしも対応していないと指摘している。競技種目化の過程でルール改訂を繰り返し、「技撃性」が薄まってきたことが、かえって関係者からの支持を得られなくなっているという分析については、うなづけるところがある。ただ、空手のビジネスとしての普及を日本政府が後押ししたという点については、よくわからない。

中国武术丢技击重表演自寻死路 不惜成本反入歧途 --百度百家

 

 4.

以下の全球功夫網の記事でも、日本の柔道や韓国のテコンドーの国際普及は、両国の官・民・商が一体となって普及を進めた結果であり、とくに空手道普及の背後には外務省と電通の影がちらつき、テコンドー普及の背後にはサムソンと現代がいるという。空手もテコンドーもあまりそういう目で見たことがないけれど、中国から見たらそういうふうに見えるということなんだろうか。

この記事では、柔道は国際化の過程で、日本の反対に関わらず青い柔道服が採用されているように、中国武術界は世界で認められるために自分が変わってゆく覚悟はあるのか、と問題提起している。作者としては改革を推進したいのか、伝統を守りたいのか、いまひとつわかりにくい。(タイトルからすると、たぶん前者なのだろう。)

www.qqgfw.com

 

いちいちフォローしないけど、たぶん、似たような記事はこれからもたくさん出てきて、さまざまな観点が示されるだろう。 

ただ、空手というライバルのいる2020年に武術が競技種目化されないことは、中国武術界としては織り込み済みで、もっと先を見越していると思う。そのための布石は、例の5か年計画の中でも示されているけれど、競技武術にしても、散打のような対抗性競技にしても、オリンピックにすり寄ってゆくために今後もルール改訂を重ね、いまとは違う姿になってゆくだろう。自分としては、そういう表面的な変化の中で変わらないもの、変わってほしくないものに目を向けてゆきたいと思う。